第13話 そこに勇気はあるか
メロディアス・フィオン。本人はメロディと呼んで欲しいと言ったので、そのように呼ぶ。
生まれは王国の外であり、旅の途中、祖父と共にこの国を訪れたが、途中ではぐれてしまったのだという。外国の人間など、当然子供たちには珍しいらしく、メロディはすぐに同年代の子たちに囲まれて、人気者になった。このくらいの歳の子であれば打ち解けるのも早く、最初は言動がぎこちなく思えた彼女も、すぐに朗らかな笑顔を見せるようになる。
「いい子ですね」
子供たちの注目があっさりと、よりレアリティの高い〝外国の子供〟にシフトしたことで、姫騎士殿下も解放されていた。質問攻めに合いながらも、ひとつひとつに丁寧に答えるメロディを見て、彼女はそう言う。
「外国の、どこから来たの!?」「んっとね、帝国の北の方にある、小さな村から」
「どのくらい遠いの!?」「すっっっっごく遠いよ!」
「すっっっごく!?」「ううん、すっっっっっっっごく!」
「海って見たことある!?」「あるよー」
「海の水って、しょっぱいの?」「しょっぱいっていうか、からかった!」
「ドラゴンは!? ねぇ、ドラゴンっている!?」「いるよ、見たことあるよ」
年頃は同じはずだが、経験から来る知識と度量の差であろうか。こうして見ると、メロディは子供たちよりだいぶ落ち着いて見えるから、不思議だ。
でも、それを決して鼻にかけるところはない。確かに、いい子だ。
「そうですねー……」
ショウタもしみじみと頷き、その横でアイカは遠い目をした。
「海とかドラゴンとか、私も見たことがありませんからね……」
「海ならありますよ、僕」
「えっ、本当ですか!? 海の水って、本当にしょっぱいんですか!?」
「しょっぱいというか、辛いですね」
子供たちとにこにこ語らっていたメロディであるが、しばらくして、一緒に身体を動かして遊びたいということになった。旅を続けているだけあって、アウトドア派らしい。すなわち、鬼ごっこの再開である。子供たちは、一斉にアイカを見た。アイカはにっこりと笑って、手をにぎにぎとさせていた。
鬼役はアイカが継続。新たにショウタとメロディが参加する。
アイカは庭の中央に立って、鍵盤楽器を思わせるよく通る声で、しかしどこか間延びした口調で、1から10までのカウントを始めた。子供たちは、蜘蛛の子を散らしたように、きゃっきゃと声を上げながら逃げ惑う。
見る限り、メロディは健脚だった。子供たちの中でも、一番素早くアイカから離れる。ショウタは、あえて一番遅い子供に合わせて、一緒に走った。
さて、姫騎士殿下のカウントが無慈悲な10番目を唱える。
先ほどまでもかなり手加減はしていたのだろう。しかしショウタの参加により、アイカはちょっぴり本気を開放した様子であった。芝生を蹴り、陽光を白磁の甲冑で照り返しながら、アイカは素早く駆ける。ショウタと小さな女の子が、10秒かけて必死で引き離した距離を、アイカはわずか0.2秒で詰めた。
「それが大人のやることですか!?」
「獅子は兎を狩るにも、と言いますよ、ショウタ!」
「あなたは人間でしょうに!」
ショウタは反射的に意識を集中させ、使うまいとしていた力を、思考領域からひねり出していた。
「だぁあッ!」
瞬間、空間がたわむ。アイカの身体に急激なる負担がかかり、女児に伸ばされた手がぴたりと止まった。
「さあ、今のうちに逃げて! 早く!」
「う、うん!」
ショウタは両手で空間を押さえ込むようにしながら、女児に叫んだ。全身から脂汗がにじむ。拘束にかかる労力は、先日の一件で相手どった盗賊どもの比ではなかった。不可視の圧力による拘束を力尽くで解除しようとする、アイカのデタラメなフィジカル。ショウタの表情は必死だが、アイカは割と涼しい顔をしているのだった。
もたもたと逃げる女児のもとに、先ほどショウタに『だっせぇ』と声をかけたクソガキ少年がやってきて、彼女の手を引く。
「兄ちゃん、やるじゃん! 見直したよ!」
「女の子を守れなくて何が男ですか!」
「同感だぜ! こいつのことは任せな!」
そうこうしている間にも、アイカはぎちぎちと、力への対抗を続けている。
「ショウタ、私も女の子だとは思いませんか!?」
「おっ、思いますけど!」
「見たくせに! 私の肌着姿!」
「!?」
その瞬間、ショウタの中で風化し難い、あの艶かしくもまろやかな思い出が蘇り、それは彼の意識集中において致命的な障害を生んだ。力の継続が途切れ、アイカは緩んだ拘束を強引に引きちぎる。指向性を跳ね除けられた不可視の圧力は、すべてショウタの身体へと還元される。結果、彼は吹き飛んだ。
アイカは、ハッとして、叫ぶ。
「だ、大丈夫ですか、ショウタ!?」
「だ、大丈夫です! あ、あたた……」
ところで、鬼ごっことは〝タッチ〟することで鬼役を交代するものであるからして、ぶっ飛んだ後、〝ずしゃあ〟と地面に転がるショウタに、鬼の役割は移行しない。鬼は以前としてアイカのままだ。
アイカは駆け寄り、膝を付き、ショウタを揺り起こそうとするが、それを躊躇する。
「ダメです……!」
「あの、お嬢様……?」
「今の私の手は血に汚れています。ショウタを介抱する資格は、ありません……!」
「ああ、タッチしたら鬼になっちゃいますしね……」
アイカははらはらと涙を流しながらショウタに謝る。
「うう、ごめんなさい。ショウタ……私は……」
「行ってください、殿下」
ショウタは上体を起こし、にこりと微笑む。
「ショウタ……」
「今は、僕のことは気にしないで……鬼としての責務を果たしてください。殿下」
「私は殿下じゃありません」
「あ、ハイ」
ショウタはひとまずガクリと地面に倒れこみ、アイカはしかしその頭を撫でることもできない現状を歯がゆそうにしながら、ゆっくりと立ち上がった。鬼ごっことは、なんたる残酷な遊びであろうか。鬼は、力尽きたかつての仲間に触れることすら許されないのだ。
別にアイカがショウタをタッチし、鬼役を移行したところでルール上一切の問題はないはずだったが、彼女はそうしなかった。
「お、鬼騎士だ……!」
子供たちの誰かひとりが、ぽつりと呟く。
事ここにいたり、子供たちが誰ひとりとして本気で怯えていないのは、それはそれで異常事態ではある。まったく、たくましい話であった。目の前の貴族騎士は確かに恐ろしいが、同時に『人間はここまで強くなれるんだ』という憧憬の眼差しが、子供たちにはあった。
「くっ、みんな逃げろ!」
クソガキ少年は、木の枝を拾い上げて叫ぶ。
「騎士の姉ちゃんは俺が食い止める!」
「ダメだ、ジョッシュ!」
「おまえひとりに良いカッコはさせられねぇ!」
少年の親友と思しき子供たちが、ぞろぞろと集まって密集陣形をつくる。彼らは孤児院でも年長組であった。自分より年幼い子供たちや、あるいは女子児童を守るため、自らの身体を盾とすべく立ち上がったのである。こんな彼らが騎士を目指すとは、まったく騎士王国の未来は明るいと言えよう。
「俺はデルオダート騎士王孤児院のジョッシュ!」
「同じくアロン!」
「同じくジャンマイケル!」
胸を張って名乗りを上げる彼らの姿を見るに付け、アイカは感慨深い表情で頷いた。腰元の剣に柄をかけ、鞘ごと高く掲げると、このように返す。
「子爵エレジーの子、貴族騎士アイカ・ノクターン。鞘付きで失礼ですが、お相手いたしましょう。未来の騎士たち!」
当然、剣はすぐに腰に戻したが、アイカは芝生を蹴り、本気の速度で少年たちに肉薄した。たとえ鬼ごっこであれ、たとえ相手が子供であれ、そしてたとえ鞘付きの名であれ、騎士としての名乗りをあげた以上、手加減は侮辱に相当する。
少年たちを正面から見据え、篭手を弓なりに引く。一番先頭に立つジョッシュという子供に、アイカは狙いを定めた。なるべく、優しくタッチしてやらねばならない。そのように考えていた時だ。
アイカですら反応が間に合わぬほどの、神速域の割り込みがあった。
それは、アイカからもっとも離れた安全域からの、突然の強襲である。風に飲まれるように、薄桃色の髪が揺れるのがわかった。その速度はまさしく風を追い抜き、音を抜き去り、光を置き去りにする。ジョッシュ達とそう変わらないほどの年齢の少女が、いつの間にか、アイカと少年たちの間に立っていた。
メロディ。メロディアス・フィオン。
ジョッシュめがけて伸ばされた腕を、メロディは自らの片手で受け止めていた。
「なっ……、メロディ!」
ジョッシュが驚きの声をあげる。だが、それ以上の驚愕を抱いているのは、アイカである。
アイカとて決して油断していたわけではない。騎士としての名乗りをあげた以上、彼女は常に全力本気だ。身体能力のみに限った話ではなく、あらゆる感覚神経も鋭敏に研ぎ澄ませた、いわば純粋なる臨戦態勢に、アイカはあった。
そのアイカをもってして、反応が追いつかぬほどの神速。ましてやその上で、拳を正確に片手で受け止めるなど、王立騎士団の戦略級騎士にも匹敵する身体能力と精密性であると言えた。
「な、なんでだよメロディ! 俺たちは男なんだぞ! 男は女を守らなきゃ……」
「誰かを守りたいと思ったとき、」
ジョッシュの言葉を遮り、メロディは、キッと顔をあげる。
「敵わない相手にも身体ひとつで立ち向かう。人はそんな気持ちのこと、〝勇気〟って呼ぶんだって」
その時、アイカはメロディアス・フィオンの表情を見て、理解する。この幼い少女の顔つきは、まさしく戦士のそれであったのだ。
アイカが拳を引き、メロディと対峙する。メロディは拳を握り、後ろの少年たちにこう言った。
「みんなの〝勇気〟、あたしが預かるよ!」
「メロディ……」
そこから少し離れた場所で、ショウタはようやく顔をあげていた。アイカの拳圧で吹き飛ばされ、全身が痛む。にこやかな笑顔と共に擦り傷の手当をしてくれるメガネの美人先生に、ショウタは確認の意味も込めてこのように尋ねる。
「あの、これ、鬼ごっこですよね……?」
「そうですねー。次の鬼は、メロディちゃんですねー」
美人先生は、なんだか嬉しそうにそう答えていた。
勇者とは、勇気の代行者である。
たとえ世界が暗黒に包まれ、絶望が覆い隠そうとも、人々の心の中には常に勇気という名の光がある。輝煌剣ゼペリオンの発現条件とは、闇に立ち向かわんとする人類の勇気であり、その勇気の担い手として、勇者が選別される。ゼペリオンは時として剣であり、槍であり、斧であり、あるいは本であり、靴であり、鎧であり、様々な形をもって〝選ばれしもの〟のもとへ訪れる。
竜人族に伝わる勇者の伝承だ。
伝承といっても、初代勇者が現れてからのものなので数百年かそこの短いものであり、そもそも伝え始めた人物というのも存命であったりする。シュランツという竜人族の老人がそれで、彼は初代勇者と肩を並べて戦った戦友のひとりであり、以降も輝煌剣ゼペリオンが顕現したという噂を聞いてはその地へ飛び、歴代勇者の生き様を見届けた、文字通り〝勇者の後見人〟である。
このたび、帝国北部の小さな村にてゼペリオンを携えた幼き少女メロディアス・フィオン。彼女が新たなる勇者であると知ったシュランツは、メロディアスと共に、冥獣神を倒すための果てしない旅に出た。
そして今そのシュランツは、グランデルドオ騎士王国王都デルオダートの王宮にて、年甲斐もなくわんわんと泣いているのである。
「うう、儂が……儂が川に落ちた入れ歯を探すために、メロディアス様から目を離したばっかりに! 申し訳ありませぬ、メロディアス様あぁぁぁ!!」
そして、そのシュランツ老人に冷たい視線を送っているのが、セプテトール・ラゾ・グランデルドオ騎士王陛下および、王国宰相ウッスア・タマゲッタラである。場所は謁見の間。
騎士王陛下は玉座に腰掛けているものの、肘掛けに頬杖をついて両足を開き、腰を深く落として目を半眼に開くという行儀の悪さっぷりで、騎士王としての威厳は完全にうっちゃっている。
「しかし、勇者メロディアス殿が、10歳の女児とはな……」
シュランツから聞いた言葉の大半が、セプテトール騎士王には信じられないものであり、何度もぼやきながらその言葉を反芻する始末である。
なにせ〝人類最強〟であり、同時に〝10歳の女児〟であるという、〝勇者メロディアス〟である。イメージというものが、全くと言っていいほど沸かない。そもそも、そんな子供に託さねばならない世界の命運というのが、一介の騎士としては非常に心苦しい限りだ。
「ところでシュランツ老、その勇者メロディアス殿と共に、我が国を訪れた理由というものを伺いたい」
騎士王陛下は、一向に泣き止む様子を見せない竜人族の老人に対して、そのように言った。
「我が国には冥獣魔族の出現は確認されていない。それでもときおり魔族は湧くし、魔獣も出るが、王立騎士団のみで十分対処が可能なレベルだ。そもそも余は、冥獣神の復活すら、貴公らの訪問予定と共に伺った始末でな」
「はい、お答えいたしましょう……。騎士王陛下殿……」
ちーん、と鼻をかみながら、シュランツは答える。鼻水まみれになったハンカチを、近衛騎士がイヤそうな顔で受け取っていた。
「故郷の村を発って以降、勇者メロディアス様は冥獣魔族との戦いに明け暮れておりました」
「うむ、で、あろうな」
「それは血で血を洗う過酷な日々、メロディアス様は気丈に、健気に耐えておられましたが、それでも本質的にはまだ10歳の少女でしかありません」
「うむ、痛ましい話だな」
「これからさらに戦いは激化していくでありましょう。いずれは帝国全域、あるいは騎士王国にすら魔の手が伸びるほどに、戦火は拡大するやもしれませぬ。今はまだ、辛うじて小康状態を保っております。で、あれば、メロディアス様に羽を伸ばしていただくのは、今をおいてより他にない、と」
「ほほう」
セプテトール騎士王は身を乗り出して頷いた。この老人、間は抜けているが、勇者のことをよく考えている。後見人を自称するだけのことはあった。あるいは、今まで戦いに明け暮れた勇者達の悲哀をよく知っているからこそ、その重責を10歳の子供に押し付けねばならない現実に、密かな憤りを感じているのかもしれない。
要するにこれは勇者の休日。バカンスだ。世間に露呈すれば、バッシングも免れない話ではあろう。世界を救うべき勇者が、その役目も放棄してのびのび慰安旅行とは何事か、と。
だがセプテトール騎士王は、そうした批判も恐れず、勇者メロディアスをこの国に連れてきたシュランツ老人のことが、嫌いにはなれない。
「シュランツ老、素朴な疑問だが、なぜ我が国を? バカンスに適した国ならば、他にいくらでもあろう」
「この国は冥獣魔族とて見向きもしないド田舎でして、帝国の目も届かず、戦いを忘れることができ、確かにまあ特に何もありませんが、何もないがゆえにメロディアス様ものんびりとお過ごしになれるだろうと、そう判断いたしました」
「おいウッスア、俺は今猛烈に俺の国を侮辱されたぞ」
「ご自重下さいませ。相手は勇者の後見人にございます」
ウッスアもウッスアで腹に据え兼ねる様子ではあったが、忠臣が怒りをこらえているのであれば、セプテトール騎士王も感情的になるわけにはいかない。
ともあれ、
「ともあれ、だ」
セプテトール騎士王は心中を反芻しながら言った。
「勇者殿を見つけねばならんな。しかし、何故はぐれてしまったのだ? シュランツ老が入れ歯を探している間に、ふらふらっといなくなるような娘なのか?」
「メロディアス様は、その、珍しいチョウチョを見つけるとついつい追いかけてしまう無邪気な方でして……」
「そうか、苦労しているなシュランツ老」
能天気な無邪気さに自らの娘の顔を思い浮かべれば、騎士王陛下も老人の言葉を他人事と思えない。
勇者メロディアスとシュランツがはぐれたのは王都の外だ。せめて中であれば、王都の警邏騎士隊を動かしてすぐにでも見つけられるのだが。勇者が悪意ある余人をゆうゆう退けられる戦闘能力の持ち主であるとしても、王都を囲う城壁の外を、10歳の女児がひとりで歩いているというのは、あまり精神衛生上よい話でもない。
「となると……げほッ!」
急にむせ返り、咳込みながら、騎士王は思案する。ウッスアが近衛騎士の1人に水と薬を持ってこさせようとしたが、セプテトールは口元を抑え、片手でそれを制止した。ややかすれた声で『大丈夫だ』と言っていたが、そのかすれた自分の声のカッコ良さに満悦していたくらいだから、本当に大丈夫なのだろう。
「……王立騎士学校の小僧たちに、野外実習でもさせるか? 当然、騎士団や警邏隊を動かすにしてもだ」
騎士王は、理知的な光に満ちた蒼玉色の瞳を、竜人族の老人に向けた。
「シュランツ老、勇者殿の足というのは、だいたいはぐれてから今くらいの時間があれば、どれほどの距離を歩けるものであろうか?」
「山を三つと川を五つほど越えられます」
「そうか、うむ。ウッスア、すぐにアンセムを呼べ、コンチェルトもだ」
「戦略級騎士に人探しをさせるのですか? 騎士将軍も騎士提督もそれぞれの要塞にこもっておりますゆえ、連絡に時間がかかりますぞ」
「仕方がないだろう! 他にそんな健脚のガキを追いかけられる人材がいるか!? いや、俺が元気なら自分で探しに行ったがね! この病さえ……げほッ! がほがほッ! ごほッ!」
「陛下!?」
いよいよ近衛騎士の1人が謁見の間を飛び出し、水と薬を取りに行く。騎士王セプテトールは口元を拭い、なんとか呼吸を整えた。
「まぁ、なんだシュランツ老。我々もグランデルドオ騎士王国として、勇者メロディアス殿の捜索には全力を尽くそう。心配するな。魔法も使えぬ野蛮人ばかりだが、当国の騎士団はその分優秀でな」
「おお、ありがとうございます!」
「もっとも……」
そう言って、セプテトール騎士王は玉座に背を任せ、王宮にやたら高い天井を仰いだ。
「もっとも、勇者殿といっても子供だ。どんな遠くに行ったところで、腹が減れば勝手に帰ってくるような気も、しないではないな」
それは経験則ですか、という質問は、その場の一同が飲み込んだものであった。
「たいへん、素晴らしい覚悟であると、心より賞賛いたしますが……」
孤児院の中庭にてのことである。貴族騎士アイカ・ノクターンは、神妙な面持ちを作って言った。
「私がタッチしてしまった時点で、鬼はメロディですよ? 刃をジョッシュ達に向けますか?」
「えっ!? あっ、そっか! どうしよ!」
あれだけ勇ましいことを言ってのけたメロディアス・フィオンは、どうやらそこまで意識が回っていなかったらしい。
ショウタを蹴散らし、子供たちを追い掛け回した大人げないアイカではあるが、その彼女の前にジョッシュ達が身を呈して立ちふさがった。ショウタの自己犠牲を見て発奮したのかどうかはしらないが、アイカは、この孤児院にも騎士道精神の萌芽が芽吹いていることを嬉しく思い、ついつい本気を出してしまった。
まぁ、当然、鬼ごっこの厳密なるルールに従って鬼役をジョッシュに叩きつけるつもりであったが、そこに割り込んできたのがメロディである。正直、驚嘆に値する動きであった。メロディもまた、ジョッシュ達の勇気をたたえ、自らがその勇気を代行すると言ってのけたのだ。
言ってのけたのだが、
「メロディ……今度は、敵になるのか……?」
「俺たちのことを、身を呈して守ってくれたメロディが、今度は俺たちを……」
「残酷だ! なんて残酷な遊びなんだ! 鬼ごっこって奴は!」
「ちっ、違う! 違うよぉっ!」
メロディアスは必死に首を横に振る。薄桃色の髪がぶんぶんと揺れた。
ルールはルールだ。ここで鬼役をメロディに交代しないようでは、鬼ごっこという遊戯の概念が崩壊してしまう。しかし、メロディとジョッシュ達を敵対させることは、アイカにとっても非常に心苦しいと言えた。アイカも鬼ではないのだ(今の鬼はメロディである)。
まぁ、仮に鬼役をジョッシュ達に引き渡したところで、結局彼らも守っていた女児達と敵対せざるを得なくなっていたわけで、アイカはここに鬼ごっこという単純な遊戯における道徳性のブレについて、思いを馳せなければならなかった。どうもこの遊びは、システム上大きな欠陥がある。
だがその頃になるとメロディも、悲愴な決意をたたえた表情で頷いていた。
「みんな、あたしがみんなを襲うようなことがあったら、あたしを殺して……」
「メロディ……!」
鬼ごっこにそのようなルールはない。
少し離れた場所では、孤児院の先生に傷を治療してもらったショウタが、なんとか立ち上がったところであった。彼がひょこひょこと歩いてくるのを見て、アイカはほっとしていた。
「ショウタ、無事でよかった……」
「え、ええ、まあ……。あの、どうなりました?」
アイカはさっき触れられなかった分、思う存分ショウタの頭を撫で回している。
「あたし、鬼になるよ……。お兄ちゃん!」
メロディがぐっと拳を握り、頷いた。
「『使命を果たすためには鬼にならねばならぬ時もあります。ですが、その幼き正義の心はくじかぬよう、常に強くあってくだされ』って、おじいちゃんも言ってたし」
「す、すごいこと言うおじいちゃんですね」
そんなに悲壮な決意をするくらいならば、いっそ鬼ごっこをやめて別の遊びにしたほうがいいのでは。
などと、言いたそうでありながら、とても言えないような顔をショウタはしていた。
「ともあれ、10秒だよね。お姉ちゃん」
「10秒です。しっかり数えたあと、追いかけてくださいね」
「うん、わかった!」
メロディやアイカ、あるいはジョッシュをはじめとした孤児達の目は、いつの間にやらすっかり鬼ごっこをエンジョイするモードに切り替わっている。それはあるいは、実は気楽に考えられていないのは自分の方なのではないか、と、ショウタを困惑させる始末であった。
先日、至天塔にのぼったときに姫騎士殿下のことをよく知ったつもりになったショウタだが、こういうところを見ると途端に自信がなくなってしまう。
「行きましょう、ショウタ。走れますか?」
「はい、大丈夫です」
「先ほどは申し訳ありませんでした。また、ショウタに〝迷惑〟を……」
「そのへんはもう言いっこなしでしょう。どっちかと言うと、もっと子供相手に手加減をですね……?」
ショウタは、ぴったりと寄り添ってくるアイカと、こちらを見て何やら口笛を吹き冷やかしてくるジョッシュ達の存在に微妙な気まずさを覚えながら、彼女の『大人気なさ』をなんとか説こうと努力した。
そうこうしている間にも、メロディは凛とした鈴の音を思わせるような声音で、カウントを始める。子供たちはキャアキャア言いながら、メロディから走って離れた。のろのろ離れるのは、アイカとショウタのみである。
――はーち、
「て、手加減、ですか……? しかし……」
――きゅーう、
「お嬢様の、そういう何事にも全力な姿勢は素晴らしいと思いますけど……」
――じゅうっ!
その時、まさしくメロディアスはちょうど10のカウントを終えるところであった。だっ、とシカを思わせる細くしなやかな脚が、中庭の芝生を蹴り立てる。メロディの視線は、まず逃げ遅れた(と、彼女の目には映る)二人の大人に向けられるのであった。
しかしショウタは気づかず、呑気に講釈をたれている。一拍遅れ、アイカがハッとした。
「やっぱり鬼ごっこは遊びですし、いや、手加減してるのはわかるんですよ? でも……」
「ショウタ、危ないッ!!」
「うわああッ!?」
神速のメロディが、ショウタの後頭部を狙う。アイカは素早く手を引き、ショウタの腕を掴むと、ぐるりと振り回して遠方へと放り投げた。瞬間、少年ショウタ・ホウリンの肉体は、完全に重力から解き放たれる。羽根もなく、蒼穹を舞うショウタは、空中でみっともなく手足を動かしつつも、辛うじて思考領域から絞り出した〝力〟にて、姿勢を安定させることに成功していた。
さて、メロディである。ショウタを狙って突き出された鬼の手は、虚しく空を掴んだ。自然、彼女とアイカは極めて近い距離で対峙する。鬼ごっこのセオリーは、もっとも近くにいる相手を狙うことであり、メロディの標的はこの時完全にアイカへとシフトした。
「えっと、同じ人を鬼にしちゃダメなんだっけ……?」
「この孤児院ルールでは、大人はその例から外れるそうです」
「そうなんだ!」
メロディは満面の笑みで手を叩く。直後、彼女は鋭い眼光を灯しながら、再び中庭の大地を蹴った。
同時にアイカもまた駆け出す。韋駄天。まさしく本気の走りを披露する。だがアイカは、2、3秒もせぬうち、自分とメロディの距離がまったく縮まらないどころか、徐々に彼女の手が鎧に伸びつつあることを確認した。
「………ッ!」
アイカはひときわ強く大地を蹴る。同時に、胸当てに手を伸ばし、その固定を外した。がしゃん、どしん、という音がして、外された甲冑が庭の地面にめり込む。続いて篭手、前垂れ、脛当てなどが、次々とアイカの身体から外れ、落とされた。
「ね、姉ちゃんは、今まであんな重い鎧をつけて戦っていたのか!?」
ジョッシュの驚愕に打ち震えた声が聞こえる。
フラクターゼ伯爵の屋敷に乗り込んだ時とは異なり、鎧の下は肌着姿などというはしたないものではない。今回はきちんと鎧下をこしらえ、着用していた。超重量の拘束から解き放たれたアイカの身体が急加速する。姿勢を下げ、空気抵抗を極力減らし、アイカは風と一体化した。
メロディはまだついてくる。振り向く余裕など、もはやアイカにはなかったが、気配で把握する。このメロディアスという10歳ばかりの少女は、アイカの全速力をぴったりとマークし、その後ろをつけているのだ。
「やりますね、メロディ!」
「お姉ちゃんこそ!」
賞賛は風に溶けていく。やがては景色すらもその色彩を混ぜ合わせていく神速域。アイカとメロディは互いの力量というものを、その時はっきりと意識した。すべての油断と躊躇を彼方へと放り、これが単なる孤児院での鬼ごっこであることも忘却し、悲鳴をあげつつある肉体のギアを、さらにもう一段階、強引に押し上げた。
孤児院の中庭に、二つの衝撃波が発生した。