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異界の姫君  作者: Maverick
3章 冥府ニリヤ
49/52

3-3

 輿の外の風景に相変わらず変化はない。

 いつ着くのか問おうとも思ったが、エルガのことだから着くときに着きますとでも返されて終わりそうだ。

 そしておそらくその通りなのだろう。




 リューディアはパトリシアにもエルガにも視線を向けず、膝に置いた手を、もっと言えば虚空を見つめたまま黙り込む。

 そしてかすれた小さな声でぽつりと零した。


「……パティは、ニリヤにはいなかったわ」


 それは誰に対して言った言葉ではなく、自身に向けた言葉にも聞こえる。

 エルガも口をつぐんだままだった。


「ニリヤに来て、ニリヤがどういう場所なのか知ってから、パティーシャに会えると思ったわ。でもあの子はいない。私にはわかるの。いよいよあの子は私の手の届かない遠くへ行ってしまったのね。でも、どうして……」


 リューディアにはパティーシャが自分を避けているような気さえしてくる。

 会いたいと思っていたのは自分だけだったのかと、冷めた感情すら抱いてしまいそうだった。


 この子には内緒で。


 リューディアは傍らで何も知らぬまま眠るパトリシアを見やる。

 そう、パトリシアには内緒でリューディアは密かにパティーシャの魂を探していた。

 パティーシャが蝶のペンダントを託したのは、まさしくこの時のためだったのだと思ったくらいだ。


 だが実際には違っていた。


 エルガには何度も尋ねていたことだったが、その度に彼女は首を横に振った。

 一つ一つの魂と関わるリューディアと違い、エルガもダリボルもニリヤに集まる魂そのものには関与しない。

 先程エルガが述べたように、彼らの目的はリューディアへの奉仕だ。

 だからいつどのような魂がニリヤにやってきたところで、彼らはそれにいちいち関わることはせず、気にもしない。

 エルガを問いつめるのは筋違いと言えた。

 それでもリューディアは確かめずにはいられないのだった。


 茶色の癖毛に鮮やかな緑色の瞳を持った小柄な少女の魂を。

 おそらく光球の色はエメラルドグリーンであろう、愛らしいリューディアの親友を。


「申し訳ございませんが、存じ上げません」


 エルガは下手な同情の言葉は吐かない。ただ事実だけを述べる。


「ですが」


 エルガは嘘は言わない。


「そのパティーシャという子の魂はニリヤに来て消えるまでが早すぎます。そこは確かに引っかかるところではありますね。普通、どんなに有界に未練なき魂でも、ニリヤに来てそんなに早く去っていくことはありません。もちろん魂によって、昇層に至るまでの差はありますが。どんな魂でも有界にいた記憶は残っているものです。それを少しずつ浄め、透明にしていきながら昇層に至る準備をしていく。そうしなければ新たな次元に移ることはできません。しかもお聞きしたところ、そのパティーシャという子には未練はたっぷりとあった様子。貴女様という御方を遺して先にニリヤへと渡ったのなら、未練どころか何らかの意図すらあったのかもしれません。全ては憶測にすぎず、何とも言えないところではございますが」


 何の痕跡もなくニリヤから消えた少女の魂。

 リューディアは恐る恐る思ったことを口にしてみる。


「もしかしたら、ニリヤ以外の所に行ってしまったとは考えられないかしら?私の世界では現世での業が深い者にはアイダムの導きはなく、よって死後天国に行くことはできないまま地獄に落ちる。そしてそこであらゆる責め苦を受けた後、再び現世で苦渋の生を生きるとされているの。あの子は絶対に潔白だし、現世での業など決して背負ってなかったけど……も、もしかしたら道に迷ってニリヤに行き着けなかったとかだったら……。あの子、すごく方向音痴なのよ……!」

「地獄とは何でございましょうか?」


 またもや驚くようなことをエルガは言う。

 リューディアはエルガに地獄とはなんたるかを説明してあげるうちに、そもそもニリヤがある時点でアイダムが御座す天国などなかったということを思い知る。

 それともニリヤにて昇層した魂が向かう先に天国があるのかもしれないが、こればかりはリューディアにも知りようがない。

 考えてみれば生きているうちは誰も死後の世界など見るはずがなく、よってそれがどういう場所なのか知る術など無いに決まっているのだ。

 生者にとって永遠の命題であるその問いに、どうしてやすやすと答えがあるものか。

 そう思えば、さも知っているかの如く説明している自分が不自然に思えてならない。

 エルガの反応の方が至極真っ当に見える。


「……ふむ。地獄に天国ですか。リュリエヴィリア様がおわした有界ではそういうことになっているのですね。でもそれも当たらずとも遠からずといったところかもしれませんよ。しかしながら悪いことをしたら地獄へ落とされ、罰せられた後にまた有界に戻されるというのはいまいちよく解せませんね。ご存知の通りニリヤには罪人も当然ながらいます。魂の前では善悪も貴賤も種族もないのです。ですが地獄とか天国とか呼ぶもので、それに近い世界はあるかもしれません。実は私もニリヤから離れたことがなかったもので、ニリヤ以外の世界を知らないのです」

「……え?じゃあニダウィエンのことは……」

「大変申し訳ございませんが、存じ上げません。ただ知識として知るのみでございます」



 またも沈黙が訪れた。



 パティーシャのことでこれ以上は訊けないことを悟りつつ、話をまとめるつもりでリューディアは言った。


「ではパティ……パティーシャは誤って地獄へ行ってしまったとか、そういうことはないのね。それだったら少し安心だわ。でもそれなら一体どこへ行ってしまったのかしら……。結局は行方知れずなのね」

「パトリシアとパティーシャ。なんだか似ていますね。リュリエヴィリア様はどちらもパティとお呼びになっておりますし」



 どきっとした。



 鳴っていないはずの心臓が、一瞬大きく跳ね上がったような感じがした。

 思わず傍らですやすやと眠る少女を見る。

 業を持った者は生まれ変わって……なんていう話はただリューディアの世界での、信仰という名の方便にしかすぎないことはわかった。

 だから生まれ変わりに対する妙な先入観など持つ必要はないのだ。


 だがエルガは言った。

 ニリヤに来てから昇層に至るまでが早すぎると。

 未練ある者がそんなに早く記憶を清算できるはずはないのだと。


「パティ……」


 自然と口から漏れ出た声は、自分でもどちらを呼んだのかわからない。

 答えを探るようにエルガを見つめたが、エルガはその橙色の瞳に何の感情も交えず、ただ真っ直ぐにリューディアへと向けるだけだ。

 逆に問い返されていると思った。



 それとも、答えはすでに己の中にあるのではないか。



 ふと視界の隅で、窓の外の風景に変化が出てきたのがわかった。

 褐色と黄色の縞模様の丘が低い稜線を描き出し、それと同時にぐねぐねに曲がった緑色の木らしきものが現れるようになってきたのである。

 目的地が近いことを告げていた。


 それに気づくとリューディアの思考は切り替わった。

 感傷に浸っている場合ではない。

 それでもリューディアにはエルガに確認すべきことがあった。

 居住まいを正し、改めてエルガに向き直る。


「一つだけ教えて」


 リューディアは一旦言葉を切り深呼吸しようとしたが、息をしていないことを思い出し苦笑する。

 だからこそ、これはエルガに訊かねばならないこと。


「パティ……いえ、パトリシアを有界へ。厳密に言えば彼女が元いた世界へと帰す方法を知りたいの。このままではいけない。パトリシアは私と一緒にいるべきではなかった。この子は生きているの。ならば生命が息づく世界へ。この子が帰るべき所に」

「リュリエヴィリア様ご自身はどうなさるおつもりですか?」


「……それは貴女が一番よくわかっているはずよ」


 リューディアは瞬きもせずに見つめていた。

 そこに覚悟を宿して。








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