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異界の姫君  作者: Maverick
3章 冥府ニリヤ
48/52

3-2





会話文だけら







 座席に着き、ダリボルに別れを告げていざ前を向いた途端、窓の外の風景が一変したことにリューディアは驚いた。

 ニリヤの外はリューディアたちがニリヤにやってきた通りの道が広がっているはずだった。

 だが今目に映っているのは褐色と黄色とが縞模様を描くなだらかな丘陵で、真っ暗闇だった空間も淡い紫色に変化している。

 同じなのはやはりその薄紫の空間も空ではないということくらいだろうか。


「まあ……」

「行き先はニダウィエンです」


 エルガとのたったこれだけのやりとりで、リューディアは風景が一変した理由をおぼろげながらも理解してしまった。


 ここでは有界の常識は通用しない。


 そしてリューディアたちを乗せた輿も、およそ想像もつかない動きで奇妙な丘の連なりを越えていく。

 どうして大きさや特徴の違う竜の魂が輿を支え、かつ傾くことも揺れることもなく安定して進み続けるのか。

 エルガ曰く、肝心なのは輿を支えるだけの強靭な器と質量とを持つ魂であるということ。

 ニリヤにやってきた魂たちは基本的にそこから出ることはできない。

 物理的にニリヤの外に出ることができるのは実体を伴うかそれに近い確固たる存在であり、普通の魂では外の世界に耐え得ることができない。

 例えるなら宇宙空間に生身の人間が放り出されるようなものだ。

 リューディアに導かれたりまたその時が来て次の段階に移るとき(リューディアたちはこれを昇層と呼ぶ)魂たちはそのままニリヤの外に出ることはしない。彼らには彼らだけが知り得る道がある。

 竜の魂は強力で、ニリヤとは違う世界になる外界に出ても消し飛ぶことはない。

 そして実体があるリューディアたちや魂石でできた輿を支えることができるのである。

 もしリューディアたちを乗せた輿を目撃する者がいたとしたら、宙に浮いたまま静止しているかのように見えただろう。

 巨大なダイヤ型の魂石の四方には赤、黒、金、緑の光球が眩く輝いている。

 竜の姿形は違えど、移動しているときの光球の大きさは同じだ。

 竜たちは飛んだり走ったりしているわけではない。輿もまるで動いていないように見える。

 だがほんの瞬きほどの間に輿は遠くに去り、あっという間に消え失せてしまう。

 とはいえリューディアが身を乗り出して窓の外を眺めても、自分たち以外の者は影すらも見当たらず、よって誰かがこの輿を目撃するなんてことはあり得なかったが。

 リューディアたちをニリヤへと案内した際に言ったエルガの言葉通りに、今一面に広がる風景はニダウィエンに向かうためにある道で、それ以外の目的は持たなかった。よってその風景には誰もいないのだ。

 リューディアもまた風景が動かないことに目を瞠り、もしや進んでいないのかと思いつつも外を覗く。

 だが目の前にあった丘が次の瞬間には見えなくなり……その繰り返しから輿は移動していることがわかる。

 周囲は見渡す限りの丘陵で、一切の変化もなく同じ風景が続く。

 進んでいることはわかるものの、なんだか感覚があやふやになってしまう。リューディアは眩暈を起こしそうになったので、体を戻すとエルガと向き直ったのだった。


 どこまでも澄んでそして暗い、紫紺の魂石のような瞳。

 波打つ髪には、どことなく有界にいた時の柔らかい印象はない。

 白銀の幻獣に変化したときのあの冷たい月のような美しさ。むしろ鋼色に近い鋭い煌めきがある。

 絹衣のように優雅な純白のマーメイドドレスで緩やかに肢体を覆い、控えめに覗く胸元には七色に輝く蝶のペンダント。

 研ぎ澄まされた美貌とあいまって人間離れした、いっそ近寄りがたいばかりの気品と流麗さとがあった。

 リューディアは自身の微細な変化には気づいていない。

 だがパトリシアは気づいていた。だからこそ憂い悩んだのだ。


 そのパトリシアは相変わらずよく眠っている。まるで冬眠中の小動物のように。

 もちろんリューディアがその頭に手を添えても身動ぎ一つしない。

 それでもしばらくパトリシアの髪を撫でたのち、リューディアはじっとその様子を見守るエルガに向かって言ったのだった。



「訊きたいことがあるの。できるだけ私の質問に答えて頂戴」




 輿の内にも移動中の外からでも、吹いてくる風はない。

 そういえばニリヤにも風はなかったと今更ながらリューディアは思った。

 以前当たり前のようにあって当たり前のように感じていたもの。

 今リューディアは何も感じず、何も気づかずにそういった当たり前のことが無くなっていることに何の違和感も覚えていなかった。

 いまや失われていることが当たり前とでもいうように。


 手を口元に運び、そっと息を吐いてみる。

 だがいくらやってみても手のひらに当たる息を感じられない。

 そっとその手を左胸に押し当ててみる。


 ――鼓動はなかった。


 低いながらもちゃんとあった体温。

 触れれば温かった胸の辺りも、やはり何も感じられず鼓動と共にその手に返ってくる反応はない。

 猛烈な寒気に襲われてもなお寒いと感じられる感覚でさえも、かつてはあったというのに。

 そのことを実に奇妙な思いで確認していく。

 動かない己が体をもう一人の自分が観察していて、あちこち触っては死んだことを確かめているかのようだ。

 わざわざ思い出そうとしなくとも、己は死んだのだと考える方が自然だった。


 それなのに。


「いいえ。厳密に言えばリュリエヴィリア様は完全にお亡くなりになったというわけではありません。死ねばニリヤにおいて魂だけの存在となっているはずですから」


 魂を見送る立場となったリューディアにとってそれは実感として理解できることであったが、ここにきて新たな疑問が生じる。

 というより前々から不思議に思っていたことではあるのだが。


「貴女やダリボルの存在はどうなるの?魂だけが帰るニリヤで、どうして貴女たちは実体を持って存在しているの?」


 エルガはリューディアを見つめ、そして僅かに視線を落とした。

 どう説明すべきか束の間考えている風であった。


「私たちは」


 ややあってエルガはゆっくりと口火を切る。


「リュリエヴィリア様にお仕えするために在ります。私たちはずっとリュリエヴィリア様の御帰還をお待ちしておりました」

「……いつからなの?私がニリヤにやってくることを知っていたの?」

「左様でございます」

「どうして?どう訊けばいいのか、私にはわからないのだけれど……そういう運命を貴女たちは予知していたということ?私が死んで魂だけの存在となってニリヤにやってくるのではなく、生きてはいないけど実体を保ったままやってくることを?」

「予知していたと言いますより、全てはそうなるはずのものでしたから」

「私は何度も死のうとしたのよ」

「でも実際には死んではいないでしょう?」

 リューディアは頭を抱えた。これではまた最初の問いに逆戻りしそうだ。



「……貴女たちは何者なの?どこから来て、なぜ私を待っていたの?私のように実体を保ったまま、魂だけとはならずに」



「生前いた世界のことは何も思い出せませんが、おそらくリュリエヴィリア様がおわした世界とそう変わりはないと思います。ダリボルのこともわかりません。あれも私とは違う世界からニリヤにやってきた男です。私たちには何の接点もありません。唯一、リュリエヴィリア様にお仕えするという目的を除いて。運命の歯車の歯と成り得るほどの大きな存在であるはずもない、私たちのような何の変哲もないただの魂では実体を保つことはできませんし、許されません。そう、私たちはある大いなる御意志によって実体を保つように作られました。私は私という魂だけで実体を保つに至ったわけではありません。私一個の魂では矮小すぎてとても不可能です。それはダリボルも同じこと。リュリエヴィリア様にお仕えするという明確な目的を授かって初めて私たちは存在するようになったのです」



 驚くべき告白だった。

 告げられた言葉を整理できずに黙りこくっていると、エルガの方から語りかけてきた。



「ですが貴女様は違います。大いなる運命の歯車の歯と相成る御方。おそらく御自身で思っていらっしゃるよりもずっと重要で複雑な、運命の担い手でございます。ですから私たちは作られ、お待ちしておりました。貴女様がリューディア様ではなくリュリエヴィリア様でいらっしゃる所以。死んだわけではなく、かつ生きているわけでもない、それでも実体を保ったままニリヤにお戻り下さりました事」

「……ええ。それも訊きたかったことよ。私は有界で獣の姿になってしまったの。その時のことはほとんど覚えていないけど……。人ではない何かになったのは確かよ。そして気づいたらニリヤにやってきた。私はただの人間ではない……。ええ、もっと早く気づくべきだった。いえ、とっくに気づいていたけれど、気づかないふりをしていた。私は生けるものを死へと強制的に誘う死神の力があったのよ」

「承知しております」

「教えて」


「幻獣への変化は死なぬままニリヤへと至るための鍵です。普通の次元ではニリヤへの道は決して開かれません。今いる次元から別の次元へと移るとき、変化や或いは何らかの条件や犠牲が必要です。ニリヤに集まる魂たちが己が魂を浄め終わって昇層へと移るときに、我々の目からは消えていくように映るのと同じです。消えるように見えるだけで、魂自体は次の段階へと進みます。歯車そのものとは成り得ませんが、それを支えるための小さな部品にはなるのです。人であったときのリューディア様の目ではニリヤは見い出せませんでした。生も死も超えてしまわれたとき、生きながらにしてリュリエヴィリア様はニリヤへの道をご覧になったのでございます。獣には人間が失ってしまった、研ぎ澄まされた五感の導きがあります。獣にならなければ、ニリヤを見い出すことができなかったのです」


「死へと誘う忌まわしい力も……?」


「リュリエヴィリア様は巫女姫たる御方です。巫女姫は魂を導き見送る。そしてそれがニリヤでのことわりです。ですが有界ではその理は別の意味を成してしまいます。リュリエヴァリア様が苦労なされたのも、ニリヤの理が有界にも通じてしまったからに他なりません」


 エルガは深々と頭を垂れた。主の苦悩を労おうとするかのようだった。

 リューディアは思考の海に深く沈んでいる。


「貴女は何度も私のことをニリヤに戻ってきたと言うわ。私の普通ではない現象も含めて……。私はニリヤの住人か何かだったのかしら?もともと私はニリヤにいたのね?それと、何者かによって作られたという貴女やダリボルとも何か関係があったりして。……もしかして私が貴女たちを作った、とか?あり得ないけ、ど……?」


 自分の言ったことをすぐさま否定しようとして、だがリューディアはエルガの口元に笑みが浮かんだのを見て驚愕し、思わず立ち上がりそうになる。

 ニリヤに来て初めて見る彼女の微笑だ。少なくとも記憶の上では。


「まさか……?!」

「いいえ。当たらずとも遠からずと言ったところです」


 冷たい人形の如き彼女の、少しだけ悪戯っぽい表情。そして猫が満足げに目を細めるように、その切れ長の双眸を束の間ゆるめている。

 リューディアはエルガの手の中でいいように転がされているような気がしてきた。

 だがリューディアに仕えるという目的に嘘偽りはないようだ。

 それ以上の意図も見受けられない。


「まことに僭越ながら、リュリエヴィリア様は大変聡明で勘が鋭い御方でいらっしゃいます。私はそのような御方を主と仰ぐことができて光栄に思います」

「そ、そう……?ありが……良かったわ」


 リューディアは少しばかり混乱している。

 しばしの沈黙があった。








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