顔を上げると、思わず盲を疑ってしまうような闇があった。
上も下も左右も、どこを見渡したところで何も見えず、己の目が開いているのかすらもあやふやになってくる。
星が消えた無辺の宇宙空間に、たった独り取り残されたようでひたすら恐ろしく不安だった。
死んだのだ――
そう思ったが、闇は昏々と満ちながらも息づいているように感じた。
じっと自分を包み見張っている。
死んで全てが無くなっても、不安は残るのだろうか。
妙に生々しく意思を持っているような、そんな闇だった。
パトリシアは自身の体を見下ろした。
華奢な幼子の体のまま、何も身につけていない裸である。
何も見えない闇の中のはずなのに、どうして己が体は見えるのか。
光が無ければ、目は何も捕えることができないのに。
光はどこにあるのだろう。
――どうやら自分は死んではいないらしい。
リューディアは?
はっと気がつくと前方に彼女の姿があった。
いつの間に現れたのか、初めからそこにいたのか、むろん彼女には答えるそぶりはない。
リューディアもまた何も纏っておらず、その美しい肢体を流れるがままに漂わせていた。
漂っている。確かにパトリシアもまた漂っている様子で、足は何も捕えていなかった。
何かに気づくたびに少しずつ見えていき、闇を知覚し始めていく。
微光を放つ白肌。
淡き雪白の髪は緩やかに波打ち、水面に浮かぶように柔らかく広がっている。
隠すものはもちろん無く、また隠す意思なく成すがままである優美な女体は、闇の中で一際露わに浮かび上がる。
それは赤子のような無防備さと力強き女神の様相とを併せ持っていた。
パトリシアはただただ見惚れた。
リューディアの目は閉じられたままだ。
一瞬生死を疑ったが、彼女の肢体はあまりに艶やかで瑞々しく、とても死人のそれとは思えない。
彼女の目を見たい。
あの何とも言えない安らぎと静寂に彩られた深い夕映えの瞳。沈みゆく落日の空に照り映える輝き。暗がりと光とが溶け合う黄昏の色。寂しげで、それでいて輝いていて。
思えば最初から私はその瞳に惹かれて――
再びはっとする。
パトリシアとリューディアとの間にはもう一つの光があった。
それはリューディアが持つ光とは明らかに違う、鋭く冷たい一筋だった。
パトリシアまでひやりとする。
そして猛烈な不安を感じた。
そう思ったら、唐突にそれは現れた。
仄青く輝く刀身。細く気品があるが、鋭く冷やかだ。柄はただ持つ所といった具合に質素で、目につくものではない。
だからこそ、その抜き身の一閃が際立ち不穏な光を宿していた。
闇が呼応し始めたようだ。
それまで茫漠とした広がりであった闇は急に冷たい胎動を刻み出し、よそよそしく敵意に満ち、パトリシアの全身を冷えた恐怖に陥れた。
目の前の光景が、急速に既視感を持つものに変わった。
激しい不安と焦燥と共に、どこかで見た光景だと感覚が告げている。
いや、それはすでに警告であった。全身が警鐘を鳴らしていた。
恐れていたことが起きようとしている。
それまで閉じられていたリューディアの目がゆっくりと開く。
愕然とした。
その瞳にあったのは憂いを帯びた優しさではなく、目の前の剣と同じ光だった。
優しかった女の、垣間見せた温度のない表情は、確かに凄艶には違いないが背筋を凍らせる衝撃を孕む。
パトリシアは激しく動揺した。
いつの間にかリューディアと剣との距離が狭まっている。どちらが近づいたものか、今はそんなことはどうでもいい。
対照的にパトリシアとリューディアとの距離が広がったような気がした。
闇が自分とリューディアとを引き離そうとしている。
そして剣がリューディアを連れて行ってしまう。
絶対に、それだけは何としても止めなければ。
同じことを確かに自分は以前にも思った。
しかしそんなことに思いを巡らせている場合ではない。
『リューディアッ!!』
茫然と喉を押さえた。
ありったけの声で呼んだにも関わらず、声を出せた感覚がない。水中でくぐもった音しか出ない、そんな感じだ。
これではリューディアには届かない。
なぜならリューディアは一切の感情が欠落した瞳で長剣を見つめ、それに手を伸ばそうとしているから。
パトリシアに気づいた様子などまるで無い。
初めから、ここにはリューディアと剣しかいないとでも言うように。
パトリシアは手足をばたつかせ、もがいてリューディアに近づこうとした。
しかし近づけない。
まるで固まってしまった水中を泳ぐようだった。
『リュディッ!私よ、パトリシアよ!!パ……』
一瞬、己の名を言ったらいいのかリューディアの親友であった少女の名を叫んだらいいのかわからなくなった。
そもそも自分は一体どちらなのか?
リューディアが欲し、ずっと会いたがっていたのはパティーシャの方だ。
私はそんな彼女の前を通り過ぎただけでしかない……。
そうこうしている間にリューディアは剣へと手を伸ばし、剣もまた待ちわびるように煌めく。迷っている暇などなかった。今にもリューディアの指が柄に届きそうだ。
パトリシアは声を張り上げた。
聞こえてないかもしれないけれど、叫ばずにはいられなかった。
『リュディッ!リューディアッ!!ダメ!それを掴んだらダメなのっ!お願い!リューディア!目を覚ましてっ!!こっちを見て!お願いっ!!』
神秘の夕色は今や黒に染まっている。一切の光はそこになく、暗く淀む周囲の闇に同調していた。
リューディアの瞳にはただ剣のみがあった。剣だけが彼女の瞳に冷たい光を投げかけていた。
リューディアがはっと顔を上げた。
『リュディッ!こっち!その剣に触れてはダメッ!お願い!!』
喉が潰れそうだ。それでも叫ぶことを止められない。
リューディアは不安げに辺りを見渡した。その瞳に少し色が戻っている。
代わりに剣の輝きが僅かに鈍ったように思えた。
『リューディアッ!!』
精一杯の声でその名を呼んだ。
リューディアがついにパトリシアを捕えた。
温もりが消えた面差しに、明かりが灯るかのように驚いた表情が浮かぶ。
それを見て涙が出るほど安心した。
戻ってきてくれたと、わけもわからず思った。
そこにはパトリシアが知っているリューディアの姿がある。
剣は急速に輝きを失い、もはや存在を忘れてしまうほどに褪せて闇に溶けて消えていった。
『パティ……?』
ああ、彼女はどちらの名を呼んだのだろう。
私の名を呼んで欲しい。
私を、私だけを見て欲しかった。
……でも私って、誰?
リューディアの声を聞いた瞬間、パトリシアの意識は遠のいていく。
全てが遠く、薄れゆく――
リューディア……。




