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異界の姫君  作者: Maverick
2章 アスターヴルムの金獅子
36/52

4-11

簡潔にまとめようと思ってたのについ長くなってしもた…。




少し百合っぽい表現があります。

大丈夫だとは思いますが、苦手な方はご注意下さいm(_ _)m










 あまりに異様で哀れな、そしてどこか滑稽ですらあった。

 二人の少女が、年若く細身とはいえ大人の女の亡骸を部屋の奥へと運ぼうとする様は。

 しかしその必死の目論見もあっけなく潰えた。神殿の警備兵に見つかり、二人はとある小さな一室に留め置かれることになる。その間に修道女の遺体は詳しく調べられた。


 事ここに至って王家は真相を追い求めるよりも火消しに回っていた。

 王太子の成人という大きな行事、それに何と言ってもその王太子はフェリクスだ。アスターヴルムの金獅子、ゆくゆくは父王を超えて大いなる権威をたなごころに収めるであろう人である。それが約束されており、民の注目も熱い。

 輝かしい前途しかあってはならぬのに、誰もが想像もできない前代未聞の凶事が起こったとあらば、国内のみならず諸外国に与える影響は決して少なくない。

 微妙な均衡の上に成り立つ国の安寧。

 一つの綻びが国を揺るがす大事へと発展する。

 なによりも恐ろしく不吉で気味が悪い。

 もはや形振りかまってはいられない。王家にとって重要なのは真実よりも、いかに事態を収束し何事もなかったようにするかだった。





 二人の少女は何もない空っぽの部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。まるで人形がそこに並んでいるかのように、身動ぎもせず無言のままであった。

 息さえも詰めるような空間の中でただ時だけが漫然と流れていく。

 睫毛を震わせ、ほうと息を吐いたのはパティーシャだった。

 傍らのリューディアを見やる。お互い体を密着させているのに、パティーシャのそうした変化にも気づかずただぼうと床を見つめている。

 パティーシャは微かに笑みを浮かべた。


「ねえ……リュディ……?」


 吐息にも似た囁きでは、やはりリューディアの意識を振り向かせることはできなくて。

 しかし次に紡がれた言葉に彼女はとうとう顔を上げた。


「あたし……名乗り出ようと思うの」


 その声音もまた、聞き取れるかどうかの大きさだったけれども。

「?」

 リューディアは首を傾げ、怪訝な表情を浮かべる。

 パティーシャはリューディアを真っ直ぐに見つめ、一言一言噛み締めるように口にした。

「あたしが、今回の騒動を引き起こしたって言うの。こんなことになったのは、全てあたしのせいです。って」

 リューディアの表情は変わらなかった。

 僅かな沈黙の後、声を出すことを忘れてしまったかのようにリューディアの声はかすれていた。

「え……?な、何を言ってるの……?パティ……」

「わからない?」

 対照的にパティーシャの声はしっかりとしたものになっていく。

「城で起こったことも、エリーヌが死んでしまったことも、あたしの仕業だって言うの。リュディは絶対に何も言っちゃ駄目よ。あたしに任せて。あたしがリュディを……」

「そ、そうじゃなくて……!意味がわからないわ。どうして私じゃなくてあなたが名乗り出るの?」

「あたしは、あなたを救うわ」


 一時の静寂が部屋を包んだ。


 リューディアはどんな顔をしたらいいかわからなかった。

 冗談だとしか思えなかったが、パティーシャの双眸が次第に輝きを帯び声に力強さが宿っているのを感じて、当惑はさらに広がっていく。

「ねえ……パティ?」

 いっそ笑い出したいような気さえしながら、リューディアは確かめるようにパティーシャに向き合った。

「じ、冗談よね……?あなたがそんなことする謂われはないわ。どう考えたって、私がしでかしたことよ?意味がわからないわ。馬鹿げてる……」

「残念だけど、もう決めたの」

 パティーシャは微笑んだ。

 リューディアはここにきてやっと彼女の本気を悟った。

 パティーシャのそういう表情は、梃子でも動かない意志を持ったときだ。誰よりも一緒にいるリューディアには痛いほど理解できた。

 パティーシャの肩を鷲掴んだ。

「何を言ってるのパティ?!正気の沙汰じゃないわ!どうしてあなたが?だいたいあなたがやったって、どうやって証明するの?ねえ、何考えてるのよ!どうして私の責めをあなたが負わなければいけないの?嘘よ、そんなの……」

「ねえ、聞いてリュディ」

 指先が白くなるまで肩を握っている友の手に、そっと自分のそれを重ねながらパティーシャは穏やかに話した。

「あたし、ずっとリュディを助けたいって思ってた。恩返しがしたかった。リュディがあたしを守ってくれていたように、今度はあたしがリュディを守っていく番だって。リュディ。あたし、言葉にできないくらい、ずっと感謝してるの。あなたがいたから、あたしは……」

「やめて!やめてよぉ!!」

 大きな紫の瞳をこれ以上ないくらい見開き、ぼろぼろと大粒の涙を零して、リューディアはパティーシャの肩を揺さぶった。

 もう二人は互いを支え合うようにして立っていた。

「だからって、私がそんなことを望むって思ってるの?私の身代わりに、あなたが?ねえ、自分で何を言ってるかわかってるの?!それに恩返しだなんて。私、あなたに何も……。むしろあなたが私をずっと助けてくれてたの。あなたの存在がどれだけ私を救ってくれたか、わかってる?こんな……こんな、私を……」

「リュディ……」

 パティーシャも瞳を潤ませながら、言葉を紡いだ。

「愚かなことかもしれないけど、あたし、そうしなきゃいけないって、ずっと思ってたの。あなたを救う方法は、それしかないって。どうしてだろう……。たぶん、あの夢を見たせいかな……。リュディには悪いことかもしれないけど、あたしの決心は変わらないわ。ごめんね、こうするしかないのよ」

「夢って何なのよ……」

「リュディは知らない?剣が出てくる夢。リュディが剣を掴もうとしてて、それをあたしが止めようと必死に叫んでるの。リュディは聞こえてないみたいなんだけど、あたしはとにかくその剣を手にしたら駄目だと感じてて何度も何度も叫んでるの」

「何その夢……。その夢が、今回のことと関係あるの?」

「わからないけど……でも、その剣を掴んだらリュディがリュディでなくなっちゃうような気がして。なんて言えばいいんだろう……とにかく、リュディをいかせちゃいけないって」


 そんな理由で。


 いっそ罵倒したいくらいだった。笑ったらいいのか泣いたらいいのかもわからない。どんな思いで私がそれを聞いたと思ってるの。

 しかし困ったように笑いながらも、パティーシャの瞳は真摯で純粋な輝きを保っていた。穴が開くほど見つめても、それは変わらない。

 めちゃくちゃな渦を巻く思考の中で、自分だけが取り残されたような気がした。

 優しくリューディアを見つめる彼女の瞳が、何を見ているのかわからなかった。


「私が……」


 うな垂れ、唇をわななかせてリューディアは呟いた。

「もっと早く、名乗ればよかった。私のせいなのに。私の罪なのに。どうして私は……。そもそも、最初から私がいなければ……私さえ、存在しなければ……」



「リュディッ!!」



 突然パティーシャは叫び、リューディアの頬を平手で打った。

 リューディアは投げ出され、床に倒れた。頬が痺れている。

「どうしてそんなこと言うの?!そんなこと言わないで!!あたしが誰よりも大切に思ってるリュディを、あたしの全てを捨ててでも守りたいと思えるリュディを、そんな風に言わないでよ!あたしがどれだけリュディを思ってて、あなたの存在がどれほど大きいか、リュディはわかってるの?あなたがいなかったら……」

「わかってないのはパティよ!!」

 頬の痛みも忘れ、リューディアは猛然と立ち上がった。

「それはそっくり私も同じだって知らないの?あなたが身代わりになって、私の罪を負って……あなたがどうにかなってしまったら私、私……」

 互いに言葉にすることはない。しかしどこかで薄々予感めいたものを感じていて、覚悟している。

 そしてリューディアが感じているよりもずっとずっとパティーシャは悟り、運命を甘んじて受けようとしていた。


「どうして……?」

「……ごめんね」


 リューディアの頬は赤くなっていた。そこに涙は止めどなく伝い落ちる。

 そっと手を添えたパティーシャははじめて悲しみを濃く滲ませ、堪えるように唇を噛んだ。

「パティ……。これは私の罪なのよ。私が裁かれるべきなの」

「そうかもしれない。でも……」

 きつく目を閉じ、再びリューディアを見据えたとき、そこにははっとするほど強い輝きがあった。リューディアは一瞬我を忘れ、魅入った。

 パティーシャはさらに近づき、リューディアの両頬を優しく包み込むとその唇に己のそれを重ね合わせた。そよ風が撫でるように淡いものだった。

 リューディアは泣くことも忘れていた。時すらも溶けて消えてしまったようだった。


 もっと早くこうすればよかった。


 恥ずかしそうに顔を真っ赤にさせて笑みながら、その顔を隠すようにパティーシャはリューディアの肩にこつんと額を乗せた。

 しかしすぐに顔を上げると不安そうに訊ねる。

「……もしかして、嫌だった……?」

 リューディアが黙って頭を振ると、ほっと息を吐きながら再びもたれかかった。


 「……大好き。大好きよ」


 リューディアは痺れたように動くことができない。触れるか触れないかの本当にささやかな口づけだったが、温かく柔らかい、そして限りない優しさがこもったものだった。


「ねえ……抱き締めて。リュディ……?前にあたしにしてくれたように」


 肩に顔を埋めたままパティーシャが囁く。

 リューディアは忘我のままその体に腕を回し、その途端忘れていた涙が堰を切って溢れ出すのがわかった。

 半年という空白はあったものの、人生のほとんどを二人で共有して生きてきたというのに、月日は確実に少女たちを隔てていた。

 ほんの少し前まで同じ体格だったはずの二人は、リューディアの方が少し背が伸び、自然パティーシャを包み込むように抱く格好となる。体つきも女性らしい曲線を帯び始めていた。


 小鳥のように小柄で愛らしい少女が負うには重過ぎる罪に違いなかった。


 否、今のリューディアにはなぜ自分が泣いているのか、友の身を包んだ自身の腕が何を感じ、離すまいと固く抱き締めているのか考えることもできなかった。


 ただただ泣き、ただただ抱き締めた。


 泣きながら抱き合う少女たちに、別れの時は確実に近づいていた。

 やがてそっとリューディアを押したパティーシャはまだ濡れた頬でにっこりと笑ってみせた。

「ごめんね……。リュディ」

「……いや。だめ、パティ……」

「もう決めたの。あたし、行くね」

「いやよっ!行かないで、私を置いていかないで」

「リュディ……」

「お願いだから……。ずっと一緒にいるって、言ってくれたじゃない」

「ずっと一緒よ。あたしはずっとリュディの傍にいる。でも……そうね、ほんの少し離れるだけだから。だから待ってて、リュディ」

「……」

「……あ。そうだ」

 パティーシャは胸からペンダントを外すとリューディアの手に握らせた。

「これを預かっていて」

「そんな……これは」

 それはパティーシャの母親のものだった。

 かつて住んでいた屋敷が売りに出される前、パティーシャが見つけた唯一の形見である。

 母親の記憶がないパティーシャとしてはそのペンダントもやはり馴染みなく実感の湧かないものであったが、母と自身とを結びつけるたった一つのよすがのために、片時も離さず身に付けていた。

 金細工に色とりどりの宝石が鏤められた蝶の形のペンダントである。

「これをあたしと思って。あたしが戻ってきたときに返してくれればいいもの。ね?」

 慌てて返そうとするリューディアの手を押し留めながら言う。

 リューディアは複雑な心持ちで掌のペンダントを見つめた。こんな大切なものを預かっていいものか、そして彼女の言葉に確信が持てない。どのように調べられ、どんな裁きが下るのか知る由もないからだ。

 それはパティーシャにもわかっているだろうに。

 リューディアは探るような視線を向けたが、パティーシャはいつも通り屈託のない無邪気な笑顔を浮かべるだけだった。

「リュディは何も考えなくていいの。本当のことを言っちゃ駄目だからね。絶対に駄目よ?それから……」

 少し言いよどみ視線を外した後、パティーシャは続けた。



「絶対に、死のうなんて思わないで。これだけは約束して。絶対に、死なないで。生きて、生きて、生きるの。死のうなんてしたら……あたし、絶対に許さないから。お願い、リュディ。約束して。どんなことがあっても、生きると」



 これまで以上に強い眼差しだった。

 射抜かれそうな迫力に圧倒されて、リューディアはただ頷くしかない。これほど強い表情を見たのは生まれて初めてだった。

 だがすぐに切り返した。

「パティは?パティも約束して。私を置いてなんて、絶対に……」

「あたしは、大丈夫。さあ……」

 その腕を離して。彼女は暗にそう言っているのだ。


 そんなことができるはずもない。


 体を外してもパティーシャの指に指を絡め、腕にしがみつく。パティーシャは微笑みながらその背を撫でていた。

 感情が氾濫し荒れ狂っているけれど一つも言葉にできなくて、ただ胸が締めつけられて苦しかった。

「リュディ……冷たい」

 それでもパティーシャは優しくリューディアの背を叩き続けていた。

「大丈夫だから、気を鎮めて。深呼吸して。でないと、あたしがしようとしてることが無駄になっちゃう。ね?あたしのためと思って、落ち着いてちょうだい。そして、リュディは何も言わないで。全部あたしに任せてね。わかった?」

 優しく温もりのあるパティーシャの声がただただ心地良かった。


「それから、絶対に、生き延びること」






 窓もない部屋では時の経過は窺い知れない。

 だがいつまでも二人が寄り添い合っていられるはずもない。

 やがてノックの音と共に何人かが入ってくると、間髪入れずにパティーシャは立ち上がった。

 リューディアは声を上げることも、腕にすがりつく間もなかった。


「お話があります」


 確然とした揺るぎない声が響く。

 慌ててリューディアも立ち上がり、無意識に彼女の手を取ろうとした。だがそれを予期していたかのように、パティーシャは進み出る。

 入ってきた者たちは互いに囁き合ったあと、頷いた。

「では来なさい。……そこの貴女は?」

「彼女は何も知りません。私が全てを語ります。彼女は少し気分が悪いそうなので、休ませてやってはいただけませんか?なにしろ、あんなことになってしまいましたので……」

「わかりました。では貴女はここで待ってなさい。後で食事と、それから寝具も持ってきてあげます」

「まっ、待って……」

「ありがとうございます。では、お願いします」

「パティ……!」

「大丈夫だから。待っててね」

 言葉とは裏腹に眼差しは有無を言わせない強いものを帯びている。

 大人たちに囲まれてその小さな体が部屋から出て行くとき、最後にぽつりと言葉が落ちた。


「約束、ね……」








 そしてそれが、パティーシャの姿を見た最後となる。


 リューディアは待った。


 次の日にはもう修道院の他の面々と合流することとなった。リューディアに遠慮してか、巫女たちは誰も彼女に話しかけようとはしなかった。

 ただ修道院長はリューディアを引っ張り出して根掘り葉掘り聞きたがった。なにせ自分の所の修道女が死んでしまったのだから当然である。

 ここで本当のことを話せばパティーシャを早く返してもらえるかもしれない……とは思いつつも、パティーシャが自身のことを考えてとってくれた行動を思うと、苦しみながらも真相を隠して語るしかなかった。

 自責の念に駆られながら、神に祈りを捧げつつパティーシャの帰りを待つ。

 だいたい証拠を持たない少女の告白など、とても信じるに足るものではなたい。リューディアはそう考え、やがて自分が呼び出されるときを願った。

 どんな償いも怖ろしくはなかった。

 ただパティーシャを無事に返してくれればそれでいい。だってこれはリューディアの罪なのだから。


 ところがそんな彼女の気持ちをよそに、一同は各々の修道院に帰ることになった。

 修道院長らが長く修道院を空けるわけにはいかず、また巫女たちに不安が広がっているためだった。少女たちはすっかり怯え、早く帰りたいと声を上げていた。


「パ……パティ、パティーシャは?!」


 リューディアはたまらず修道院長に駆け寄る。

「まだ時間がかかるみたいよ。心配せず、戻って待ちましょう」

「そんな……!時間がかかるってどれくらいですか?パティーシャは……戻ってくるのですか?」

「わからないわ。神に祈りなさい。信じて待つのです」

 修道院長の、話はもう終わりという態度、そわそわと落ち着かない一同の雰囲気。リューディアは到底納得できなかった。

「私、待ちます。ここでパティーシャが戻ってくるのを待ちます」

「駄目です。もうこれ以上王都に留まってはいられないわ。あんなことになってしまったし、もう面倒事はたくさん」

「だって、パティはどうなるのですか?!」

「知りませんよ。待つことならば修道院に戻ってでもできるでしょう。さあ、これは王命です。それとも貴女一人で残るっていうの?」

「私は……」

 一瞬ためらった自分を責めながらリューディアは答えた。

「残ります。私一人で」

「馬鹿を言わないでちょうだい」

 修道院長は呆れたようにため息をついただけだった。




 パティーシャが連れていかれてどれくらいの時間が経過したものか。

 とにかくそれはリューディアが思ったよりも長く、そして王都を去る自分たちについては拍子抜けするほどあっけなく感じた。

 リューディアは、今回のことは早く忘れるようにと暗に言われているような気がしてならなかった。

 パティーシャのことをいくら尋ねても誰も答えてくれない。いっそ脱走を企てようかと何度も考えたが、一人で王都に残るのは難しい。

 内心穏やかならぬものを抱えながら、必死に自身をなだめて帰りの馬車に乗り込む。

 名乗り出ることも考えないわけがない。

 しかしあの時のパティーシャの言葉と表情を思い出すと気持ちを抑え込まなければならなかった。



 信じて……。

 約束だからね……。








 そしてリューディアは修道院に戻ったことを死ぬほど後悔した。

 パティーシャが戻ってくることはなかった。

 リューディアは部屋に籠もった。とても人前に出ることはできない。

 食事が終わり、皆が部屋に戻ってくる時間帯になるとこっそり抜け出して 物置に潜んだ。

 同室の少女と何人かの修道女たちには具合が悪いから休むと予め伝えてあった。部屋を出る前に寝台を丸く膨らませておいた。その下段にあるパティーシャの寝台を見ると、胸を鷲掴みにされる思いがした。もちろんそこは空っぽで、シーツの冷たい白ばかりが目に刺さる。逃げるように部屋を飛び出した。

 今度ばかりは自分を律することなどとてもできそうにない。


 リューディアは修道院に入って間もない頃、前もってしていたことがあった。

 とにかく自分の力を怖れた彼女は可能な限り修道院内を調べていた。誓詞を立てた正式な修道女とは違い、リューディアたちにはある程度自由な時間があった。彼女はそれを建物の構造を調べることに費やした。怪しまれないように人に聞き、書庫にも赴き、いざとなったときには抜け出せるよう探しておいたのである。

 修道院は軽い牢獄のようなもので、一度入ればなかなか出ることはできない。しかし平和もそう長くは続かない不安定な時世、秘密を保持する宗教施設には隠された通路や抜け道がたくさんある。パティーシャが来てからは半ば探検をする感覚で一緒に探した。


 それが役に立つときが来たようだ。


 もはや先のことなど考えている余裕はない。

 このまま留まればまた人の命を奪ってしまう確信があった。パティーシャのことを聞いて、黙ってそ知らぬ顔をして日々を生きていくことなどできるはずもない。

 今すぐにでも膝から崩れ折れ、大声で泣きわめきたいのを必死に堪えているのだ。

 すでに涙が幾筋にも頬を伝っている。

 頭の中は火を噴きそうな勢いなのに、全身が冷え切っている。濡れた頬を触れてみても生気は感じられない。息まで凍りついて止まってしまいそうだ。

 いっそ止まってくれたらとさえ思う。

 もちろん外の空気は暖かく、穏やかな夜が広がっていた。




「貴女にとって残念なことだけど……」



 修道院長は眉を曇らせながらもどこか他人事のように言った。


 リューディアは毎日のように修道院長や修道女たちにパティーシャのことを尋ねて回っていた。

 あの日から三週間ほど経ったとき、やっと修道院長から聞き出せたのは僅かばかりの訃報の言葉だった。

 明らかに修道院長はリューディアに気兼ねしながら遠まわしに伝えていた。しかし全てを知るには十分すぎた。その場で卒倒しなかったことを褒めてやりたいくらいだった。

 そんなもの、彼女にとってはただの気休め程度にしかならなかったが。



 この時のことは、リューディアはほとんど覚えていない。あの場をどう耐え、修道院を出る決心をし、そして逃げ出したか。その後の人生。全てにもやがかかり、霞んでいる。


 わかっていたのは真実を知ること。

 少しでも遠く人目のつかぬ地を探すこと。


 しかし今日まで命あったのは内心を抉るような激しい葛藤の末である。



 何度も耳を疑い、混乱して己の正気を確かめた。根拠も何もない少女、まして騒ぎがあった夜には全く無関係な場所にいたはずの彼女。

 やがてリューディアにもその思惑を理解した。王家は真相を突き止めるよりも、事態を早く収束することを選んだ。

 それでもパティーシャを罰してしまった根拠がわからない。


 リューディアはパティーシャと共に過ごしたマリューヌの義父母のもとへも訪れた。とても直接会うことなどできなかったが、出会う人々に尋ね歩き、屋敷の使用人にも会ったのち驚くべきことを知った。

 パティーシャへの尋問の間、王家の使が彼女の素性を調べにきたらしい。

 が、義父ケインは兄が犯した失態が発覚するのを恐れ、パティーシャをなんら庇い立てすることもなくむしろ肯定するような態度を取ったということだ。

 つまり全く健康だったマルドは突然心臓発作を起こして死に、その後パティーシャはずっと部屋に閉じこもりこちらの呼びかけには一切応じることがなかった。かといって父の葬式には涙一つなく平然としていたから、悲しみに明け暮れていたわけではない。

 そういう子供だった、と。

 ケインがそう語ったならば当然リューディアの名も話題にのぼるはずだが、どういうわけか彼女に咎が及ぶことはなかった。

 どうして自身に疑いの目がかけられなかったのか歯痒い思いをしながら、つまりは王家の思惑を痛感せずにはいられなかった。

 パティーシャが必死に自分を庇ったのだと考えるのはあまりにも辛すぎた。



 現実と己の名状しがたい感情との間を、地獄の如き生とあまりに魅力的な死との狭間を激しく行きつ戻りつしながら、リューディアはパティーシャが処刑されるに至ったもう一つの理由を得た。

 王太子フェリクスが犯人はパティーシャだと述べたのだ。アスターヴルムの金獅子。どんなに真実とかけ離れた突拍子もないものだとしても、その口から出る言葉にどれほどの重みがあるのか想像するに難くない。

 そして王太子が語った以上、その証言を覆されたのでは彼の名誉に関わる。

 そんな勇気や正義感、或いは命の覚悟をもって彼に挑まんとする人物がいるはずもない。

 リューディアが苦々しく思わないわけがない。

 フェリクスが嘘の証言をしてリューディアを庇うようなことをしたのは、彼女を利用するという欲望を捨ててはいないからだ。

 王太子であり民の期待が大きいとはいえ、彼の権限は無いに等しい。正しくリューディアに咎が及べばフェリクスは何もすることができないのである。

 そうなる前に手を打ったのだろう。



 こうしてパティーシャについた罪状は王家及び国家への叛逆罪。

 徒に混乱を招き、王家を転覆せんとしたその罪重しとして、彼女は絞首刑に処された。

 そしてその亡骸は市街の民衆の目に晒された。

 自身の父親や近衛兵二人、修道女が同様の死を遂げたのは彼女が異端の神を信奉し、その邪悪なる力を借りて呪いをかけたためということで決着がついた。









 リューディアは眼下の光景を何の感慨もなく眺めていた。


 手にはパティーシャから預かった蝶のペンダントが握られている。

 彼女がいない今、これを持ち続ける意味はない。

 何度も腕を振り上げて投げ捨てようとし、そのたびに思いとどまった。あの明るい声と笑顔を思い出すと胸がつまった。

 立ってはいられず、とうとうその場に崩れ折れた。


「嘘つき……」


 きつく握り締めたペンダントを胸に抱き、空を切り裂く鳥の声のようにリューディアは泣き叫んだ。

 今日まで何度泣いたかわからず、何度彼女の名を呼んだか知れなかった。失った悲しみと自責の念が魂をすり潰していた。


 彼女を殺したのは自分だと思った。


 精も根も尽き果てて倒れ伏していた体はやがてむくりと起きると、ふらつきながら立ち上がった。瞳に色はなかった。空虚なまま再び眼下を見つめた。

 あと一歩足を踏み出せば厳しい岩の斜面が連綿と続く、確実に五体が打ち砕かれるであろう崖だった。


 リューディアをこの世に繋ぎとめるものは何一つない。


 これまで何度も死の幻想に捕らわれながらも、振り払っては生きてきたのはパティーシャの死の真相を突き止めるためだ。

 その様子は不気味ですらあった。知るためにはものを盗むことも泥水をすすることも厭わなかった。容貌はすぐに貧民窟で物乞いをする乞食のそれになった。パティーシャが気に入って指で梳いていた髪はばっさり切り落として早々に売ってしまった。


 地を這いずる生き方をしても、このペンダントだけは手放さなかった。


 糧を得るに、自分の能力は役に立つことに気づいた。試してみて成功したときは空腹感よりも吐き気を催した。それもじきに慣れるようになって何も感じなくなった。

 力は護身にも役立った。自身の目的のために他人がどうなろうと知ったことではなかった。それは自業自得であり当然の結果だ。

 全ては知るために。


 しかしそれももう終わってしまった。



 命を奪う力。

 ならば己の命も奪えるだろうか。

 さあ早く殺せばいい。

 両手で首を掴んだこともある。

 じりじりと力がこもって締め上げられていく苦しさと氷の冷たさを感じるが、他人の命を奪うときのあの一瞬の心臓発作のような症状は現れなかった。視界がかすみ涙で滲み、息が笛の音をあげる。

 やがて意識を取り戻すと倒れたまま目を開けて天を仰ぐ自分がいた。

 意気地なしと己を罵倒するより他なかった。



 残された道はただ一つしかない。


 懐かしい笑い声や温もりが浮かび、リューディアの虚ろな顔に笑みとも苦悶ともいえぬ奇妙な表情が表れた。


「待っててね、パティ……」


 はっと現実に戻され、リューディアは思わず後ずさった。待ってて。彼女はそう言った。


 待っててね。約束ね……。


 パティーシャは最後にそう言ったのだ。


 枯れ果てたはずの涙がまた零れ落ち、乱暴に拭った。どうして?彼女は約束を守らなかったじゃない。私を置いていってしまった。

 今さら彼女の約束を守る必要がある?彼女はもういない。私は全てを失ってしまった……。

「パティだって待ってる。そうよねパティ……?早くあなたの傍にいきたい……」

 だってずっと傍にいる。あなたはそう言っていたから。



『約束して。どんなことがあっても、生きると』



 唐突にパティーシャの声が耳の奥で響いた。

 そうだ、彼女はもう一つ約束を残していった。絶対に死なないで。お願い、リュディ。

 その言葉と共に、思いきり打たれた頬の痛みも、優しく温かい唇も思い出され、リューディアは悲鳴をあげてうずくまった。やめて、思い出さないでとうわ言のように呟いても、記憶は洪水のように脳裏に押し寄せてきた。


 蝶が花に触れるような微かな口づけ。しかしそこに彼女の思いの全てがこもっているような気がして、無意識のうちに唇に触れた。

 フェリクスが強引に奪ったものとは遥かに違う、よりリューディアを悩ませ惑乱させる口づけだった。今でもその感触ははっきりと唇に残っている。それを思い出すだけで、リューディアの時は止まってしまうのだ。



 彼女は全てを知っていたのだろうか。



 立ち上がり、また虚空を見つめながらぼんやりと物思いに耽った。



 なぜ彼女は死ななければならなかった。



 最後に残していった約束も確信めいた言葉も、全てこうなることを予知していたようで混乱はますます広がっていく。



 大好き。大好きよ……。



 掌を開き、煌めく小さなペンダントを見つめた。そしてこれをどんな思いで私に託したの?


「あなたは……私が後を追うことを許してくれないの……?そんなはずは……」


 一緒にいることよりも、私がたった一人で寂しく生き続けるのがいいっていうの?



 それが自分の償いなのかもしれない。



 でも、いつまで?



 漠々たる闇を見つめながら、絶望に身動き一つできないまま茫然と立ちすくむしかなかった。






 彼女は神を捨てた。

 なぜなら神は全くの無実の少女を見捨てたから。だから修道院に入って静かにパティーシャの冥福を祈る生活なんて送れなかった。


 いっそ己が身を売り飛ばしてしまおうかと思った。全てを失った者が今さら何を惜しむことがある。

 しかし毎日好きなように弄ばれて力を暴走させない自信がなかった。どうでもいいと投げやりになっても、やはり無差別に命を奪ってしまう可能性にためらいを感じて実行に移すことはできなかった。


 自首しようと思った。

 もともとリューディアの罪なのだから当然のことだ。城の門前で叫び続けようか。しかしパティーシャを処刑したことで一応の決着を見たことになっているため、今さら狂った少女が押しかけたところで追い払われるに決まっている。ならば証拠を見せればいい。誰もが信じざるを得ないだろう。パティを返せと喚き散らせば彼女の躯に会えるかもしれない。

 いっそのこと、復讐してやろうか。

 ところが王太子が誰かを探しているらしいと風の噂で耳にした。今度はそれが何者か執拗に聞きまわる必要はなかった。王都に行ったら捕まってしまうのは時間の問題だった。

 罰せられるのがリューディアの本望であって、もし王太子の手に落ちたら変に庇い立てされて生かされる羽目になる。それは最悪の状態だ。己の力をフェリクスに渡してはならない。それだけははっきりしていた。


 憔悴しきって幾度となく死の願望に取り憑かれ、そのつど試みようとしたがもう無理だった。パティーシャの言葉が口づけが眼差しが、彼女の全てが必ず蘇りそれが鎖となった。鎖に絡め取られてあと一歩がどうしても踏み出せない。リューディアは次第に諦めたような生を刻むこととなった。



 いつか鎖が解けるまで……それが私の贖罪だというのなら。



 リューディアに許された生き方はただ一つ。

 人目につかぬようひっそりと隠れて生きること。





 なんてことはない。

 彼女がいないと生きていけないのだと思い込んでいた自分は、今もこうして生き恥を晒し続けている。

 







…言いたいことは山ほどあるのですが、後書きに書くのはいかがなものかと思ったので、活動報告にてつらつらと述べます。



変更点とかについても言及しておりますので、まあなんというか、なるべく目を通してやってくらはいm(_ _)m




…まあ、絶対見ないとダメ!っていうほどでもありませんのですが(どっちだよ







あ。エリーヌとは死んでしまった修道女のことです。




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