4-10
慌ただしい足音と声が往来する。
人の気配があるたびに鼓動が跳ね上がる。
意識は耳に集中し、扉の向こうの音全てを、廊を走る人の息づかいや鼓動までも拾おうとするかのようだった。いっそ耳を塞ぎたかったが、昂ぶった神経は一時の気の緩みさえも許さない。
代わりに目を閉じれば、ただでさえ研ぎ澄まされた感覚は針の如く鋭敏になった。無音の合間でも隠された意図があるような気さえして、やむなく目を閉じるのをやめた。
そのとき軽い足音が駆けてくるのが聞こえ、たちまち耳がその音に集中する。
ぱたぱたと形容するに相応しい足音は予想と願いに反して扉の前で止まった。
緊張で心臓が一気に締めつけられる。
ほんの少しの間の後、ノックの音と共にためらいがちな声が聞こえてきた。
「……リュディ。あたしよ。入ってもいい?」
リューディアは駆け寄ろうとして、はたと止まった。
じっと耳をそばだてる。パティーシャの声の他に聞こえるものはなく、気配もない。
リューディアの思いを感じ取ったのか、パティーシャは続けて言った。
「あたしの他には誰もいないわ」
束の間目を閉じ、そして開けるとリューディアは閂に手をかけた。
その震動はいうなれば投石機で投げ込まれた巨岩が城の中枢に炸裂したかのようだった。
舞踏の間では祝宴の最中だったが、実際戦争が始まったと思った者たちもいた。当然、祝宴はお開きとなった。
城中が騒然となる中で、一つの驚愕の事実が浮かび上がってきた。
それを発見した兵士はその場にくずおれ、ひれ伏すように蹲ってしまった。
城に異変はなかった。
唯一、玉座の間を除いて。
そしてそれを見た者は最初の兵士同様、力なく茫然とするばかりであった。
希少で非常に硬い玉剛石で作られた青銀色の玉座が、真っ二つに割られていたのである。
玉座は王冠、錫杖、剣に並ぶ王権を象徴する神器である。否、たとえ失われたとしてもまた作られるそれらと違い、玉座は代えがきかない。ある意味玉座は王権の要といえた。
世界でも僅かしか取れない貴重な玉剛石を用いた玉座は、代々の王が先代に敬意を表して手を加えずに譲渡してきた。戦火や、あるいは王の一存で何度か代わったその他の神器とはまた異なる、威厳と緊張感とをそこに座す者に与えた。
王権が続く限り、玉座と共に。
月光を思わせる清麗な玉剛石に金糸が紋様をかたどって彫り込まれている。また背もたれの上部には神殿のものには及ばないが、握り拳ほどの大きさの水晶がはめ込まれてあった。
ステルラリスの玉座はその間で謁見した者全てを驚嘆させるに十分だった。
――その玉座が中央から真っ二つに裂け、階段の半ばまで亀裂が走っている。
正気の沙汰ではなかった。
さらに奇妙だったのは玉座の間を守る近衛兵二人がその場に倒れたまま冷たくなっていたこと。
扉の前とはいえ玉座に一番近いところにいたこの二人が怪しいとも思えたのだが、扉には鍵がかかっている。二人は鍵を持っていない。
ならば外部の者からか?
しかし前述の通り鍵はかかっているし、玉座の間に窓はない。侵入することは不可能な上、念のために調べたが侵入の痕跡もなかった。
死んだ近衛兵たちに一切の外傷は見受けられなかった。ほんの一時間前には詰所で元気そのものの姿を見せていたはずなのに。
玉座の間に荒らされた形跡はなく、ただ玉座のみが無惨な残骸を晒していた。
そもそも鉄よりも硬い、玉剛石の塊ともいえる玉座を人の手で破壊することなど土台無理なのである。
仮に人が破壊できたとして、一体何のために。
城崩れようとも、この玉座だけは残る。そう賞された神器であった。
城全体を揺るがしたあの衝撃が直接の原因と考えるなら、天変地異が玉座の間だけに起こるというのも理解に苦しむ。もちろん隣国が攻めてきたはずもない。
つまるところ謎は深まるばかりであった。
城内を包んだ騒ぎの只中で、さすがのフェリクスもその先を続けるわけにはいかなかった。
しかしそのこと以外でも彼の情欲は失せていた。
リューディアの様子がおかしい。
己が体をきつく掻き抱いて蹲ったまま、その身に走る震えは止まらない。目を大きく見開き、魚のように口をぱくぱくと開閉する様は、単に寒さのせいとは思えなかった。むろんその顔に血の気はなかった。
結局リューディアはそのまま神殿へと帰されたのだった。
到底眠ることはできぬまま夜は明け、まだ曙の光が淡いうちに起きて広間に集まるよう言われた。
おそらく今そこに来ていないのはリューディアだけだ。だからパティーシャが様子を見に来たのである。
「リュディ、早く行かないと」
パティーシャは寝台の端にリューディアと並んで座ると、その手を取った。
「冷たい……」
驚きの声がパティーシャの口から漏れる。
今度は真剣な表情でリューディアに向き直ると、彼女の肩に両手を添えた。
「リュディ、もしかして具合が悪いの?顔色も悪いし……。大丈夫なの?」
リューディアは俯いていた顔を上げたが、長くはパティーシャと目を合わせられなかった。答えようと口を開けるも言葉が出ない。
「リュディ。少しだけ、顔を出すだけでいいから。後はあたしがリュディを休ませるって皆に言うから。ね?」
「……いや」
「え?」
「いやっ」
リューディアは寝台に身を投げ出し、掛け布に顔を埋めてしまった。
「リュディ!どうしたの?」
「いやなの……もういや……。会いたくないの。誰にも……」
「リュディ……」
くぐもった声は悲痛に満ち、ところどころ嗚咽が混じる。
「リュディ、一体何が……」
「やあっ!」
リューディアはますます深く潜り込んでしまう。
部屋の空気がやけに重く、冷えているように思えた。
気候のせいでは決してない。今は暖かく過ごしやすい春の陽気だ。
そしてパティーシャの身もなんとなく重く、微かな息苦しさを感じる。傍らのリューディアを見た。はっと目を瞠る。
ことリューディアに関しては聡いパティーシャはじっと考え込んだ後、何かに思い至ったのか悲しげに眉を顰めた。
パティーシャは昨晩の出来事は知らない。
城で何か起こったらしいとだけ伝わり、おそらくこれから集まった巫女たちに何らかの説明があるものと思われた。
震えるリューディアを見ながら考える。
今の彼女は非常に不安定だ。昨日何があったのか知らないが、きっとリューディアと関係がある。
パティーシャは夕食後のことを思い出した。順を追って推測していくと、眉を顰めずにはいられない。涙に暮れる彼女の姿を見るだに心が痛む。
でも……。
パティーシャは迷い、扉とリューディアとを交互に見やる。
ほんの少しでもいいから顔を見せた方がいいのではないか。昨晩のことがリューディアと関わりがあるのなら、姿を見せない方が逆に怪しまれはしないか。
しかし今のリューディアの状態はまずい。
パティーシャはそれまで怖れは抱かなかったし今も怖いとは思わないが、初めて近寄りがたいものを感じた。
胸の奥が僅かに圧迫されるようなざわつきを覚える。薄ら寒いものが背を這い下りるようだ。
それ以上余計なことは考えまいとし、とにかく彼女のことに意識を集中する。なんとか少しでも彼女を宥められないものか……。
そろそろと手を伸ばし、震え続けるか細い背を撫でる。にじり寄ると耳元に囁いた。
「落ち着いて……。大丈夫。大丈夫だからね……」
彼女の呼吸が優しく撫で続けるパティーシャの手の動きに呼応し始めたときだった。
せわしない足音が不意に聞こえてきて二人とも動きを止める。あっという間に足音は扉の前まで来た。
がちゃがちゃと鳴るノブの音がやけに大きい。
「……やっ!やああっ」
「あっ……!いけない!!鍵をかけるのを……」
パティーシャの声は半ばでかき消えた。
「二人とも何をやってるの?!院長がお呼びですし、皆さんもう揃って……」
「こっ、来ないでえ!いやあ!!」
「だめえっ……!」
パティーシャは寝台から飛び降り、駆け出そうとした。
リューディアは掛け布を爪が白くなるほど握り締め、壁際に後退した。
そして二人を呼びにきたマリューヌの修道女はその場で固まっていた。
永遠のように動きの止まった空間は、実際は一、二度の瞬きの間に全てが終わっていた。
修道女はそのまま床に転がる。
しんと静まり返った室内。
息をするのも忘れてしまったかのよう。
しかし現実は唯一人の呼吸が完全に失われていた。
もう睫毛一本たりとも動かすことはないだろう。
有ったはずの体温は急速に奪われて。
もはや残り香のようにしかその温もりも感じられないだろう。
それもあっという間にかすれ消えゆく。
その光景は、いつかの日のものと異常なほど酷似していた。
茫然と固まる二人の少女と、永久に動かぬ躯と。
ただ決定的に違っていたのは、事の次第が二人には十分すぎるくらいわかっていたこと。
それが取り返しのつかない現実であるということ。
ちょっと短め?ですがうPしました。
もしかして次話と統合させるかもしれません。
……え。できるよね??後から。
区切りが良さそうだったので分けたのです。
この続きはまだ書いてないので、イイ分けどころがまだわからないんですが。
とりあえず次話でリューディアの過去は終わる予定です。
いやあ、長かったですねー(汗




