4-9
翌日は城で帯剣式が執り行われた。
王族に近しい諸侯や高位貴族のみで開かれるため、この式典に巫女たちは参加できない。城の大正門の前で祝詞を送るにとどまった。
もう彼らが果たす義務はない。今日一日が終われば少しの王都見物が許される。
神殿に戻った巫女たちに図書館への許可証が配られた。
おそらくは内部を少し見学する程度で終わるだろうが、リューディアにはやっと人心地つけたような思いだった。パティーシャと共に街を見て回る楽しみにも心が弾む。
ところがちょうど夕食を終えた頃にリューディアだけが呼ばれ、ついてくるよう言われた。退室する人たちで食堂がざわついていた時にこっそりと告げられたので、リューディアの他に気づいた者はいない。
ただパティーシャだけが裏手から出ていく修道院長とリューディアを見つけ、首を傾げる。
ついていこうとしたが折り悪く給仕係に見つかってしまった。もうリューディアを追いかけることはできなかった。
とある一室でリューディアを待っていたのは、今夜城にあがるようにという御達し。
その理由を訊ねるより早く告げられ、彼女は目の前が真っ暗になった。
実際、倒れそうになり体を支えられる。
声にならない声は、それでも空気を求めるかのように喉の奥であがいて必死に伝えんとする。
しかし周囲は期待と些細な心配とで浮かれていた。修道院長はリューディアの体を支えながら、実に嬉しそうに何度も頷いている。
倒れかけたのも、乙女らしく感激のあまり気が遠くなったのだと誰もが思い込んでいる。
リューディアの言葉は何も意味を成さない。
そもそもどのような窮状を訴えたところで、王命に逆らうことは許されない。
とても名誉あることなのだ。
女性なら、これ以上の喜びはない。
断るなんて、天地がひっくり返っても、あり得ない。
断るという選択自体、存在しない。
リューディアにできることは動揺した心を鎮めることだけだった。
リューディアは念入りに沐浴を済ませたあと、髪を結い上げ純白の衣装に着替えて城へ向かった。
準備の合間には粗相のないよう最低限の礼儀を教わり、あとはとにかく王太子の意に従うようにとくどいほど諭された。
ところが城に着くとすぐに裸に剥かれてしまい香油を塗りたくられた。髪は何度も梳られて結わずにそのまま背に流し、顔にはまた新たに化粧を施される。
せっかく着てきた服も取り替えられ、淡い紫色の美しい薄衣を身にまとうことになった。
紐で結ぶ衣は脱げやすくするためだ。それに気づくと気分が悪くなってきた。
望月は高々と昇っている。
巡回する兵たちの闊歩する足音の他に聞こえるものはない。それも過ぎると周囲は嘘のように静まり返る。
全てが現実味を失い、夢の中を漂っているようだった。夢であったならどれだけ良かったことか。
そして彼女は今、彼女を呼んだ本人と相対したのであった。
深々と、まるでうな垂れるように礼をする。
「では、お前もそうなのだな」
金獅子と呼ばれる若き王太子は、ひとしきり室内を行きつ戻りつしていたらしい。
護衛を下がらせるのもそこそこに、その忙しない足を止めてリューディアを見つめる。
「……」
何と答えたらよいかわからず、下手に返事をしては無礼にあたるとも思い、リューディアはただ瞬きを繰り返した。
「お前も力を持っている。そうなのだろう?」
対するフェリクスはもどかしそうに目を細めて彼女に近づいた。
神殿で見せたあの重々しい雰囲気はない。
落ち着きがあり、いっそ冷徹とも見えた其の人は頬を薄らと紅潮させ、張り上げた声も高い。
威圧的で高貴な印象はそのままに、その興奮した面持ちは若人特有の性急さを孕んでいる。
それが余計にリューディアを不安にさせた。
無意識のうちに後ずさるような体勢になりながら、それでも礼を失しない程度にその瞳を見つめ返す冷静さは持ち合わせていた。
「私は……」
「お前、名は」
近寄られると彼の持つ熱が肌に感ぜられた。陽だまりのように温かい。
そのことと、先ほど彼が口にした言葉を脳裏で転がしてみる。
「……リューディアと、申します」
リューディアは再び礼をした。
艶やかな白の髪を見下ろしながら、王太子はしばし口をつぐんだ。
「お前、俺が言っていることがわかるか?お前も他人とは違う何かを持っているんじゃないのか?言ってみろ。嘘は言うな」
今度は単に言いよどんだのではなく、言葉にすることの重さに逡巡して答えられない。
眉をしかめ、何かを堪えるように微かに潤んだ瞳を王太子に向けては逸らす。
言葉にならない唇を震わせていると、そのもどかしさに彼の顔に険が宿る……かに思われたが、息を詰めて彼女を見つめたままだ。
ややあってフェリクスはため息を吐きながら話し出した。
「幼少のときに、俺は特別な力を持っていることに気づいた。俺は……明らかに常人とは違う。俺には他の者には及ばぬオーラがあるらしいが……それ以外にも何かあることを知った」
これは誰も知らぬことだ。そう言い置いてから彼は続ける。
「幼き頃、俺は随分と無鉄砲で癇が強い子供だった。あるとき俺は取り巻き共の目をかいくぐって逃げ出した。城の裏手の城壁を乗り越えようとして、落ちて足を捻った。折れてはいなかったが、もう逃げることはできなかった。観念した俺はそこで蹲って、痛めた足首を掴んでいた。そしたら、痛みが徐々にひいていく。赤く腫れていたはずの所はいつしか無くなり、俺は普通に立って走れるほどだった。結局そのときは連中に見つかったんだが」
フェリクスは少しの間口を閉じた。
「まだ子供だったから、それがどういう意味かわからなかった。そういうものだと思っていた。だが剣術の稽古、まあほとんどは素振りで作った傷だが……俺に本気で打ちかかってくる奴はいなかったからな。その傷も少し経てば消えてしまっていた。そしてこれは俺自身に限ったことではなかった。稽古中打ってこない相手に業を煮やして俺は本気で斬りかかった。模造剣だったが、奴は肩に傷を受けて血が出ていた。俺が手を貸そうとしたら、いつしか傷は消えていた。何気なくただ手を置いただけだ。そいつはただ恐縮するばかりで自身の傷が癒えたことすら気づいてなかったがな」
「俺は常々、他とは違う特別な存在と言われてきた。世のあらゆる凡俗とは一線を画す、アイダムの加護を受けた聖なる存在だと。そんな俺の秘めたる力が知れたら、周りは何て言うか。アイダムの申し子、アイダムの再来とまで言うだろう……だが」
フェリクスは一歩近づき、リューディアの瞳を覗き込んだ。
彼の瞳には異様な熱が灯り始めていた。
リューディアは少し後ずさりする。
「俺はその可能性を探ることにした。アイダムは創世の神オーリスから、混沌と闇が蔓延る地上を光でもってうち祓い秩序をもたらすよう仰せつかった。アイダムは光輪、力、生命、秩序、法を司り、オーリスより生まれ出た息子。大いなる神オーリスの神意を地上に伝える代弁者にして、地上の嘆願と穢れなき魂を天へと運ぶ伝達者。正義のもとに裁きを下す断罪者でもある。命を受けて地上に下った彼は半神……ゆえに人の手によって顕現しうる」
リューディアが知るアイダムは長身で筋骨逞しく、長剣を携え、光を体現した身であるがゆえ黄金の髪と瞳とを持っていた。
ただ人の手で想像することが許された神であるために、その瞳は蒼穹の如き青だったり燃える炎の色だったり様々だ。
目前の人を茫然と眺める。
「アイダムが最初に降り立った地は此処、ステルラリス。ゆえに我が国は最も威光に溢れ、最も篤くアイダムを祀る。我が国はアイダムによって守護されし聖なる国だ。その国に俺が在るのだ」
彼女は気持ちを落ち着け、じっと考えた。
彼の語りに、彼が真実アイダムの再来だという言葉は無いように思われた。
なぜなら、彼と真逆の力を持っていると思われる己はどうなるのか。
彼はただ書物や伝承によって伝わるアイダムの像を述べているにすぎない。
フェリクスの瞳は先程から射抜くようにリューディアを凝視している。
「俺は自身の力を明かさないことに決めた。ただでさえ王族の周りにはあらゆる権謀術数がとぐろを巻いている。ここでは信じるに足るものは無い。王城に俺の居場所は無い。世界が……俺のための玉座を用意してくれるだろう」
フェリクスがまた一歩近づいた。堪らずリューディアは後ずさり、もう下がれないことに唐突に気づいた。
あと一歩で壁際だった。
せめて何か言おうとし――彼が唇を歪めたのを見て口を閉じた。
「ここまで語ったからには……お前も知らぬ顔はできないということだ。お前は自身の力については何も言わなかったな。俺はアイダムについて調べてみて、もう一つの存在を知った。アイダムが天より舞い降りたのは地上に蔓延る闇を祓うためだ。この闇の存在、文献にはほとんど記されてなくてな。王族所蔵の書庫にごく僅かな書物が残るばかりだ。俺の高祖父様が禁書扱いにし、ほとんど燃やしてしまったらしい。この神を信仰しているのがナディーハを始めとする東方諸国だ。かつてステルラリスに巣食っていたバクザ人共はその女神イルジナを祀っていた。ステルラリスでイルジナを祀れば異端となる。……よもやお前、イルジナを信仰してはいまいな」
それはリューディアにとって初めて聞く話だった。当たり前だ、それが記された書物は国内には無いに等しいのだから。
語ることすらこの国においては禁忌となるかもしれない。
絶対的な万物の神オーリス、そしてその傍らにある光恵む半神アイダムが主たる神々なのだと思っていた。
確かに東の国々の信仰が違うことは知っている。
それは人々に生贄を強要する邪神で、神などではなく悪魔なのだと教わっていた。
イルジナはアイダムの妹とも姉とも、また妻とも言われ、大いなる神オーリスが創りし万物に影を作るために遣わされたという。一説にはオーリスの右目から生まれ出たのがアイダム、左目からはイルジナが生まれたともある。
出来たばかりの万物は高温を放ち、傍にあるものを焼いてしまうほどだった。イルジナは影を作ることで涼をもたらし、焼き尽くす太陽に影をかけて雨を誘い、また影の帳を下ろすことで万物に休息を与えた。
だが地上に長く留まり過ぎたイルジナは影を集めて黒闇を作り出し、次第に悪の心に染まっていった。影の神は自身の心にも影をもたらしてしまったのである。
イルジナの闇は全てを覆うようになり、地上は陽光も温もりも届かぬ死が蔓延する世界となった。
そして闇から生まれたイルジナの子たちは魔物や病魔となって生きとし生けるものを苦しめ続けた。
リューディアが知っているのは世界に蔓延った邪悪な闇をアイダムがうち祓ったという神話だけで、その闇が名を持った神であったなど寝耳に水であった。
リューディアを始めこの国の人々はアイダムが戦った敵を邪悪な闇の子たちと呼び、そのものたちを讃えるナディーハや東方諸国を悪魔信仰と忌み嫌っていた。
この国ではバグース人(バクザは蔑称である)は差別の的になる。
「お前は最初、俺の質問に答えなかったな。いや、答えなかったのではなく、答えられなかったか……。もしお前が俺と同等の力を持っていて、俺のとぶつかり合ったのだとしたら……。お前は闇の女神イルジナの……」
「違います!!」
先程からの弱々しい態度とは比べものにならぬ大声が迸った。
あまりの無礼と自身でも予想外の大音量に両手で口元を押さえる。
恐怖に慄きながら見上げると、彼は怒るどころかその笑みを深くしていた。
リューディアは鎌に掛けられたことに気づいたが、時既に遅しである。
「やはり……」
フェリクスの手が伸び、リューディアの頬に触れた。彼の手は驚くほど熱かった。
びくりと体を震わせ、もう下がれない後ろにそれでもにじり寄ろうとする。
自分が冷静さを失いかけていることにリューディアは気づいていた。
これまでは王太子の身に異変はなかった。運が良かったと考えていいだろう。
それとも彼に宿っているという力のおかげか……いや、力のことを考えるのはよそう。
今のリューディアにとっては力のことなど到底考えたくもなく、ただいかにこの状況を無事に乗り越えられるか――それが全てだ。
「怖がるな……」
フェリクスの声が急に低く優しく、また甘い響きを伴っていることに彼女は気づいた。
全身が震えだす。水中で必死に空気を求めるのと同じ感覚で、乱れた心になんとか落ち着きを取り戻そうとする。
耳に聞こえるほど深く、吸っては吐き吸っては吐く。
涙が零れそうな両眼を見開き、リューディアは掠れた声を絞り出した。
「王太子様は、その……お気になさらないのでしょうか……?」
「俺が何を気にすることがある」
「私が……仮に何らかの力を持っているとして……そ、それが良いものとは一概には言えないとしましたら、その……」
「俺には力がある。それを忘れたのか?それともお前が持つ力は俺よりも強いというのか?ふむ、それも面白いな。だが俺はアイダムの再来だ。お前がイルジナの再来だとしても、俺をより上回るなんてことはありえん。イルジナはアイダムによって滅ぼされ、黄泉の国へ逃げ隠れた」
「私は……。かの闇の女神の名に私如きの名を連ねるとは、とても畏れ多きことでございます」
それは暗に自分はイルジナの再来などではないと言っていた。
そこにささやかな皮肉が混じっているのかどうか、そしてフェリクスがどう感じるかは、互いの腹の底を探り合うような視線の交差の中でも知りえぬ駆け引きであった。
フェリクスはゆっくりと笑い、壁に両手をつけて少し身を屈めリューディアの瞳を覗き込んだ。
互いの体温が、吐息が肌に直に感じられるほどだった。
「俺にはむしろ、お前が多大な力を持っている方が都合が良い。俺のは傷を治したり癒したりする力だからな。どれほどの力があるのか、本当にそれが俺の力の全てか、まだわからんが。だが、お前の持つ力が俺とは真逆であるとするなら……それは非常な脅威だ。お前が語りたがらなかったのも頷ける」
「わっ、私は……」
「心配するな。俺が良きように計らってやる。俺のものになればいい。お前の力が手に入れば、俺の存在は絶対的なものになる。単なる癒しの力などではない、人の生殺与奪を握るまさしく神の力。俺の名は名実共に余人の心に焼印の如く刻み込まれる……世界中の民に!」
「お願いですから、もう……!」
これ以上ない身分の男が端麗な容姿でもって熱く迫れば、どんな女子でも喜びに震え身を蕩かせる。
しかしリューディアの体を貫いたのは底知れぬ恐怖だった。猫に爪かけられた鼠、鷹に飛びかかられたコルルだった。
否、それ以上に悪かった。
この御方に何かあったら……理性はとうに千切れ飛び、それでも正気を保っていられたのは、己が力がもたらす最悪の結末が頭の片隅にあるがゆえだった。
フェリクスは彼女の腰をさらい、紐に手をかけた。リューディアはもうためらうことなく身をよじって逃れようとする。
衣が乱れ、肩が露わになった。
もともと何も着ていないに等しい薄衣だ。些細な動作でも容易に脱げてしまうだろう。
「なぜ逃げる。リューディア」
そのはだけた肩から手を這わせながら、心底不思議そうに彼は尋ねる。
確かに城にあがる前に教わったことからは著しく反する。彼女の失態を修道院長が知ったら卒倒するかもしれない。
それでも、無礼を承知で拒み続けなければならない。
リューディアはなんとかフェリクスの手から逃れると、その場に蹲った。
顔を思いきり歪め、腹の辺りを押さえる。
「どうした」
「あ、あの……急に具合が……」
苦肉の策である。
いかに王太子といえども、体調の悪い者を無理やり求めるわけにはいかないだろうと考えたのだ。
ところが彼は隣にやってくると片手をリューディアの背に添え、彼女が押さえているところを探り始めた。
「どこだ。俺は傷なら治してきたが、病も癒せるかもしれない。ここか?」
下腹部をまさぐられ、慌てて飛び退いた。
もう打つ手はない。
フェリクスが微かな怒気を滲ませ、あっという間に追いつめた。
「さても俺が誰であるのか忘れた上、仮病まで使うとはな。大した度胸だ。お前を一生牢に繋いでおくのも訳無いことなんだぞ」
その瞳に宿るは眩い金の炎で、彼女の両手首を掴んだ手は焼けるように熱い。
そのまま振り回すようにして寝台に押し倒す。
その手に限らず彼の体も熱を放っている。常人には考えられないほどの体温だ。
「リューディア……!」
「やっ……いやあっ!!」
とうとうリューディアは叫んだ。
「お前の肌は冷たいのだな……」
その白い肌に頬を寄せながらフェリクスは感じ入ったように呟く。
柔い胸元ははだけ、薄衣は申し訳程度にその身に引っかかっているにすぎない。
露わとなった華奢な腿から火の如き熱が侵入してくるようで、堪らず力の限りあがいた。
彼女の理性はとうに焼き切れた。それは彼も同じであろう。
涙に濡れるリューディアの顔を強く押さえつけると、フェリクスはその唇に己のそれを重ね合わせた。
その瞬間、城は重い衝撃を受けたが如く、一度だけ大きく揺れた。
いっそ、最後まで致してしまおうかと思いましたが(爆)
ここのサイトに載せられなくなっちゃうし、それにリューディアの精神がそこまで持つはずがないのでキス止まりにしました。
…さて。
すでに皆様は違和感を感じておられるかもしれませぬ。
私はもうビンビンに感じてます(笑)
はあ…やっぱり見切り発車のツケが回っただよ。
そろそろ1章の改稿をしなければなあと考えてます。
…ですが1章見直すの怖いんですけど。
だってあれ。おま(爆)
とりあえず、リューディアの回想が終わるまでは何事もなかったかのようにそのままにしておきます。




