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異界の姫君  作者: Maverick
1章 美女と幼女
16/52

6-2

 闇の帳が深々と下りる頃、パトリシアは目を覚ました。


 何がきっかけで目が覚めたのかわからないが、いつも傍らで眠っているはずのリューディアがいなくなっていて、それで完全に覚醒する。

 寝室の扉がわずかに開いていて、そこから蝋燭の明かりが漏れていた。居間でリューディアが何かしているようだ。

 トイレかな……?

 もう一度眠ろうと思って身動ぎすると、寝台の端にリューディアの夜着が無造作に置かれている。

 トイレに行くのに夜着まで脱ぐ必要はない。

 慌てて体を起こすとリューディアの気配は消え、足音が反対方向へ遠ざかった。外に出たのだ。

 パトリシアは寝台から抜け出し、後を追った。



 月光に浮かび上がるリューディアの髪は仄青い銀に色づき、それを一つに束ねている。月のような髪……パトリシアは見惚れたが、彼女が着ているものを見て疑問が強まる。

 なんとリューディアはシャツに男物のズボンを穿いている。

 もちろん街灯などない。

 星と月だけが夜を照らす森の中で、都会の明るさに慣れ親しんだパトリシアには夜目は利かず、縫うように歩くリューディアを追うのに精一杯だ。闇がこんなに篤く視界を覆うものなのだとは知らなかった。月に照らされ灯りのように輝いている彼女の髪が目印のようなものだ。

 できるだけ物音を立てず慎重に歩く。幸いなことにリューディアは割合平坦な道を進んでいる。それでもなんとか転ばずにいることが奇跡に思えた。

 パトリシアは追うのをやめて小屋に駆け戻ろうかと猛烈に悩みだした。だが踵を返して一人で歩き出すのも恐ろしすぎた。しかも今戻ったら確実に迷う。

 もはや慣性でついていくようなものだった。

 どこへ向かうのか知らないが、早くリューディアが辿り着いてくれればいいのにと意味のわからぬ焦燥に駆られる。



 すると、まるでそれに呼応するかのようにリューディアは立ち止まった。

 そこは少し空けた窪地で、木々が束の間途切れて見える空は濃厚な紺墨色で一面に宝石のような星粒が散りばめられていた。遠くに弦月が鋭く弧を描いて空を切り取っている。

 結構歩いたのだと思う。パトリシアは薄ら汗をかき、息も切れていた。見つからぬよう幹に身を寄せる。

 その場に佇んだまま微動だにせず、リューディアは森の一点をじっと見据えている。

 首を伸ばして視線の先を追ったが、深深(しんしん)とけぶる闇があるばかりで何も見えない。それなのに何か確信を持ったように立っていることを不審に思う。

「おいで」

 一瞬呼ばれたのかと思いパトリシアは大きく体を揺らしたが、リューディアは相変わらず背を向けていた。

 そして掠れるような口笛を吹き出したのだ。

 鳥のさえずりに似て、しかしか細い透き通った音色が遠慮がちに木々の隙間を流れていく。

 人を待っていると思ったのだが、その呼び方は少し変だ。

「おいで。痛くしないから」

 口笛は途絶え、再びリューディアが囁く。その声はどこまでも優しく穏やかで、不安や疑念に包まれていたパトリシアの心までも溶かしていくようだった。そのまま彼女に委ねてしまいたいとすら思う。何を委ねたいのかわからない。

 その言葉がパトリシアに向けられたものではないのに。そしてその後どんな展開になるのかも知らずに。

 やはりパトリシアと同じように心を溶かしたものなのだろうか。葉擦れの音がしたかと思うと、リューディアが顔を向けている先から一頭の鹿が現れた。

 幼獣と成獣の間といった小鹿はまだ幼い目を殊更に丸く見開き、おずおずと葉陰からリューディアを見つめている。

「さあ、おいで」

 その声がまた一段と優しくなる。作った声音ではないから余計に身に染みる。当事者ではないパトリシアまでもが走り出ていきたい衝動に駆られた。

 それを堪え、固唾を呑んで見守っていると。

「そうよ。こっちよ」

 驚いたことに小鹿はゆっくりではあったが草薮を踏み分けリューディアのいる窪地へ近づこうとしていた。用心しいしい、だがその黒い目をリューディアから逸らさず。

 とうとう僅かの間隔を置いて小鹿とリューディアは並び立った。

 リューディアが一歩踏み出し小鹿の首を撫でる。一瞬びくりと体を震わせた小鹿だったが、すぐにその繊手の虜になってしまったらしく大人しくされるがままになった。ああ、わかるよ。わかる。などと妙に同感しながら見ていたのだが。

 小鹿が急に頭を垂れ、同時に足に力が入らないとでもいうように膝を曲げ出す。立とうとして、でも足が言うことを聞かない。そんな風に見える。眠気にでも襲われたのだろうか。

 リューディアは小鹿の首を抱くように撫で、いまや小鹿は陶酔したように足をふらつかせたまま彼女にもたれかかっている。野生の獣が警戒を解いて無防備な姿を晒すなんて考えられない。確かにリューディアの愛撫は破壊力がある。それにその声も。

 だからといってこれはありえなかった。

 何かに屈したかのように抗うのをやめ、小鹿は崩れ落ちた。体を横たえ、首をリューディアに差し出したまま、もはや再び立ち上がろうとすらしない。このままだとよく見えず、パトリシアは移動する。

 そして驚きのあまり声が出そうになった。

 小鹿の首を膝に乗せ、首筋や背を撫で続ける姿はとても幻想的で美しい。まるでおとぎ話の中のユニコーンと乙女のようである。でもそれだけではなかった。

 小鹿の体は完全に弛緩し、ぴくりとも動かない。全てを投げ出し全てをリューディアに委ねている。心地良い夢でも見ているのだろうか。そう思う間もなく、リューディアは小鹿の首を膝から外し、その場に屈む。

 と、やおら腰に吊るしていたらしい短剣を抜いた。思わず息を呑む。

 リューディアはその短剣を小鹿の胴にあてがい一気に振り下ろした。

「あっ」

 声が出たがこの距離では聞こえない。だが悪いことに後ずさりしたせいで茂みが音を立ててしまった。

「……パティ?」

 思わず目を瞑り体を強張らせたパトリシアだったが、不自然な沈黙に恐る恐る顔を上げるとリューディアの背が見えた。

 彼女は小鹿の胴を押さえたまま、だが短剣は下ろしている。

 そしてこちらを向いていなかった。リューディアは振り返らずして音の主に気づいたようだった。

 その声は疑問符なのにどこか確信した調子を含むと共に、諦めのような切なさも滲んでいて……。

 いたたまれなくなったパトリシアは逃げも隠れもできず、気まずい思いを噛み締めながら彼女の許へ行くしかなかった。

 リューディアは微動だにしない。動かない小鹿を見つめたままだ。パトリシアが傍に来ても沈黙は続いた。

 パトリシアはリューディアが肉をどうやって手に入れているのか教えてくれなかったのをぼんやり思い出していた。この前トラドの町へ行ったときは買わなかった。でも肉はときどき食事に出た。尋ねたときは罠を仕掛けるのだと答えたのみで、実際にどう捕らえているのか見せてはくれなかった。それ以外の作業は見せてくれるのに。狩猟だけは言葉を濁らせるだけだったのだ。


「……もう死んでいるの」

 リューディアの声はどこまでも静かだった。

「短剣で斬る前から」

 見ると小鹿の腹の辺りに斬跡はあったが浅く、血もあまり出ていなかった。咄嗟にパトリシアが動いたせいで注意がそがれたのだろう。

 小鹿は動かない。呼吸のための僅かな体動でさえも失われていた。

 リューディアの静かすぎる声がやけに耳を打ち続けていく。

「この仔はもう目を覚まさない」

「どう……し、て……?」

「どうして?見ればわかるでしょう!失った命は戻らないのよ」

 ああ。初めて彼女は。声を荒げて。

「どう?気味が悪いでしょう。まるで死神……」

 泣いている。咄嗟に感じた。涙声ではないし、相変わらず俯いている顔からは煌くものはない。限りなく自嘲を含んだ棘のある言葉たちだ。それでも泣いていると思った。

「私は命を奪う。生きているものを、この手で触れるだけで……。汚いわよね。こんな可愛い小鹿を。騙したのと同じ……」

「……」

「怖い?私が。怖いなら、もうどこかへ行ってもいいわ。トラドの町へ行きましょうか?そこならあなた、もう知っているでしょう?」

「りゅ……」

「あなたはもう、私と一緒にいない方がいいのよ」

「りゅでいー!!」

 もう黙って聞いていられない。

 ようやく顔を上げたリューディアに表情はまるでなかった。

 パトリシアは手を伸ばす。

 リューディアは弾かれたように仰け反った。

 パトリシアは手を伸ばし続ける。

 リューディアはまるで駄々をこねる子供のように首を振って拒否し続ける。

「駄目……。駄目なのパティ……」

「こわくない」

「え?」

「こわくなんか、ないよ」

「……無理をしては駄目よ」

「むりなんか、してないもん」

 逃げ続ける彼女をやっと掴まえた。

 大きく身震いし、振り解こうとするからパトリシアはその小さな腕をいっぱいに広げてリューディアに抱きついてしまった。

「……っ!」

 大きく息を呑み、固まっているのがわかる。

 幼女の身ではリューディアにもたれかかるような格好だが、とにかく体を押しつけて彼女の背中へと腕を回す。

「だってりゅでー、はじめてあったとき、ぎゅっとしてくれたもん。こうやってぎゅっーと」

 なんとも拙い言葉がもどかしいけれど、それでも必死に言葉を紡ぐ。その震える細い背中を精一杯撫でながら。

「でもわたち、なんでもないよ。あたち、げんきだよ。とっても。りゅでいにあわなかったら、きっとあたし、いきてけなかった。りゅでぃにあえて、よかったとおもうもん。だから、もっともっと、さわってよ。りゅでーも、ぎゅってしてよ。かなしいよ……」

 だからもう、そんな寂しそうな顔しないで。


 親しい人が悲しみに沈むのを初めて目撃して衝撃を受けたかのような。

 その悲しみを大丈夫と答え目の前で無理に微笑まれるような。


 絵画でも味わったあの胸の侘しさを苦しみを、もう噛み締めたくなかった。噛み締めさせたくなかった。


 貴女を助けるために、私はここへ来た。


 なんて言ったら気障だろうか?

 子供の口から臆面もなく言える言葉ではないけれど。大人だってそうそう口に出来ないけれど。

 少なくとも私はそうだ。でも。

 一瞬だけ、胸からせり上がってきたその思いは息を詰まらせるほど切実で真に迫っていて。

 とても冗談のようには思えなかった。

 ただただ彼女の背を撫で続ける。

 いつしか全身を震わせてリューディアは泣いていた。

 押し殺した泣き声が余計に胸に響く。

「ずっと……」

 涙の切れ切れから、注意せねば聞き取れぬ小さな呟きが漏れてくる。

「ずっと、抱きしめたかった……。あなたを……。ずっとずっと、抱きしめたかったの……」

 ごめんね。ごめんね……。

 弱々しい声で謝り続けるリューディアを、腕に力を込めることで答えた。

 今度こそリューディアはパトリシアをその腕で抱いた。

 強く固く、パトリシアには苦しいほどだったけれど、それは喜びを伴っている。

パトリシアだって寂しかった。小さな体になったからこそ抱きしめて欲しかったのだ。その渇望は思ったよりも大きかった。

 パトリシアの目にも涙が浮かぶ。

 ほら。私は貴女の腕の中で、生きている。

 リューディアの体は冷たい。初めての邂逅の時もそう感じたが単に体温が低いのだと思っていた。

 でもこの奇妙な光景を目の当たりにした後で何かを納得した。

 ひんやりとして気持ちがいい。でもこの奥は、胸の中心は温かいのではないだろうか。きっと奥の奥は、温かく鼓動している。

「あたちはだいじょぶ。そばに、いる。りゅでぃーのそばに」

 腕を緩めて僅かに体を離し、リューディアはパトリシアを見つめる。まだ涙に溢れ、頬は濡れている。夕色の瞳は暗いが、光は確かに灯っていた。

 月と同じ色の髪をもみじのような手が何度も撫でる。リューディアの繊手がふっくらした桃色の頬に触れた。


「ありがとう。パティ……」

 リューディアはぽろぽろと涙を零しながら微笑んだ。









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