第九話
曇天。雲が太陽を遮って教室が少し暗くなる度、雨が降りやしないかと不安になる。天気予報によると今日は降らないはずなのだが、どうなることやら。ゆらりゆらりと教室が明るくなったり暗くなったりしていて、僕も落ち着けずにいた。平静を装って黙々と黒板を書き写す体。大人しくしていると、不安が爆発しそうになる。消しゴムが上手く使えない。
それでも天気はなんとか持ちこたえてくれた。今日の世界は明るくない。どこを歩いても僕の影は薄い。
天気と同調しているかのように、相原さんはうな垂れていた。遠目から見ても落ち込んでいるみたいだと感じるくらい、無気力にだらりとしていた。その姿はまるで自分の重さを自分の体で支えきれていないかのよう。さらに彼女の手は死にかけた魚のようにベンチの上で諦念を抱いていた。
どうしよう。
わからなくなってしまう。相原さんの姿は「近寄るな」と言っているようでもあったし「話しかけてきてほしい」とアピールしているようでもあった。異常を隠さないということは、そのどちらかだ。でも僕は彼女の心情を正確に読み取ることはできないから、尋ねるしかない。
「こんにちは」
こんな姿を見せられている手前、鈍感な振りさえできない。やたらと緊張してしまって、いつもの台詞を先延ばしにして挨拶をしてしまう。返事は無い。空気の重さがきつくて、僕は「座ってもいいですか」なんて言えなくなってしまう。
「もしかして、今日は、一人で食べる気分、ですか?」
やはり返答が無い。彼女はぴくりとも動かない。緊張。積み重なる時間が壁としての厚みを持ち始める。何か気の利いたことを言い残して立ち去るのが賢明だ。
「隣にいてもらってもいいかな」
驚いて硬直してしまった。「何かあったら相談に乗りますよ」などといったありふれた台詞を頭の中から破棄するのに時間がかかる。相原さんの出した小さな声はもしかしたら幻聴だったのかもしれない、なんてことを思ってしまう。だってそれは僕の欲しかった言葉だったから。
「わかりました」
いつもより半歩分近くに座って、尋ねる。
「どうかしたんですか?」
羽が地面に落ちる時のように、待つにはもどかしいくらいの時間。そういったものが彼女には必要だったみたいだ。時間が相原さんに何をもたらしたのか。彼女の言葉は思ったより軽かった。
「何も無いんだ」
自分一人しかいない部屋で壁にピンポン玉を放った時みたいな声だった。
「部活やめてから、びっくりするくらい何も無いんだよね。楽しいことも嫌なことも起きないで毎日過ぎていくんだ。信号が規則的に青になったり赤になったりするみたいに、淡々とね。部活に馴染めなくて今の生活を選んだんだけど、それで確かに嫌なことは無くなったけど、途端に何もわからなくなっちゃって」
何も起こらなくて退屈、という感じではなかった。焦っているみたいだ。若干早口になって、相原さんは喋り続けた。
「高校生活、期待してたんだ。よく高校を舞台にしたドラマとか漫画とかってあるでしょ?あそこまでとはいかないけど、でもその十分の一くらいは充実した日々になったらいいな、って思ってたんだけど、何も無い。学校に何も無いからじゃないんだろうね。たぶん、私が何も持っていないからなんだ」
はっきりとした夢があるわけじゃない。どうしてもやりたいことがあるわけじゃない。不幸にはなりたくないけど、どの方向へ行けばいいのかわからない。
相原さんには未来が見えていないみたいだ。それは将来どうするか、という問題どころではなくて、高校生活をどのように過ごすか、という目の前のことさえはっきりとせずにいて、それで何も選択できないようだった。でも何も選択せずにいたらそこに待っているのはおそらく不幸だ。だから相原さんは悩んでいる。僕は彼女の話をひたすら聞き続けて、大体そんな感じだろうと把握した。
「生きてくのって難しすぎるよ」
話し疲れたせいもあったのかもしれない。彼女の溜め息はまるでこれから自殺してしまうのではないか、と思わせる程に憂いを含んでいた。
「そうですね」
励ますことも熱く同意することもできないで、相槌を打った。彼女の抱えている不安は僕にとっても見つめたくない現実だからだ。相原さんは喋ることが無くなって、空気は無言の中で沈殿していく。それに耐えかねたせいか、僕の口からぽたぽたと言葉が出てきた。
「楽しいものに囲まれて、心が折れないくらいの苦難があって、倒すべき敵がいて。そういう人生だったらよかったんですけどね。でも乗り越えなくちゃいけないものって、大体自分の弱さとか未熟さとかだったりするんですよね」
友達が少ないことだって、原因を明かそうとするなら本人の性格が焦点になる。だけど、全てが自分のせいだと納得できるわけではない。全ての負担を自力で抱えようとすれば潰れてしまうのがわかっているから。
「僕も充実した高校生活とは言えないような毎日を送ってますけど、この頃、自分の居場所があるってのが大事なんじゃないかなって思うんですよね」
「居場所かあ」
「このベンチは相原さんの場所と言えないこともないんですけど、そうじゃなくて、自分がいてもいいグループっていう意味での居場所ですかね。仲良しグループとか部活の仲間とか。それから、あのカップルみたいに」
相原さんの視線を例のカップルの方へ誘導する。今日もいちゃついているのがわかる。体を密着させ、何か楽しいことでもあったのか、笑い合っていた。
「たぶん他のベンチからもあの姿見えてると思うんですけど、当人たちは知ったこっちゃないって感じじゃないですか。ああいう風に他人の視線に気付かないくらい内部に夢中になっているっていうのは一つの理想なんじゃないですかね」
最後に「節度は必要でしょうけど」と付け足す。バカップルを認めるのは躊躇われた。
「そっか。そうかもね」
納得したように相原さんは何度か頷いて、そう言った。でも難しいんだろうな、と思う。友達を作ろうと思って作るのは大変だ。友情というのは種をまいた記憶が無いのに芽吹くものだ。だから僕も種を意識的にまくようなことはしないでおく。相原さんが僕の隣を選んだ時、その関係を彼女にとって価値あるものにしたい。
「まあ、励ましにすらならないことしか言えませんけど、頑張ってください」
「うん、頑張るよ」
相原さんはちょっと元気になったみたいで、口が柔らかい曲線を作っている。落ち込んでいない僕の方が元気をもらっていた。