【第7話】
日は完全に沈みきって、小さな街路灯だけが導く椎名町の住宅街を成美は駅に向かって歩いた。
道行く人はみんな、のっぺりとした黒い塊にしか見えなかった。
ブラウスの残りのボタンを嵌めて、裾をスカートの中に入れたが、リボンを着ける気力が無かった。
博明は、今年の4月に池袋のカラオケボックスで知り合った、サッカーで有名な都立の高校に通う同い年の少年だった。
自分を好きだと言ってくれる彼に、成美は身体を許した。
自分自身、彼を本当に好きだったのかは判らない。
自分を必要としてくれたし、狙ってる娘が多いと言う噂を聞いて、ちょっとだけ優越感も湧いた。
何よりも、肌を合わせている間は全ての孤独から開放された。
でも、それは、彼がただ単に、セックスした経験人数を増やしたかっただけなのだと、今さら気付いた自分が異常に腹立たしかった。
メンバーズリストの一人に過ぎなかったのだ。
漠然と歩いて来た成美は、椎名町を通り越して何時の間にか、隣の東長崎の駅に来ていた。
気が付いた時にはもう、見慣れない駅の階段が目の前に見えて、到着した電車から降りた人の群れが溢れ出てきた。
「一駅分損した・・・」
成美は小さく呟いた。
定期を持っているので、どちらから乗っても一緒なのだ。
しかし、こんな時にそんな事を考える自分が、なんだか可笑しかった。
駅で電車を待つ少しの時間に、成美は携帯電話に入った、博明に関するメモリデータを全て消去し、メールアドレスと電話番号を着信拒否のデータに加えた。
彼から貰った、左腕に着けていたワールドカップ記念限定の、鮮やかなジャパンブルーのラバーブレス。
それを無造作に外してホームのゴミ箱に投げ捨てた。
(結局、あたしを本当に見てくれる人なんていないんだ・・・・)
構内にアナウンスが流れ、電車が侵入して来るのが見えた。
混沌とした雑踏の中で、人々の視線は一斉に電車に向いた。
電車のライトがハイビームからロービームに切り替えられる。
(ここで飛び込んでも、誰も止める者はいないだろう・・・あの電車の運転手以外は、飛び込んだ事さえ気付いてくれないかも知れない)
成美の足はゆらゆらと力なく前方へ踏み出していた。
別に博明が許せないんじゃない。
優しさと温もりに餓えるあまり、優しい言葉の裏に隠れた男の欲望を見抜けなかった自分が許せない・・・・
正面に見えるジーンズショップの大きな看板だけを、焦点の定まらない視線で見つめながら、盲人用のデコボコした黄色い線を彼女は跨いだ。
その時、誰かの手が自分の肩に触れた感触がして一瞬足が止まった。
まろやかでほんのりと甘い香が微かに鼻孔に漂った気がした。
同時に携帯の着メロが鳴った。
その瞬間、大きな風切り音と共に先頭車両が彼女の鼻先を通過して、その風圧で成美は後へよろめき、髪は大きく踊った。
彼女が後を振り返えると、乗降位置からずれたその場所には、自分以外には誰もいなかった。
さっき一瞬香った甘い匂いの正体を探したが判らなかった。
何処かで嗅いだはずなのに思い出せない。
成美は、鳴り続ける携帯電話を手に取った。
「もしもし」
「あ、成美。明日さぁ・・・」
佳代の声だった。
「今、電車だから。後で電話するよ」
切りかけた電話に向かって成美は
「あ、佳代・・・」
「なに?」
「ありがとう」
「はぁ?」
成美は電話を切りながら、扉の開いた電車に、吸い込まれるように乗り込んだ。
成美が普段から持つ「孤独」という意識が限界点へと到達していたのだろう。
失恋くらいで電車に飛び込むとは思えなかった。
追い討ちをかけるような心の傷が、成美のタナトスを増幅させたのだ。
それは、誰もが心の奥底に隠し持つ、静かなる死の本能。
携帯電話を鞄に仕舞いながら、車窓から外を見ていた時、線路沿いのケーキ屋が目に入った。
「あの、匂い・・・」
彼女は思い出した。
あの甘くてまろやかな香は、家庭科の実習でケーキを作った時に使用したバニラエッセンスの香だと。
誰か近くの人がケーキか何かを持っていたのだろうか。
でも、誰かがケーキを持っていたとしても、あんなにハッキリしたバニラの香りがするだろうか・・・・
成美は、同じ車両に東長崎駅から乗り込んだ乗客を見回した。しかし、ケーキらしき物は誰も持っていない。
この中に誰かパテシエでもいるだろうか。
彼女はそこで考えを止めた。
自分がさっき死のうとしたのかどうか、と言う事も含め。
成美は、暗闇の遠くに浮かび、通り過ぎてゆく幾つもの建物の明かりを、ただ無心で眺めていた。
空にはオレンジ色の月がやけに大きく浮かんでいた。




