【第5話】
夜気の静けさが止んで、朝ぼらけの空気が辺りを包み、鳥がさえずり出す頃、人々の生活が目を覚ます。
石神井公園の早朝は、ジョギングやお年よりの散歩で静かに賑わう。
彼女が目を覚ますのは、その賑わいが一段落した頃だ。
散々鳴った目覚ましを止めて、布団の中でまどろみに浸る。
「何これ・・・・」
成美はベッドから起き上がると、再び声を上げた。
布団の中に、またもやお茶のペットボトルが入っていたのだ。
今度は緑茶で、しかも3分の2ほど飲んである。
彼女は自分が寝ぼけて夜中に飲んだのか考えた。しかし、成美の家の冷蔵庫にはこのお茶の買い置きは無い。
まさか、寝ている間に駅前のコンビニまでわざわざ買いに行ったとも考え難い・・・・
彼女は釈然としないまま、勢いよくカーテンを開けて窓から外を眺めた。
石神井公園の林から小鳥の群れが、一つの大きな固まりのように微妙に型を変えながら何処かへ飛び立って行くのが見えた。と、成美は思い出したように部屋を出て、トイレに駆け込んだ。
「ねぇねぇ、あたしさぁ、今朝起きたらまたペットボトル掴んでたんだよ」
学校に着いた成美は、思わず今朝の出来事を友達に話した。
「成美、やばいんじゃん」
佳代が言った。今朝は同じ電車ではなかったのだ。
「あんた、一回見てもらった方がいいんじゃない」
一緒に話を聞いていたクラスメイトの美鈴も眉を潜めてた。
二人の友人はどちらもお姉さんタイプだったが、佳代は姉御肌できびきびとして、少しだけキツイ印象もある。
156センチの成美に対して、157センチの佳代は「あたしの方が少し背が高い」とよく言っている。
美鈴はどちらかと言うと優しいお姉さん的な所があって、喋り方も柔らかい。
163センチの大人びた体型の割には、どこかおっとりとしていて、本人は急いでいるつもりでも周りにはそう映らない事がよくある。
成美は向性神薬を飲んでいる。
精神科に処方されたものではなく、ネットに溢れているものを購入しているのだ。
毎日広い家に一人でいると、夜眠れない事が多くなり、ある時、インターネットのサイトで情報を掴んだ。
上手くいけば自傷行為もなくなるかもしれないと思ったが、それは叶わなかった。
彼女は自分が薬の副作用で夢遊病者のように夜中に徘徊しているのかも知れないと思うと、そんな訳は無いのだが、医者に見てもらう気にはなれなかった。
ハルシオンの副作用で健忘が上げられているのを知っていた彼女は、自分の中て余計な妄想が広がる恐怖を感じていた。
それでも常用を止められないのは、飲む事によってよく眠れる事と、一時的に精神が安定するからだ。
「成美、いるのか?」
夜、久しぶりに父の声を聞いた。
何日ぶりだとか、そんな事はいちいち数えていない。
成美は部屋のドアを少し開いて、父親と顔を合わせた。
「お父さん、明日から出張で一週間くらい、いないから」
「うん、判った」
それだけ言うと、成美はドアを閉めた。
(いつもいないくせに、いちいち言わなくていいんだよ。会社の出張なのに、一週間くらいって・・・・・くらいって何?どうせ、女と出かけるくせに・・・)
成美は右手に持った剃刀の刃を、何時もより深く、自分の左足首に食い込ませゆっくりと引いた。
切り口から白っぽい桃色の肉の断面が一瞬覗き、その瞬間に傷口の中の、切り裂かれた血管から赤い血液が溢れ出して、下に置いてあったファッション雑誌の開いたページにボタボタと滴り落ちた。
(もし友達に自傷行為の事を話したらなんて言うだろう。佳代はきっとあたしを叱るだろう。美鈴は優しく慰めてくれるだろうか。博明は・・・何も言わないかもしれない。面倒な女だと思うかもしれない)
そんな思いが時折彼女の心を過ぎる。
成美は呼吸の乱れを正す為に、ゆっくりと静かに深呼吸して、机の引出しから取り出したレキソタンを二錠口に放り込んでペットボトルの水で流し込んだ。
胸が苦しくなって、頭に血液が逆流しているような感覚。
過呼吸によって、血中の酸素濃度が上がりすぎるのだ。
不安発作・・・・・
それを押さえたいが為に足首を切る事がある。
頭に逆流していた血液が足首の流血によって正常に戻るような気がした。
呼吸が完全に整う頃、理由も無く涙が頬を伝う。
成美は再び机の引出しを開けてハルシオンを二錠取り出し、そのセイジブルーの美麗な錠剤を口に放り込んだ。
足首にガーゼを当てて包帯を巻くと、彼女は眠気に襲われないうちに窓の外の暗がりを見つめた。
公園内に灯る幾つもの街燈の小さな明かりが、少しだけ自分の心も照らしてくれそうな気がして、彼女は自分の部屋の窓から公園の景色を眺めるのが好きだった。




