【第30話】
光の波が幾つも連なって駆け抜けていくと、その向こうには何処か別世界に通じるような道しるべが現れる。時折、湾岸ランナー達が爆音を轟かせて、その幻想に向かってテールランプを震わせ、あっというまに消えていく。
大黒ふ頭のイルミネーションがオレンジ色に輝きながら渦を巻いているのが見える。反対側を見渡せば、横浜港周辺の明かりが水面に浮かんでいる。
夜空を仰げば、青白い弦の月が二人を見下ろしていた。
「急にドライブに行きたいだなんて、どうしたんだ?」
寺澤と成美の二人は、ベイブリッジの路側帯に車を止めて、夜景を眺めていた。夜中に目を覚ました成美が突然来たいと言ったのだ。
寺澤にしてみれば、夕飯のお礼と言うわけだ。
「あたし、車に跳ねられたみたい」
成美は笑って言った。
寺澤は訳が判らず呆然として「何時?」
「昨日の朝」
成美は犬の散歩中に事故に遭ったことを話した。
「だから、元に戻れなくて・・・・」
「本人の身体に戻れないって事?」
成美が言うには、彼女の意識が完全に無い為、コントロールが出来ないそうだ。
「でもね、命には別状ないから」
寺澤は少しだけホッとする。
「ただ・・・・」
「なに?」
「次に戻ったら、もう出て来れないかも」
成美は少し俯いた後、欄干の手すりに身体を擡げて、空に浮かぶ月を見上げた。
月光に照らされた彼女の肌は、透き通るほどに白く澄んでいる。
ここにいる成美の身体は、本体の持つ、不安、孤独、迷走が作り出した幻影なのだ。
精神が安定するにしたがって、幻影の成美は姿を現さなくなる。
そして、二度と現れないという事は、安二崎成美本人にとっては喜ばしい事なのだろう。
「もともと、身体は一つ、意識も一つなんだから、仕方ないよ」
寺澤も一緒に夜空を見上げた。
「そうね」
彼女は月を見上げたまま応えた。
寺澤は小さい頃の、あの記憶の少女の事を訊こうとしたが、何となく言葉が出なかった。
無の世界から意識が立ち上がる時、真っ白な背景が少しずつ揺らいで何かの面影が見えてくる。
それは、いままで体験した記憶、思い描いていた幻想、希望。
後頭部に当たる柔らかい感触はなんだろう・・・
何かの匂いがする。花・・・ 種類は判らないが複数の花の匂いがする。
天国の匂いだろうか・・・ いや、微かにクレゾールの匂いもする。
彼女の嗅覚が最初に目覚めた。
何も無い世界に突然香る物理的な匂いに意識が覚醒する。
「脳波も安定して異常もないので、目が覚めれば回復は早いと思います」
誰かの声が聞こえた。知らない男性の声だ。
穏やかだが、テキパキとしている。
「有難うございます」
母の声が聞こえた。
成美の意識は次第にはっきりとしてきた。ゆっくりと目を開けると、真っ白い見知らぬ天上が見えた。
蛍光灯の明かりがやけに眩しく感じて、目を細くしか開けられなかった。
「あら、目が覚めたのね」
母の顔が、上から覗き込んできた。
成美は、自分がどうしてここで寝ているのか、ここが何処なのか考えていた。身体がだるくて、まるで見えない何かで押さえ付けられているようだった。
「あんた、車に跳ねられたのよ」
母が言った。
同時に彼女も思い出していた。
「ごめんなさい・・・」
成美は反射的に呟いた。
「よかったわ、命に別状なくて」
成美は、手首の捻挫と腹部の打撲、そして頭に傷は負ったものの骨には異常無く、脳震盪の怪我で済んでいた。
「デンは?・・・・」
成美は、真っ先に仔犬の事が気になった。
薄れる意識の最後に聞こえたデンの声が、今でも耳に焼き付いていた。
「近所の方が、お家に連れて来てくれたのよ。ちゃんと、庭で大人しくしてるわ」
成美はホッとして目を閉じた。
「いま、先生を呼んで来るからね」
そう言って、母親は病室を出て行った。
成美は、少しだけ起き上がって周囲の様子を見ようとしたが、打撲した身体が傷むのと、頭を動かすと頭痛と眩暈がして、諦めて再び枕の上に頭を擡げた。




