【第29話】
寺澤が会社から帰宅すると、成美はベッドで眠っていた。
もう、いなくなっていると思っていた。いや、未だいると思っていたのかもしれない。だから、彼はまったく驚きはしなかった。
テーブルの上には彼女が作ったと思われる夕食がラップをかけて置いてあった。
そっと、成美の肩に触れてみる。
実体としてそこに在るのは、初めて会った時から変らない。
穂のかにバニラの甘い匂いが漂っている。
ふと、彼はこの匂いを思い出していた。
何故、最初に感じなかったのか。
母はケーキなど焼くような人ではなかった。この香りの懐かしさはそんなものでは無い。
昔の記憶が蘇える。
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彼は小学校まで川?の二子玉川に住んでいた。古い住宅街で、外れにはこれまた古い市営団地があった。
寺澤はその市営団地で小学校生活を送った。
住宅地の一画には小さな公園が在った。
彼は毎日学校帰りに通るその公園に、何時も小さな女の子が一人でブランコに乗っているのを見かけた。
ある日の学校帰り、公園の前に差し掛かった時、リードを引きずったまま走って来た大きな犬が、寺澤の前を横切った。
その犬は人を襲う気など、毛頭なかった。
正面に見えた少女と一緒に遊びたくて、じゃれ付きたかっただけなのだろうが、少女にとってその犬の大きさと力は猛獣並だった。
飛びつく犬に押し倒された少女を見て、寺澤は走った。散歩をしている姿を何度か見た覚えのあるゴールデンレトリバーだった。
「こらこら、お前はデカ過ぎなんだよ」
寺澤は、レトリバーのリードを取って、強く引いた。
少女は、噛まれた訳でもなく、寧ろベロベロと舐められていたが、驚きと恐怖で泣き叫んだ。
リードを引かれたレトリバーは瞬時に少女から離れて、自分でお座りをした。多分、ある程度の躾はしてあるのだろう。
「大丈夫だよ。ほら、キミと遊びたかっただけなんだよ」
寺澤少年は、少女を抱き起こすと、笑っているような顔で舌を出しながら、大人しくお座りをしているレトリバーを見せた。
彼が犬の頭と頬を撫でると、シッポをふって気持ちよさそうな顔をする。それを見た少女は、途端に泣き止んで、レトリバーに近づいた。
その少女は何時も夕方まで一人だったので、寺澤少年は時々遊び相手をしてあげたのだ。
彼女はバニラのような甘い香りがした。
一人っ子の寺澤は、少女の甘い香りは、子供独特の匂いなのだろうと思っていた。
実際、そうだったのかもしれない。
彼の父親は早くに他界して、祖母と母親の三人暮らしだった。母親は遅くまで仕事の為、彼にとっても夕暮れの日差しは、心を切なくさせた。
公園近くの広い庭のある家に、少女に跳び付いたレトリバーは飼われていて、少女と一緒に遊びに行ったりもした。
何時も日が暮れる頃に、公園の外から、仕事帰りの母親が少女を呼ぶ声がした。
「ナル!帰ろう。何時も有難うね」
優しい母親の笑顔と、そこに駆け寄る少女の姿があった。
夕闇を背に、長い影が何処までも伸びて、他の影に吸い込まれていった
しかし、中学に入ると同時に母親が再婚した為、寺澤の家は埼玉県の入間市に引っ越してしまった。
その後の少女の事は判らず、記憶が遠のいて何時しか消えていった。
寺澤は腰掛けたソファから成美を見つめていた。
「ナル・・・・ まさかな・・・・」
彼女は相変わらず、リアルな寝息を立てていた。




