【第28話】
朝、フライパンの焼ける音と匂いで寺澤は目が覚めた。
目玉焼きの焼ける匂い。
一人暮らしにはまったく不自然な目覚めだった。
雪絵でも来たのか。いや、彼女はここの鍵は持っていない。
寺澤は目を擦りながらベッドから起き上がった。
「おはよう」
そこにはフライパンを片手に成美が笑っていた。
「おう、なんだ・・・・」
寺澤は一瞬目を丸くした。
見かけでは判らないが、寺澤の部屋に入り込むのは「あの」成美だろう。
「もう、来ないんじゃなかったのか?」
寺澤はベッドから出てテレビを点けた。
「そんな事、言ってないよ」
寺澤がコーヒーカップを取ると、
「コーヒー沸かしてあるよ」
と、成美がコーヒーメーカーを指差す。
どうした風の吹き回しだろう。
寺澤は怪訝な顔付きで成美の後ろ姿を見つめた。
「俺、会社に行くけど・・・・」
寺澤は、昼間に現れた事の無い彼女へ言った。
「うん。適当に時間つぶすよ」
成美は何かのDVDをデッキに入れながら言った。
「何で、朝からいるんだ?」寺澤は、そう訊こうとしたが、何故だか言葉が出ず
「じゃぁ、行って来る」
と、家を出た。
玄関には彼女の靴がちゃんとあった。
「いってらっしゃい」
笑顔でそう言った彼女の言葉が、一人暮らしの寺澤には少しだけくすぐったかった。
* * * * *
朝から小雨が降る、ある日、成美は迷っていた。
デンが、天気などお構い無しに、朝の散歩を強請って、鳴いている。
「デン、雨降ってるよ。それでも行く?」
庭に出た成美は、しゃがみ込んで、デンに向かって話し掛けた。
デンは、既に散歩に行くものと思い、シッポを振って、散歩用のリードを着けてもらうのを心待ちにしている様子だ。
「仕方ないなぁ。今日は、すぐ帰るからね」
成美は、デンの愛くるしい表情に負け、リードを着け替えた。
彼女は傘をさして、勇み足のデンに引かれるように門を出ると、家の塀沿いにしばらく歩いて、道路向こうの公園側へ渡ろうとしていた。
その時、彼女の手から、リードの取っ手がスルリとすべり抜けてしまった。デンは気付かない様子で、道路を渡り出した。
「デン、待って」
彼女はデンのリードを捕まえようとして安全確認を怠ったまま、手を低く前方に伸ばして足を踏み出してしまった。
元々交通量の少ない通りだった為、油断したのだ。
傘が視界を狭めたせいも、あるのかもしれない。
二歩か三歩目、小走りに足を踏み出した時、彼女は右側に近づく車の気配と微かな水音を感じた。
同時に車は急ブレーキを掛け、悲痛な叫びにも似た、激しいブレーキ音が住宅街に鳴り響いた。
振り向いた成美の目の前に、車はいた。
距離は既に1メートルもない。
あまりのアップでどんな車種かさえ判らなかった。
ホラー映画の惨殺シーンのような、恐怖と絶望に支配された瞬間。
引き返そうとする身体の力が、飛び出した慣性と相反して、その場にクギ着けになる。
ちょうど、道路に飛び出して来たネコが、車に気付くとその場に止まって固まってしまうのと同じ現象だ。
あぁぁ、しまった。失敗しちゃった・・・・どうして・・・・せっかく生きがいを見つけて、薬もリストカットもしなくなったのに・・・あたしってついてない・・・・・
迫り来る車を見つめて、成美は思った。
次の瞬間、ミニバンのフロントノーズが彼女の身体を弾き飛ばした。
学校給食に使うアルマイトのおぼんを、床に落とした時のような、それを大きくしたような激しい音がした。
車にぶつかると、こんな音がするんだ。意外とちゃっちい・・・・・
目の前の車は視界から消え、どんよりとした灰色の空から雨粒が落ちているのが、一粒一粒見えた。
足が地面から離れているのが判った。
全てがまるで、高速度撮影したフィルムをスロー再生したように見え、視界の片隅にはデンのしっとりと雨に濡れたサンドベージュの姿が一瞬映っていた。
あぁ、あの仔の世話はどうしよう・・・・ お母さんは世話してくれるだろうか・・・・・
後頭部に激痛を感じて、一瞬、目の前に真っ赤な閃光が走った気がした。
その後視界は真っ暗な闇につつまれ、暗黒の世界へ呑み込まれてゆく意識に、デンの悲しい鳴き声だけが微かに聞こえていた。




