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バニラ  作者: 徳次郎
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【第27話】

「印鑑無ければ、人差し指でいいから」

 縦長の用紙に、いろいろと記入を終えた警官は、そう言って黒い朱肉を差し出した。

 その朱肉を指に着けた寺澤は

「俺、人助けしたんですよ」

「気持ちは判るけど、交通違反はいかんよ。下手したらあんた、死んでたよ」

 寺澤は渋々交通違反キップに拇印を押した。

 アウディを運転していたTシャツの男は、以前雪絵が交際していたカジュアルショップの店長だった。

 雪絵に振られた男は、彼女を諦め切れなかったのだそうだ。

 それだけの理由で拉致してしまうのだろうか・・・・

 寺澤には理解出来なかった。

「あの・・・彼女は?」

「病院に搬送されて検査した結果、全身に軽い打撲がある程度だそうだよ」

 警官が言った。

 寺澤は、最寄りの警察署にて事情聴取を受けていた。

 アウディの男は、現行犯逮捕され病院に運ばれ、トラックの運転手に怪我はなかった。

 寺澤は、雪絵が搬送された病院を警官に訊いてから

「反則金、こんなに・・・・」と溜息を漏らした。



    * * * * *



「成美、最近顔色いいよね」

 屋上の隅に腰掛けて、一緒にお昼を食べていた美鈴が言った。

「毎朝、早起きしてるしね」

「なに、毎朝ちゃんと犬の散歩してるの?」

 美鈴は少し驚いた顔をした。

「してるよぉ。お陰で、立ち眩みもしなくなったし」

 成美はメロンパンを口に入れながら言った。

 仔犬を飼い始めてから二週間、彼女は瀉血行為をまったくしなくなった。

 自分の事だけで精一杯で、犬を飼いたいなどとは思った事も無かったが、実際には自分を頼ってくれる仔犬の為にも、より自分を大事にするようになったのだ。

「そう言えば、佳代は?」

 美鈴がちょとだけ辺りを見渡して成美に訊いた。

「何か、委員会の集まりだって」

「へぇ、何時も行かないのに」

「だから、呼び出しかかったらしいよ」

「うっそ」

 二人は、まるっきり他人事として笑った。





 この日、成美が家に帰ると、庭に在るガレージに父親のベンツも母親のボルボも停まっていた。

 玄関のドアを開けて中に入ると、珍しく両親共に揃っていた。いったい何ヶ月ぶりの光景だろうか。

「お帰り、成美。おじいちゃんが亡くなったから、お葬式に行く準備をしなさい」

 開口一番、祖父が亡くなった事を伝えられた。だから両親が帰っていたのだ。

 三人で父親のベンツに乗り、二子玉川に在る、父の実家に向かった。成美は小学校二年生まで父親の実家である二子玉川に祖父、祖母と同居していた。

 父親の本社勤務に伴い練馬に引っ越した後、母親のブティックの成功などもあって、石神井に一戸建てを設けたのだ。しかし、家が立派になった代償として、成美はいつも一人になってしまった。


 その日のうちにお通夜が終わり、翌日に告別式が行われた。祖父の顔は、成美が小さい頃に記憶するそのままで、まるで時間が止まっていたようだった。

 朝、葬儀が始まる前に、成美は懐かしい住宅街の中を、デンを連れて散歩した。一泊になると聞いて、一緒に連れてきたのだ。

 古びた小さな公園を見つけて、ベンチに腰掛け、佳代と美鈴にメールを送っていた。

 フッと、彼女は何かを思い出した。

 自分が大きくなったせいで、最初は気が付かなかったが、その公園は、小さい頃に何時も母親の帰りを待っていた公園だった。

 よく乗ったブランコは取り去れていて、窪んだ地面だけが面影を残している。赤や黄色に塗り分けられ、カラフルだった滑り台や小さなジャングルジムは、色褪せと錆でどす黒い塊になっていた。

 午前中の涼しい風が彼女を掠めていくと、その風の一部が心の中で増幅されて何度も渦巻いて,吹き荒れるような悲壮感が沸き起こった。

 そんな彼女の心を見透かしたような目で、公園の端からトラジマの猫が成美をじっと見つめていた。

彼女は周囲をゆっくりと見渡した。

 ここで誰かに遊んでもらった記憶がある。しかし、相手の顔は全然思い出せない。

「行くよ、デン」

 成美は立ち上がると、公園を出て、二区画歩いた。微かな記憶にしたがって、その景色に導かれるように。

 垣根に囲まれた大きな庭の在る家。昔は門が開けっ放しになっていたが、今は閉じられたままだ。

茶色い大きな犬がいたことを覚えていた。

 成美は門の格子から庭の中を見渡した。犬がいる。彼女とデンの気配を感じた犬も首を立てて、こちらを見ていた。

 しかし、当り前の事だが、その犬は既に、彼女の記憶にある犬とはほど遠い、白黒のダルメシアンだった。

「成美、こんな所で何をしているの?お葬式始まるよ」

 探しに来た母親が、声を掛けてきた。

「ねぇ、この先の公園であたしが何時も遊んでもらってた人って、覚えてる?」

 成美は、母なら覚えているかも知れないと思い尋ねた。

「そう言えば、そんな男の子がいたわね。でも、確か、いつのまにかいなくなったのよね」

「なんて言う人?」

「さぁ・・・・」母親は少し考えて

「ああ、確か、寺澤って言ったかしら。昔は今ほど物騒じゃなかったから、名も知らない子と遊ぶ事もよくあったのよ」

 母親はそう言って、実家の方へ歩き出した。

 成美もその後をついて歩いた。

 告別式の後に、火葬場へ行き、祖父の亡骸はお墓に埋葬された。中学に入ってからは殆ど会った記憶のない祖父だったが、火葬の釜に棺が入れられる時、成美の頬を涙が伝っていた。


 三人を乗せたベンツが実家を出て、住宅街を抜ける時、あの小さな公園の横を通った。

 成美は、スモークガラスの窓を全開にして公園を見つめていた。

 夕暮れの日差しに、誰もいない公園内の遊具が、寂しく長い影を落としていた。



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