通勤途中の法律相談 〜霊感女子と死せる弁護士の逆転劇〜
朝の冷たい空気の中、天野葵はイヤホンを深く押し込み、足早に最寄り駅へと向かっていた。会社員生活数年目。目立たず、波風を立てず、平穏無事に日々を過ごす。それが彼女の日常だった。
彼女には、決して口外できない秘密がある。霊感が、ほんの少しだけ強い。
大学時代。
「私、霊が視えるんだ」
調子に乗って軽口を叩いた結果、好奇の目を向けられただけでは済まなかった。夜な夜な自室の窓を引っ掻く無数の青白い手首や、行き場のない怨念に付きまとわれる地獄のようなパニックを味わった。
(本当に視える人間は、絶対にその能力を口外してはダメ。下手にアンテナを立てると、どこで聞きつけているか分からない幽霊が群がってくる)
その痛烈な教訓から、葵は視えても関わらないと自分に課していた。街中で背筋が粟立つような視線を感じようとも、視界の隅で薄汚れた影がうごめこうとも、ロボットのように視線を前方だけに固定し、平穏を死守してきたのだ。
しかし、そんな日常は先月、突然の理不尽によって脆くも崩り去った。
通勤に便利な場所へと引っ越すため、住み慣れたアパートを退去する際、立ち会いに現れた管理会社の担当者は部屋を見渡すなり鼻で笑った。
「あー、クロス全面張替えですね。あとハウスクリーニング代と諸々合わせて、ご請求額は計20万円になります」
「そんな、全面なんて……!」
タバコは一切吸わず、家具の配置にも気を配り、経年劣化程度しか心当たりがない。血の気が引き、か細い声で抗議したが、担当者は冷ややかな笑みを崩さなかった。
「お客様、ご契約書の『特約事項の第12条』をご覧いただけますか?当事者間の合意の原則により、退去時の一律クロス全面張替えおよびハウスクリーニング費用の負担に署名捺印されております。文句は言えませんよ」
見せられた契約書の隅には、極小の文字で不利な条件がびっしりと書き連ねられていた。
その日の夜、葵はネットの付け焼き刃の知識を頼りに管理会社へ電話を入れた。
「あ、あの!国土交通省のガイドラインだと、経年劣化は大家側の負担って……」
言いかけた瞬間、受話器の向こうの担当者の声が凍りついた。
「お客様。法律の素人がネットの聞きかじりで言いがかりをつけても無駄ですよ。法的措置に出るのは、こちらの方なんですからね」
ガチャリ、と無慈悲に切られた電話の向こうで、現実のプロを前にした無力さが重くのしかかった。言い返すこともできず、葵は部屋の床にへたり込み、奥歯を強く噛みしめた。
翌朝。どんよりとした鉛色の気分のまま、葵はいつもの通勤路を歩いていた。
(どうしよう、20万円なんて貯金が大きく削られてしまう。親には頼れないし、泣き寝入りするしかないのだろうか)
下を向く視界の端に、ふと、ピシッとアイロンの効いたスーツの裾が飛び込んできた。
「おやおや、そんなに青い顔をして、可愛いお嬢さん。何か大きなトラブルにでも巻き込まれたのかい?」
気だるげでありながら、よく通る低い声。
葵は反射的に顔を上げ、そして、喉の奥が凍りついた。
隣を並んで歩いているのは、中年のスーツ姿の男だった。だが、その足元はアスファルトの地面からわずかに浮いており、身体の輪郭が朝の光をぼんやりと透過させていた。
「っ……!」
悲鳴を飲み込み、葵は全力で前だけを見据えた。
(見えない、聞こえない、私は何も認知していない……!)
鉄則の完全無視を発動し、早足で振り切ろうとする葵に対し、佐藤浩三と名乗る幽霊は、苦笑を浮かべながら軽々と歩幅を合わせてくる。
「無視しなくてもいいだろう。私はね、ほんの最近、死んでしまった弁護士の佐藤浩三という者だ。死んでからまだ日数が経っていないんでね、まだ成仏しきれなくてねぇ」
弁護士、という単語に、葵の耳がピクリと反応してしまった。しかし、ここで反応してはこれまでの努力が水泡に帰す。葵は歯を食いしばり、ただ早足でアスファルトを踏み鳴らした。
しかし、佐藤は葵の心の動揺を見透かすように、すっと目の前に回り込んでフワリと立ち塞がった。透けているはずの目は妙に鋭く、どこか切実な光を宿している。
「おいおい、そんなに怯えるなよ。……君、なにか問題を抱えてて、泣き寝入り寸前って顔をしてる」
「っ……関係ありません!」
ついつい言葉を発してしまった。
(あ、しまった)
葵はと唇を噛んだ。声を交わしたことで、幽霊との間にチャンネルが合ってしまう。
佐藤はフッと不敵な笑みを浮かべた。
「関係大ありさ。なぜなら、私にはどうしても今すぐ助けなきゃならない『恩人の息子』がいるんだが、あいにくこの通り、幽霊の身では直接動くことができない。……そこでだ、お嬢さん」
佐藤はスーツの胸元に手を当て、真剣な眼差しで見据えてきた。
「私にその抱えている問題を相談してみないか。そうすれば法律の専門家として君にアドバイスが出来る。代わりに、私の恩人の息子を助ける手助けをしてくれないかい?」
アパートの20万円という理不尽な請求。そして、ネットの知識では到底太刀打ちできなかった現実の壁。それを打ち破る本物の法律のプロの知恵。しかし、その対価として要求されるのは、死んだ弁護士の頼みを聞くという、厄介で不可解な協力関係。
通勤途中の雑踏の中、逃げ場のない選択を突きつけられた葵は、青ざめた顔のまま、生唾を何度か飲み込んだ。
「わかったよ!乗ればいいんでしょ、その取引!」
通勤途中の喧騒の中、半ばやけくそになって声を張り上げる。すれ違うサラリーマンたちが奇異な目を向けていくが、もはやそんなことを気にする余裕などなかった。
「話の早いお嬢さんは好きだ」
目の前でフワフワと浮いている元弁護士の幽霊は笑っている。
その日の昼休み
「いいか、葵くん。あの手の悪質な管理会社が一番恐れるのは、感情的な怒鳴り声じゃない。法的根拠に基づいた、具体的な行政処分や訴訟の可能性だ」
佐藤に耳元で囁かれるまま、葵はスマホを手に取り、管理会社へと再び電話をかけた。呼び出し音が数回鳴った後、昨日と同じ、あの高圧的な担当者の声が耳に届く。
「はい、田栗不動産ですが」
葵は深呼吸を一つし、佐藤から教わったばかりの法律用語を、一言一句正確に、落ち着いたトーンで紡ぎ出した。
「先日ご請求いただきました原状回復費用の件ですが、『消費者契約法第10条』に照らし合わせ、一律のクロス全面張替えやハウスクリーニング費用の特約条項は、消費者の利益を一方的に害するものであり無効と考えます。また、国土交通省の『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』に基づいても、経年劣化分の費用請求には応じられません。……必要であれば、国民生活センターや宅建協会、場合によっては少額訴訟の手続きについて法的機関に相談しますが、いかがいたしますでしょうか」
電話の向こうが、ピタリと静まり返った。
昨日の冷笑的な態度はどこへやら、数秒の沈黙の後、担当者の声が一気にうわずり、青ざめたものへと変わる。
「えっ……少々お待ちください!そ、それはですね、確認いたしますので……!」
「お待ちしております。数日中に、返金の手続きについてのメールをお送りいただけますか」
ガチャリ、と電話を切った瞬間、葵の身体から力が抜け、その場でへたり込みそうになった。しかし、直後に込み上げてきたのは、圧倒的な達成感と、言い知れない爽快感だった。
数日後、管理会社からは謝罪のメールが届いたのだった。
『社内確認の結果、ご指摘の通り特約の適用を見送らせていただきます。全額をご返金いたします』
小さな成功体験を手に入れた葵だったが、忘れてはならない代償があった。それは、佐藤の恩人の息子である青年を助けることだ。
佐藤から聞いた勤務先の情報をもとに、葵はブラック企業で心身が限界を迎えているという岸辺涼の帰宅ルートを張り込み、そっと接触を試みた。
「あの、岸辺さん……ですよね?今、お仕事すごく大変だと思いますけど、会社の言いなりになってはダメです。例えば、残業の証拠をちゃんと集めて……」
「ひっ……!な、なんですかあなた……!?」
フラフラになりながら駅へと歩いていた涼は、見ず知らずの若い女性がいきなり自分の労働環境の核心を突いてきたものだから、恐怖で顔を引きつらせた。
さらに、葵は焦るあまり、涼の耳元に聞こえるか聞こえないかの声でこう呟いてしまったのだ。
(だって、あなたの後ろにいる佐藤さんが、作業日報の送信メールを押さえろって言ってるから……!)
その瞬間、涼の瞳に絶望の色が浮かんだ。
「……新手の宗教の勧誘?それとも、僕を監視してるストーカーですか!?警察、呼びますよ……!」
涼はスマホを取り出し、本気で通報しようと指を震わせた。
「待って待って待って!誤解です、怪しい者じゃありません!」
葵は慌てて両手をブンブンと振った。そして、こうなったら仕方のないと腹をくくり、涼の耳元に顔を近づけて真剣なトーンで囁いた。
「私、本当に霊感があるんです。あなたの後ろに、スーツを着た佐藤浩三さんっていう、弁護士の幽霊が立ってるんです!佐藤さんが、死んでからもあなたの身を心から心配して、私に助けを頼んだんです……!」
「……は?」
涼は絶句した。当然の反応だった。しかし、葵が佐藤から聞いた涼しか知り得ないはずの思い出や、生前の口癖を次々と伝えると、涼の表情がみるみるうちに凍りつき、やがて大粒の涙が零れ落ちた。
「……佐藤先生、本当に……亡くなっちゃったんだ……」
ショックで崩れ落ちる涼を、葵は必死で支えた。
近くのファミレスに移り、葵と涼、そしてその背後に幽霊として寄り添う佐藤の奇妙な三人による作戦会議が始まった。
涼の会社の実態は、想像を絶するブラックだった。
「固定残業代込みだから何時間働いても月給は一緒だ」
騙され、実態は毎月100時間を超えるサービス残業の嵐。終電帰りや休日出勤が常態化し、睡眠不足と精神的追い詰めに苦しんでいた。
(どうせ自分は無能だから、これくらい残業しないと仕事が終わらないんだ)
そんな歪んだ思い込みに縛られ、涼は抜け出せない泥沼に浸かっていた。
さらに、会社側は証拠隠滅のため、パソコンのログインやログアウトの履歴を改ざんさせたり、タイムカードではなく手書きの自己申告ノートに実際の労働時間より少なく書くよう強制したりしていた。
「自力で円満退社なんて夢のまた夢だ……。もう、どうすればいいか分からないよ」
うなだれる涼の肩に、佐藤はふわりと手を置き、優しくも力強い声で告げた。
「泣くな、涼くん。あんなブラック企業のパソコンの履歴や隠しデータなんて、表面はすでに書き換えられている。だが、君が毎日のように残業後に自分宛てに送っていた『作業日報の控え』、これに付いているタイムスタンプこそが改ざん不能の証拠だ」
佐藤のアドバイスをそのまま葵が通訳するように伝える。
「……そう、タイムスタンプ付きのメールや業務指示のチャット画面のスクショさえあれば、労働基準監督署も弁護士も動いてくれる。私と佐藤さんが全力でサポートするから、もう一人で抱え込まなくていいの」
葵の力強い言葉と、恩師である佐藤の温かい知恵に背中を押され、涼はぎゅっと拳を握りしめた。
「……わかりました。僕、もう逃げない。この会社と戦って、絶対に辞めてみせます!」
理不尽な世界に立ち向かうための法的な盾と矛を手に、葵と涼、そして幽霊の弁護士による反撃のステージは、ついに最終幕へと進み出す。
数日後の夜。岸辺涼は、ついに会社へ退職届を叩きつけた。
しかし、悪質なブラック企業が、そう簡単に素直な引き下がりを見せるはずもなかった。
その日の夜、涼が借りている古いアパートのドアが、激しくゴンゴンと叩かれた。
恐怖に身を縮こませながらドアを開けると、そこに立っていたのは涼の上司である男だった。血走った目を剥き、酒と怒気を含んだ息を荒げながら、上司は足音を荒く立てて部屋に踏み込んできた。
「おい、涼!なんだこの退職届は!急に辞めるなんて業務妨害だぞ!人が抜けた穴の損害賠償、および引き継ぎ不備による損害を、会社として全部お前に請求してやるからな!訴えられたかったら今すぐその退職届を撤回して、明日から這いずってでも会社に来い!」
「そ、そんな……!」
社会人になりたてで、日頃から精神的に追い詰められていた涼にとって、訴訟や損害賠償、業務妨害という物騒なワードの破壊力は絶大だった。涼は足元から崩れ落ちるようにその場にヘタリ込み、絶望に喉の奥を詰まらせた。
だが、その部屋の中には退職届を提出したその日、ちゃんと提出することが出来たかなど、もしもの時のためにと、葵は仕事終わりに涼のアパートを訪れていた。そして背後に腕を組んで立つ弁護士の幽霊・佐藤浩三がしっかりと控えていた。
「涼くん、負けるな!法律を思い出して!」
葵の切実な声援を受け、背後に立つ佐藤の口から、正確なアドバイスがリアルタイムで飛ぶ。
「民法第627条を聞かせてやれ!期間の定めのない雇用なら、二週間前に言えばいつでも辞められる!損害賠償なんて、脅しの常套句にすぎん。ビビる必要は一切ない!」
佐藤の言葉を葵が力強く伝える。それを受けた瞬間、涼の心の中で何かが音を立てて砕け散った。それは恐怖ではなく、理不尽な抑圧に対する怒りと決意だった。
涼は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、画面をしっかりと上司に突きつけた。そして、これまでの萎縮した態度が嘘のように、凛とした声を張り上げた。
「業務妨害や損害賠償とおっしゃいますが……御社のこれまでの違法な時間外労働や、安全配慮義務違反の証拠は、すべてこちらに揃っています!」
上司は足を止め、目を見開いた。
「なっ、なんだと……?」
涼は、佐藤の知恵を借りて集めさせた『タイムスタンプ付きの深夜の作業日報メール』や『違法なサービス残業を強要するチャットのスクショ』のデータを、画面越しにまざまざと見せつけた。
「これらはすべて、改ざん不能な証拠です。このまま不当な脅しを続け、プライベートな空間にまで押しかけてくるような行為を続けるなら、労働基準監督署への駆け込み、弁護士を通じた未払い残業代の請求、さらには脅迫罪での被害届の提出へ正式に移行します。素直に退職を認め、一切の文句を引っ込めるのと、社会的にダメージを受けるのと、どちらが会社にとって得か、よくお考えください」
法律の盾と矛を手に入れた青年の、予想外の反撃。
これまで言いなりになっていた部下が突然突きつけてきた防衛策の前に、上司は気圧され、冷や汗をにじませた。脅すことしか頭になかった男に、もはや反論の余地は残されていなかった。
「……っ、……覚えてろよ、このクソガキが……!」
上司はそれだけを吐き捨てるのがやっとで、乱暴にドアを閉め、逃げるように階段を駆け下りていった。静まり返ったアパートの部屋に、涼の荒い息遣いと、確かな勝利の余韻だけが残された。
数日後。
ブラック企業との面倒な手続きや退職処理は、弁護士や労基のルートを使用することなく見事に解決し、涼は無事に新しい一歩を踏み出すことになった。未払いだった残業代も、会社側は訴訟を恐れて支払わざるを得なかった。
通勤途中の見晴らしの良い歩道橋の上で、葵と涼、そして佐藤の三人は並び立っていた。
「葵さん、本当にありがとうございました。佐藤先生……僕、もう大丈夫です。ちゃんと自分の足で歩いていきます」
涼は清々しい笑顔を浮かべ、深々と頭を下げた。その姿を見た佐藤は、満足そうに、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「よくやったな、涼くん。……さて、私の役目も、これでおしまいのようだな」
佐藤の身体の輪郭が、朝の柔らかな陽光に溶けるように、ふわりと薄くなっていった。透き通るような白い光が、周囲を静かに舞う。
「涼くん、佐藤さん、消えちゃいそうよ……!」
葵が息を呑んで呟くと、涼もはっとして顔を上げた。
「先生……!ありがとうございました!」
涼が声を絞り出すと、佐藤は紳士らしく帽子を軽く持ち上げて微笑み、ふっと消えるように空へと溶けていった。
あれから、葵の日常に戻った。
アパートの退去費用は返金され、管理会社からの理不尽な請求も消え去った。相変わらず、通勤途中の人混みの中では、ときおり視界の端に変な気配や、成仏しきれない影がチラつくこともある。しかし、以前のように怖がりパニックを起こして逃げ出すことはもうない。
葵は背筋をピンと伸ばし、イヤホンを外して、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
理不尽なトラブルに立ち向かう強さを手に入れた彼女は、少しだけ前を向き、新しい通勤路を一歩一歩、力強く歩き出すのだった。




