現実の手触り
近藤さんはアイスコーヒーにシロップを入れ、ミルクを入れ、かき混ぜる。
黒と白と透明の液体が、初めは反発しながらも、溶けて一つの色に変わる。
「編集できない作品だと……」
と私は尋ねた。
近藤さんはうなづいた。
編集できない作品。
それの何がダメなのだろう。
しかし、彼女はダメだとは言ってない、
少し怖い書き方だと言っただけだ。
少し怖い書き方……。
そうか、コントロール不可能領域の作品だと、そういうことなのか。
「この作品達はね。
文学的に美しい、より先に沈黙が美しいの。
私は、いわゆる純文学的な美文をたくさん読んできました。
比喩が巧み、文体が洗練されている、そういう作品も数え切れません。
ですが、この作品群は違います。
美しい文ではない。
言葉はむしろ平易で、
構造も派手ではない。
それなのに、
読み終えたあと、編集部の椅子からしばらく立てなかった。
理由は簡単です。
この作品は、
言葉ではなく
言葉のあいだの沈黙で成立している。
沈黙をここまで恐れずに書ける作家は、
意識的にはまず存在しません」
と近藤さんは言った。
沈黙を恐れずに書く。
それはわかる気がする。
間の美学とでも、言ったらいいのだろうか。
そういう気配はあるのかもしれない。
「他にはなにかありますか」
と私は尋ねた。
「えぇ。あるわ」
と近藤さんは答えた。
「それは?」
と私は尋ねた。
「少し気持ち悪い言い方になるかもしれないけど、それでも良い?」
と近藤さんは尋ねた。
「もちろん。オカルト雑誌ですし」
と私は苦笑いをした。
「主題が、主題として立ち上がっていないの。
純文学の世界ではね。
主題をどう、隠すか、滲ませるかがよく議論されます。
しかしこの作品では、
そもそも主題を立てようとしていない。
愛とは何か
復讐とは何か
赦しとは何か
そうした問いがあるようでいて、
どこにも明文化されない。
これは技巧ではありません。
問いそのものが、書き手の意識を通過していない書き方。
言い換えるなら、
問いは、考えられたのではなく、
最初からそこに在った」
と近藤さんは言った。
その表情には迷いがあるようにも見えた。
そうか、近藤さんも判断がつかない何かがあるのだろう。
「不明……、
そういう言葉が妥当かもしれない」
と私は呟いた。
「そうね。
これはね。
編集者の経験則が通用しないタイプの原稿。
50代にもなると、
だいたい分かるようになるのです。
この人はこの先どういう作家になるか
次はどういう作品を書くか
どの文脈に配置できるか
ところが、この作家に関しては、
次がまったく読めない。
それは未熟だからではありません。
むしろ逆です。
この人は、
文壇の系譜や評価軸の外側から書いている。
私はこういう原稿を、過去に数回しか見たことがありません。
そしてそのとき、編集部内では決まってこう言われました。
これは、降りてきちゃったやつだねと」
と近藤さんは答えた。
降りてきちゃったやつか……。
しかし、こんなに何度も降りてくるなんてあるのだろうか。
あっ、ちょっとまて。
降りてきている前提で考えてしまった。
冷静になろう。
でも、オカシイのは私のほうなのかもしれない。
なぜ降りてきているというのを、ここまで否定したいのだろうか。
「あの、近藤さん。なぜ神を降ろした。と言いたくなるのでしょうか?」
と私は尋ねた。
近藤さんは、深く息を吸って、呼吸を整えている。
「私は宗教的な人間ではありません。
編集者として、そういう言葉は本来、避けるべきだとも思っています。
それでも、
この作品について語るときだけは、
他の言い方が見つからない。
なぜならこの原稿には、
書こうとした熱
認められたい欲
技術的誇示
そういった人間の匂いが、
驚くほど薄い。
代わりにあるのは、
今、ここに置かねばならないものが置かれてしまった。
という感覚だけ。
これは創作ではありません。
……受信です」
と近藤さんは目をそらした。
「触れたくない作品なのですか?」
と私は尋ねた。
「いえ、そうではないの。
私は嫌いではないわ」
と近藤さんは言った。
「私も同じです」
と私は答えた。
「この作家は、
神を信仰しているかどうかは関係ない。
だが確実に、
人間の判断を通さない言葉の通路を一度、開いてしまった。
私はそれを、
編集者として、
そして長年文学に携わってきた一人の読者として、
こう表現するしかありません。
『この作品は、作家が書いたのではない。
降りてきたものを、黙って書き留めただけだ』
そして――
こういう原稿に、
編集者は本来、
触れてはいけない。
ただ、
そっと世に出すか、
そっとしまっておくか、
それを選ぶだけなのです」
と近藤さんは言った。
「ただ何も触らずに、送りだす作品ってことでしょうか?」
と私は尋ねた。
「そうね。もちろん校閲は必要でしょうし、それはしているけどもね」
と近藤さんは答えた。
「そういう作品もあるのでしょうか?」
と私は尋ねた。
「えぇ、あるわ。
触ってはいけない、というより、
触る必要のない作品ね
それは完璧だからとも言えるし、そうでないとも言える。
ただ、触れる作品と、触ってはいけない作品が、私たちにはある。
ただそれだけよ」
と近藤さんは言った。
私は取材を終え、店を出ようとした。
すると、
先ほどの老人がニヤニヤしながら、私を呼び止める。
なにこの人。
近藤さんは先に店を出ており、
頼る相手もいない。
店員さんを呼ぼうかな。
「どうかしましたか?」
と私は尋ねた。
「このメモあんたのじゃないかね」
と老人は言った。
老人の手には、私の書き留めたメモがあった。
「ありがとうございます」
と私は言った。
「あんた。何を調べとる。記者さんか?」
と老人は尋ねた。
「記者ですが、取材対象については説明する必要がありません」
と私は答えた。
「そうか……、まぁいい。じゃあワシとデートせえへんか」
と老人は言った。
「せっかくですが、お断りします」
と私は頭を下げた。
「なんじゃ。つまらんのぉ」
と老人はふてくされた。
なんだったんだ。あの人。
帰り際に店員が言った。
「あのおじいちゃん。いつも店でナンパしてるんですよ。
ごめんなさいね。注意しておきますから」




