表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

扁桃体

9月6日

私は少し恐怖を感じなくなったことに気が付いた。

恐怖とは扁桃体がつかさどる根源的な感情だ。

その根源的な感情が薄くなっている。


以前から、こうだったとは思えない。

たぶん※※のことを調べ出してから、恐怖の感情が薄れてきた。


恐怖が薄れることなどあるのだろうか。

私は何度も考えたが、答えは出なかった。


しかし、紙魚(旧カツオブシムシ)さんとの会話は、契機になったかもしれない。


通常ルート以外の人生って言うのも、現実ではありだとわかったからだ。


普通は効率化を目指すために、テンプレを使う。

そしてそれは、結果的にテンプレから外れる恐怖を伴うことにもなる。

効率重視の試みが、人間らしさを奪っている。


もしかすると、※※は扁桃体に異常があるのかもしれない。

そして、その作品に触れるうちに、感化され、恐怖を感じなくなる作用があるのかも。

そんな風に少しだけ思った。


ただ、多分これは妄想だ。

恐怖とは、根源的なもの、これを減らすような作品なんて作れるわけがない。

そう、私は自分に言い聞かせた。


私はいつものように出社した。

朝から編集部はごたついていた。

丸尾さんが、頭をかいている。


「どうしたんですか?」

と私は尋ねた。


「今な。予算削減で、この編集部からも何人か切るって話になってるんだよ」

と丸尾さんは言った。


「あぁなるほど。そうですか」

と私は答えた。


「ずいぶん、のんきだな。お前も切られる可能性あるんだぞ」

と丸尾さんはじっと私の目を見た。


そうか……、

そうだな。私も切られる可能性があるんだな。


「そうですね」

と私は言った。


「お前どうした。前だったら怖がってただろ」

と丸尾さんは首を傾げた。


あれ……、

私どうしたんだろう。


「なんかね。変化って悪いもんじゃないような気がするのですよ」

と私は答えた。


「まぁそうだな。悪くなるって思い込みだものな」

と丸尾さんはうなづいた。


私は心の中に変化を感じていた。

しかし、それは今日始まったものなのか。

もともと、そうだったのか?

それすらもハッキリとはしない。

ただ、怖くはあまり感じない。それだけだった。


「取材行ってきます」

と私は編集部を飛び出した。


今日の取材対象は、同じ出版社で純文学系の作品を扱う50代の女性編集者だった。


フロアも違い、あまり面識はないが、同じ出版社ということで、許可をもらいやすかった。


取材は会社の近くの喫茶店で行った。


(からんころん)

喫茶店の中は、クーラーの冷気と、珈琲の香りでいっぱいだった。

店内を見ると、手を上げている女性がいた。


「雪峰です。本日はよろしくお願いします」

と私は頭を下げた。


「こんにちは。近藤です」

と近藤さんも頭を下げた。


近藤さんは、手を上げ、店員を呼ぶ。


「私はレーコーで」

と近藤さんは言った。


店員はメモをしている。

私はメニューを見る。

レーコーというメニューは存在しない。

レーコーとは何なのだろう。


しかし、「レーコーって何ですか?」と聞くと、

この子、レーコーも知らなくて、出版社やってるとなったらマズい。

まぁそれでもいいか。

しかし、ここは私も同じのをというと、印象がいいのかもしれない。


そんなことを考えつつ、いやめんどくさい。

自分の好きなものを頼もうと。


「じゃあ私はアイスコーヒーで」

と私は言った。


店員と近藤さんは、くすっと笑ったように見えた。

なんだこれは、

アイスコーヒーを注文した私は負け組なのか。

そんな風に思った。


「それで※※のことよね」

と近藤さんは言った。


「はい」

と私は答えた。


「それで、何が知りたいの」

と近藤さんは尋ねた。


私が答えようとすると、

店員がやってきた。

「お待たせしました」

と店員は同じ黒い飲み物を、私と近藤さんの目の前に置く。


まったく同じものにしか見えない。

レーコーとアイスコーヒーをどう見分けているのだろう。


「近藤さん。

恥を忍んで聞きますが、

レーコーとアイスコーヒーの見分けつきますか?」

と私は尋ねた。


「見分け?そんなのつきませんよ」

と近藤さんは笑った。


「でも、店員さんは両方持ってきて、それぞれ渡しましたよ」

と私は言った。


「店員さん」

と近藤さんは手を上げて呼ぶ。


「はい」

と店員さんは言った。


「店員さん。レーコーとアイスコーヒーの見分けつきますか?」

と近藤さんは尋ねた。


「いえ。つきませんよ。同じものですから」

と店員は言った。


「えっ、同じものなのですか」

と私は尋ねた。


「そうよ。

私たちの世代から少し上の人は、アイスコーヒーを冷たい珈琲、冷コ―って呼ぶのよ」

と近藤さんは笑った。


「なんだ。そうだったんですか」

と私は少し安心した。


「それでね。※※なんですけどね。

正直に申し上げますね。

私はこの作品を読んで、編集者としての判断が一度、完全に止まりました。


良いとか悪いとか、

売れるとか売れないとか、

完成度が高いとか低いとか、

そういう編集者的な思考が、途中で一切、機能しなくなったのです。


これは、私の経験上、非常に危険で、そして稀な感覚です」

と近藤さんは言った。


「それは、どういう意味ですか?」

と私は尋ねた。


「まずね。

書こうとして書いた形跡が、ほとんど見当たらないの。


長年、原稿を見てきましたが、

多くの作品には必ず残ります。


構成を整えた跡、

読者を意識した配慮、

作家が、ここを読ませたいと思った痕跡。


ところが、この作品群には、

そうした、意図の指紋がほとんど残っていない。


あるのは、

生活/記憶/倫理/喪失/回復


それらが説明もなく、主張もなく、ただ置かれている。


これは編集者にとって、少し怖い書き方です。

なぜなら――

手を入れる場所が、存在しないから」

と近藤さんは答えた。


(からんころん)

涼しかった店内が外の暖気で一瞬ぬるくなる。

(いらっしゃいませ。空いてる席にお座りください)

店員の声が聞こえた。


髪も髭も真っ白な老人が一人、入ってきて、

私たちの席の後ろに座る。

「お姉さんレーコー」

老人はそう言った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ