30代・心療内科医・男性
9月4日
私は、モヤモヤする気持ちを抱えながら、この作家を取材対象とすることとした。
しかし、方々手を尽くしても直接取材はムリだとわかり、間接的に取材することにした。
編集長に声をかけると、興味はあるらしく、許可がおりた。
そしてまず、
対象に選んだのは、30代心療内科医の男性だった。
決めた理由は医師という事で信頼ができそうだという所と、近いからだ。
遠方の取材はやはりしにくい。
男性はSNSでやり取りをすると、匿名を条件に受け入れてくれた。
指定された場所は、男性が経営する心療内科で、
診療時間外に来てくれという事だった。
大通りに面したビルの3階に男性の心療内科はあった。
受付で、
「取材をお願いしたのですが……」
と私が言うと、受付の女性が先生を呼びにいった。
30秒ほどで女性は戻ってきて、
先生のところへ案内してくれた。
デスクとソファーの落ち着いた部屋だった。
壁には風景画が飾られており、ヒーリングミュージックがかかっていた。
「はじめまして、雪峰朱音です。
今日は取材を、お受けいただきありがとうございました」
と私は頭を下げる。
「どうも、芹沢です。
私でお役にたてるのなら、光栄です」
と芹沢先生は言った。
「それで先生が、※※の作品が神を降ろして書かれたものだと思われた理由はなんですか」
と私は尋ねた。
「そうですね。
基本的にはSNSで書いたことと同じなのですが、
それでも構いませんか?」
と芹沢先生は言った。
「えぇ、直接お聞きしたかったわけですから」
と私は答えた。
先生の主張はある程度は、SNSの書き込みで理解していた。
しかし、よく理解できない部分もあったからだ。
「正直に言います。
私はこの作品を物語として読もうとして、
途中でやめました。
理由は単純で、臨床で日常的に触れている“心の深層”と、同じ手触りがあったからです。
これは、うまく書けている小説ではありません。
“降りてきてしまった内容を、最低限の言葉で固定した記録”に近いです」
と芹沢先生は言った。
心の深層……、
興味深い言葉だ。
「具体的にどういう部分に反応されたのですか」
と私は尋ねた。
「心療内科医の立場から見ると、
最も異常なのはここです。
・喪失
・愛着の断絶
・罪悪感
・回復期の静かな多幸感
・復讐衝動が倫理へ転化するプロセス
これらを一切の診断名・専門用語なしで描いている事です」
と芹沢先生は言った。
よくわからない。
なぜそれが異常なのだろうか?
「詳しくお願いします」
と私は尋ねた。
「普通は、
・PTSD
・解離
・抑うつ
・適応障害
こうしたラベルを“知識として”経由しないと書けない。
しかしこの作品群は、
診断よりも前の層──、
つまり患者が言葉にできない感覚。
そのものを掬っているのです。
これは訓練では無理です」
と芹沢先生は答えた。
訓練ではムリ?
つまり、常人では書けないものを書いてると……、
そういう事か、
いやそうだ、そう主張しているのだから。
「たしか、回復がドラマになっていないと主張されてましたよね」
と私は尋ねた。
「臨床で最もリアルなのは、
回復は劇的ではなく、拍子抜けするほど地味だという点です。
・猫になった妻と、うどんを食べる
・亀が語り、太郎が去り、世界は淡々と続く
・復讐を果たさず、人生が静かに終わる方向へ進む
この盛り上がらなさは、
回復期の精神状態と完全に一致しています。
これを作為的に作ろうとすると、
必ず感動シーンや救済の台詞を入れてしまう。
それが、ないんです」
と芹沢先生は首を傾げた。
「演出するのを捨てたのでは?」
と私は尋ねた。
「いや……、
これはそもそも演出という概念が介在していない書き方です」
と芹沢先生は答えた。
作家に演出という概念がない。
そんな事があり得るのだろうか。
いやあり得るな。
ノンフィクション作家とか、そういうのなら。
えっちょっと待てよ。
フィクションだろ。
何かを見てるのか?
あぁそうか。
神を降ろしているのなら、見えてるってことか。
そういう主張か。
「倫理についてはどうですか」
と私は尋ねた。
「ここなんですよ。
倫理が思想ではなく、呼吸のように存在しているのです。
特に復讐者の話。
この作品は倫理的に正しいことを、一度も主張していません。
ただ、
そういう選択をした人間が、
そういう人生を生きた。
それだけを置いているのです。
これは、宗教書や哲学書に近い書き方です。
答えを与えず、姿勢だけを置く。
臨床で言えば、
助言をしない良い医師と同じ態度です」
と芹沢先生は答えた。
答えを与えずか……、
たしかにそういう所はあるかもしれない。
選択の自由があるというか、
どこかに誘導したいという意図がないというか。
そもそも、
何も望んでないのではないだろうか。
ただ置くことを目的としているような。
それは作家の仕事なのか?
「まるで作家の仕事ではないような」
と私は苦笑いをした。
「それ、
最大の理由はそれです。
この作品群には、
・承認欲求
・技巧を見せたい気配
・読者を操作したい視線
が、ほぼ存在しません」
と芹沢先生は答えた。
私も記者として、文を書くからわかるが、初めにある程度のシナリオはあるのが普通だ。
こう誘導したいという目的があり、その文を構成する。
その文の誘導したい目的に応じて、情報量を自分に有利なように調整し、自分の主張が正しいように情報操作する。
それは可能だし、多くの者は少なからず、やったことはある。
それに、認められたい欲求は基本的な欲求だろうし、作家としてキャリアを積めば、
テクニックを見せたくなるだろう。
なぜそれがない。
「物書きの端くれとしては、少しイラっとするというか、理解ができないですね」
と私は唇を噛んだ。
「そうでしょうね。
書いている主体が、
評価される人間より一段引いた場所にいます。
私はこれを、臨床ではよく知っています。
・深い瞑想状態
・極度の集中
・ある種の宗教的没入
・もしくは、長期的な内省の果て
人が、自分を脇に置いて語り始めたときの書き方です」
と芹沢先生は答えた。
芹沢先生は、帰り際にこんな事を言っていた。
この作家は、
神を信じているかどうかは分からない。
だが確実に、自我を通さずに言葉が流れ込む状態を知っている。
私はそれを、
比喩としてではなく、臨床感覚として「神を降ろしている」と表現しています。
これは才能論ではなく、状態論です。
この作品は、
「うまく書かれた小説」ではなく、
一時的に“人間の位置を外れた語り”が発生した記録だと。
私はボーっとしたまま、大通りの側の商店街に入り、
肉屋をみつけ、店先で売っていたコロッケを注文した。
ラードのニオイがついた揚げたてのコロッケは美味かった。




