意味
9月9日
今日は9という陽が二つ重なる日ということで、重陽の節句と呼ばれるそうだ。
そんなこともあって、編集長が菊の花が入った菊花茶をふるまっていた。
オカルト雑誌らしい、ちょっとしたイベントだ。
「不老長寿を目指して」
と編集長が笑いながら言っていた。
私は、菊花茶を飲みながら、取材のまとめに取り掛かっていた。
取材というのは、材料を取るのが仕事。
そして執筆とは、材料から余計なものを取り除く作業。
まぁ料理と同じだ。
最終的には、読者が食べやすい形に調理する。
アクの強い部分は、アクを抜かないと食べることができない。
これは料理も雑誌の記事も同じ。
だから取材というのは難しい。
紙面の都合上、割愛しないといけないことも多いし、
切り取り部分の作為性の問題で、
のちのち取材対象と揉めたりもする。
話は変わるが、
神がいないというのは、悪魔の証明と言って、かなり厄介らしい。
だからということもあるが、
「神さまなんていない」
なんて言わないほうが良い。
ただ無神論を否定するわけではない。
気持ちはわかるし、
無神論者も良いと思う。
でも、
主張はしないほうがいいかもしれない。
そう思う。
私も昔は、神さまなんていないと思っていた。
だって、
神さまがいたなら、私は罪人のような気がしたから。
だから、神さまなんていないと思った。
その観念が私にとっての免罪符だった。
この世界は生きづらいと思う人もいるかもしれない。
苦しいかもしれない。
神さまにすがっても、助けてくれないかもしれない。
そんな時は、行政に相談すると良い。
意外と頼りになると思う。
だから、神さまなんていないとは、言わない方が良い。
それに、きっと言いたいのは、
神さまはいない。ではなく、
神さまがいるなら、私を助けてよ。
だろうしね。
私は、取材メモをまとめる。
※※の小説も片っ端から読んだ。
以前の私は、仕事をしていても、どこかぽっかりと穴が空いたような気がしていた。
どういうのだろうか。
死霊使いネクロマンサーに、操られている死霊というのだろうか。
ハリガネムシに操られている、カマキリというのだろうか。
自分の意思とは関係なしに、動かされていた。
そんな気がする。
でも今はというと、
少し自分というコントロールが取り戻せた気がするのだ。
なぜかはわからない。
ただ、自分として生きても、存外悪くはないという不確実な信念が心に定着しつつあった。
私の在籍する編集部に、米さんという記者がいる。
過去に大ヒットを連発し、生きる伝説とまで言われている人だ。
性格に問題があるので、尊敬はまったくできないが、
頭の切れだけは、私も認めている。
そんな米さんが、シーフードのカップラーメンを私の目の前に差し出している。
「食うか?」
「では頂戴します」
私と米さんは、編集部のポットのところに行く。
米さんはお湯を注ぐ。
私もお湯を注ぐ。
米さんのカップラーメンの蓋はきっちりしまっているのに、私のは開く。
「米さん、カップラーメンの蓋、なぜきっちりしまってるんですか?」
と私は尋ねた。
「性格の悪い奴の蓋は開くんだよ」
と米さんは笑った。
「私、性格悪いですか?」
と私はむくれた。
「冗談だよ。これはな。蓋の折り曲げるところの角を、全部内側に爪で押し込むんだよ。お前のはな、ちょっとだけ押してるだけだ。これだと上に開く力にあらがえねぇ。しかしな、ちゃんと押し込むと、ちゃんと蓋ができるんだ」
と米さんはニヤニヤした。
私は米さんのカップラーメンを見てみる。たしかに、キレイに折り込まれている。
私も試してみる。
おぉ、たしかに開かない。
「すげーです。米さん、初めて尊敬しました」
と私は言った。
「おいおい。いい年したジジイつかまえて、カップラーメンの蓋が開かない方法を教えたくらいで、初めて尊敬しただと。お前、ずいぶん塩なこと言うじゃねぇか。まるでこのシーフードラーメンみたいだ」
と米さんは笑った。
「そういえば、米さん、※※という作家を知っていますか?」
と私は尋ねた。
「あぁ知ってるよ。お前、取材してるんだってな」
と米さんは答えた。
「なぜこんな話を書くのでしょうか?」
私は尋ねた。
「さぁな、書けるから書くんだろう。
お前もそうじゃないか?
書けるから書くんだろう」
米さんは頭をかきながら去っていった。
3分経ったので、
私はシーフードラーメンを食べ始めた。
ふと蓋を見ると、賞味期限が一週間過ぎていた。
だから、米さんは私にくれたのか。
しかし賞味期限が一週間過ぎたくらいでは、まだまだ美味しいな。
そんなことを思う。
米さんの言葉が頭の中を駆け巡る。
書けるから書く。
そうか、書けるから書くのか……。
そうだな。これ以上の言葉はないかもしれないな。
別になぜという理由を、高尚にしなくてもいいじゃないか。
人類を救うためにとか、そんな理由が必要なのか?
たまたま、書いたものが人を救うことがあってもいいし、
救わなくてもいい。
仮に人を救ったとしても、
職業に『救世主』と書く奴はいないだろう。
新聞記者が人を救っても、新聞記者だし。
洋菓子職人が人を救っても、洋菓子職人だし。
オカルト雑誌の記者が人を救っても、オカルト雑誌の記者だし。
なにも変わらない。
戸籍標本には、職業すら書かれない。
偉い発明家も、政治家も、庶民もみな平等だ。
翼や角のように、外観に現れる形跡もない。
ステータス画面もなければ、能力を確認するすべもない。
学校の通知簿ですら、非常にお粗末なものだ。
国語算数理科社会など、
さだめられた科目を、テストという場所で、
どこまで使いこなせるかの、評価軸でしかない。
それなのに、死ぬまでその結果に人生を左右される。
『書けるから書く』
その言葉は私に巻きついた鎖を祓ってくれた。
そうか、私は自分の書けるものを書けばいい。
人真似ではない、自分であれば良いし、
※※も、ただ純粋に自分であるだけなのだろう。
END




