お寺の和尚さん
9月8日
昨日は、コロッケを5個食べたのに、気持ち悪くならなかった。
たぶんラードが新鮮だったのだろう。
さっき油変えたばっかりだからねと、店主に言われたことを思い出した。
今日も、会社に寄らずに、取材先に直行する予定だ。
取材現場は都内某所の小さなお寺。
40代の僧侶で妻夫木という男性が取材相手だ。
「本日はよろしくお願いします」
と私は頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
と妻夫木さんは頭を下げた。
「実は少し驚きました」
と私は言うと、
妻夫木さんは、合掌をした。
なにか言いたいことがあるのだろう。
私は口を閉じる。
「最初に申し上げます。
神が降りたという言い方は、僧としては本来あまり用いません。
仏教には、人格神が言葉を授けるという発想がありませんから。
しかし――
それでもなお、この作品については、その言葉を借りざるを得ない
そう感じました。
なぜなら、これは我が書いていないからです」
と妻夫木さんは言った。
「我というと、自我とかの我ですか?」
と私は尋ねた。
「仏教では、苦の根本は、我執にあると説きます。
多くの小説は、
認められたい我/分かってほしい我/書いた私を見てほしい我
そうした執着が、必ず文に残ります。
しかしこの作品には、
作者の我が、ほとんど立っていない。
語りはある。
視点もある。
だが、書いている私が前に出てこない。
これは、修行を積んだ僧の説法に近い状態です」
と妻夫木さんはうなずいて言った。
なるほど、僧侶の説法か。
もしかしたら、本当に僧侶が書いたのかもしれないな。
「本当に僧侶が書かれたのかもしれませんね」
と私は答えた。
「そうであっても、不思議はありません。
妻が猫になること。
亀が語り、去っていくこと。
復讐を手放す人生。
これらは本来、
執着・悲嘆・怒りを生む出来事です。
ところがこの作品では、
それらが、苦として固定されない。
すべてが、
そういう縁があった
そういう因が、そういう果を結んだ
という流れの中に置かれている。
これは因果の理解が、
頭ではなく、体で分かっている書き方です」
と妻夫木さんは言った。
僧であれば、体で分かっているかもしれない。
「僧侶であれば、体でわかっているかもしれませんね」
と私は尋ねた。
「そうですね。
と言いたいところですが、因果の理解を体でわかっている者は、
僧侶の中でも、それほど多くはいません。
私どもは、寺院という仏教界という狭い世界で生きておりますから、
社会の荒波というのを、よく理解しておりません。
この作家は、恐らくはその社会の荒波というのを体感的に理解しているのかなと。
あるとすれば、修行を長らく積んだ僧侶であるか、社会経験を経て仏の道に進んだ僧侶であるか、どちらかでしょうな」
と妻夫木さんは答えた。
「苦労人だと」
と私は尋ねた。
「どうなのでしょうね。
そのような気はしますが、案外、苦労はしていないかもしれない。
我々は人物像を知ろうとしますが、それが無駄な我執なのかもしれない。
そうも思います。
仏教文学でよくある失敗は、
悟りを語ってしまうことです。
この作品は、
悟りについて何も言いません。
ただ、
争わない/取り返さない/正しさを主張しない
そうした在り方だけが、淡々と示される。
これは説法ではありません。
背中で語る態度です」
と妻夫木さんは答えた。
説法ではないとすると、やはり僧侶ではないのか。
「その態度で気持ちが軽くなる方も多いようです」
と私は言った。
妻夫木さんは深くうなずいた。
「僧として感じた最大の点はここです。
この作品は、
読者を救おうとしない
正しい道を示そうとしない
慰めようともしない
それなのに、
読み終えた後、心が少し静かになる。
これは、
無為の働きに近い。
教えようとしないからこそ、
自然と整ってしまう」
と妻夫木さんは答えた。
無為自然。
老荘思想か……。
「なぜ神を降ろしたと言われるのでしょうか」
と私は尋ねた。
「仏教的に言えば、
これは神ではありません。
これは、
空に近い
無我に近い
分別の外側にある視点
しかし、世俗の言葉でそれを説明しようとすると、
人は神が降りたと言うしかない。
それほどまでに、
作者の自我が後退している。
この作品は、
神が語ったのではない
仏が説いたのでもない
ただ、
作者が一時的に我を離れ、
言葉が自然に現れる状態に入った。
それだけのことです。
だが凡夫の目には、
それは神を降ろしたと映る。
私は、僧として、こう言います。
この人は、書いたのではない。
ただ、執着せずに、
そこに現れた言葉を写しただけだ
それができた時、
人は神とも仏とも区別のつかぬ境地に触れます。
この作品は、
その痕跡です」
と妻夫木さんは言った。
私は取材を終え、会社に戻った。
デスクは資料の山でごちゃごちゃになっていた。
片付けるか……。
私はつぶやいた。
必要な資料をファイルし、
不要な資料をまとめ、シュレッダーで廃棄した。
私の仕事は民俗学の先生のように、混沌とはしていない。
だから整理できる。整頓もできる。
そう思って、片付けた。
30分ほど経つと、丸尾さんがやってきた。
「どうした。お前が机を整理するなんて珍しい。初めてみたぞ」
と丸尾さんは言った。
えっ。そうか……。
そんなことはないだろう。
「いや、片付けてましたよ」
と私は答えた。
「そんなことないって、編集長もよく言ってたじゃねぇか。机片付けろって。
そしたら、これでも全部把握してるんですって、文句言ってただろ」
と丸尾さんは言った。
まったく記憶がない。
「いや。私は片付けられる人ですよ」
と私は言った。
「編集長。雪峰のデスク見てくださいよ。スッキリしてますよ」
と丸尾さんは叫ぶ。
「雪峰。お前どうした?腹でも壊したか。デスク片付けたりなんかして」
と編集長は言った。
私は、片付けてなかったのか?
じゃあ、片付けていた私は……。




