生真面目な民俗学者
相沢さんへの取材は午前中に終わり、昼前には会社に戻れた。
ふとメールを見ると、取材依頼を出した民俗学者からメールが届いていた。
明日からフィールドワークに地方に1か月ほど出かけるから、今日なら都合が良いとのことだった。
私はすぐさま返信をし、民俗学者の勤める大学まで向かった。
取材は彼の研究室で行った。
壁一面に本や論文の束があった。
こんな人が……、
私は不思議な気持ちになった。
彼は70代の民俗学者で、足立という名だった。
「すまんね。汚いところで、整頓しようにも、このジャンルは整頓しようがないのだよ」
と足立さんは苦笑いをした。
学生が紙コップに入ったコーヒーを持ってくる。
「ありがとうございます」
と私は会釈をする。
「それで、作家の件だよね」
と足立さんは尋ねた。
私はコーヒーに砂糖を入れ、口に含む。
「はい。
民俗学者の先生が、少し踏み込んだ発言をされていたので、驚きました」
と私は答えた。
「そうかな。
民俗学的には、割とポピュラーな切り口だと思うんだがね。そうだろ竹口君」
と足立さんは、部屋の隅で作業をする学生に問いかける。
「そうですね。先生の発言は、それほど特殊な切り口ではありません」
と竹口君は言った。
「私はね。
長年、
神話・昔話・民間伝承・口承文芸を扱ってきました。
文字に残らなかった語り、
書き手の名も失われた物語を、
いくつも見てきた人間です。
その立場から言います。
この作品は、現代小説の形をしていますが、本質は民話です。
だから私は、
神を降ろして書いたと感じるのです」
と足立さんは言った。
「なるほど、民話ですか」
と私はうなづいた。
「民話はみんわ。なんつって」
と竹口君は言った。
私は困った。
突っ込んだほうがいいのかどうか。
「民話や昔話には、
必ず共通した特徴があります。
作者が誰か分からない/語り手が透明/主張がない
この小説群も、まったく同じです。
猫になった妻の話も、
龍宮城の亀の語りも、
復讐しない復讐者の人生も、
この作者はこう考えている。
という匂いが、驚くほどしない。
これは現代文学では異常です。
だが、民俗資料として見ると、
極めて正しい」
と足立さんは言った。
「自己主張が少ないか、ないに等しいと表現される方もおられました」
と私は答えた。
「そうですね。妥当だと思います。
近代文学は、
どうしても思想や主張を背負います。
しかし民話は違う。
なぜそうなったかは語らない。
正しいとも言わない。
ただ、そうだった。と伝える。
この作品も同じです。
妻はなぜ猫になったのか。
亀はなぜ語り始めたのか。
復讐はなぜ果たされなかったのか。
理由は与えられない。
それでも物語は成立する。
これは、
理屈よりも共同体の感覚に根ざした語りです」
と足立さんは答えた。
共同体の感覚に根ざした語り。
そんなことをなぜ作家はしたのか……。
そうか、だから皆不思議がるのか。
モノを見る時、多くの人は、一方向からしか見ない。
しかし、今回のように、多方面から見ると、まるで違った風景が見えてくる。
※※という作家を多方面から見て、立体的に見えている気がするが、
それでも本質が見えているのかどうかは、ずいぶん怪しく感じる。
まだ何もわかっていない。
そう感じた。
「何もわからない。曖昧模糊とした感じに思えます」
と私は言った。
「そうですね。曖昧模糊、適切な表現だと思います。
民俗学では、
生と死、
人と動物、
此岸と彼岸は、
はっきり分かれていません。
この小説群では、
妻が猫になる。
亀が人の言葉を語る。
復讐者が怒りを手放す。
いずれも、
断絶ではなく、連続として描かれている。
これは近代合理主義の視点ではありません。
これは、
日本的な、もっと古い世界観です」
と足立さんは言った。
「古い世界観、おっしゃっていることはわかります。
しかし時代性はあるのではないでしょうか」
と私は尋ねた。
「そこです。
時代性があるのに、時代に属していない。
民話は、
語られた時代の生活を反映しつつ、
どの時代にも読める形を持ちます。
この作品もそうです。
コンビニ/うどん/マンション/心理的葛藤
きわめて現代的でありながら、
読後に残る感覚は、
昔から、こういう話はあった。
というものです。
これは、
作者個人の発想ではありません」
と足立さんは言った。
作者個人の発想ではない。
これは通常、作家に対する言葉としては、侮蔑表現とも取れる。
しかし、足立さんからはそういう意図は感じられない。
作家自身が観測者だとするならば、足立さん自身も、一人の観測者なのかもしれない。
そうか、私も観測者で、読者も観測者。
全てが観測者なのか。
私は気付きに近づいた気がしたが、そう思った瞬間、また遠くなった気がした。
「足立さんはなぜ、神という言葉を使ったのですか?」
と私は尋ねた。
「民俗学でいう神とは、
人格神ではありません。
山の神/海の神/家の神/境目の神
つまり、
人と人の生活の隙間に宿るものです。
この作家は、
その隙間に、偶然、耳を澄ましてしまった。
そして聞こえてきた語りを、
現代の言葉で書き留めただけです。
民話がそうであるように、
この作品も、
いずれ作者の名を離れても、
なお残るでしょう。
それこそが、
神が降りた証拠なのです」
と足立さんは言った。
私は取材を終え、帰路についた。
大学近くの商店街の肉屋からいいニオイがした。
コロッケだ。
美味しそうなので、一つ買うことにする。
ラードのニオイがして美味しかった。
私は10個大人買いをすることにした。
揚がるのを待っていると、メールが届いた。
足立さんからだ。
メールの内容は、取材のお礼と、参考になりそうな論文のURLだった。
私は帰宅途中に論文に目を通した。
20本ほどあったので、大変だったが、面白かった。
足立さんの気持ちが少しわかる気がした。




