女神の化身
これはまだ、神々の存在が身近に感じられた時代の物語……。
「ファーラル王子、後ろっ」
その声に反応して、エル・ザイド王国第二王子ファーラルは背後から振り下ろされた剣をかわし、振り向きざまに自らの刃を敵兵に叩き込んだ。どうっと倒れこむ敵兵の向こうに、小柄な兵の姿が見える。
鼻あてつきの簡素な冑に隠れて、顔はよくわからなかったが、王子はすぐにそれが誰か気づいたようだった。一瞬の驚きの後、その眉が不満そうに歪められる。
「ティア!」
その呼びかけに、小柄な兵はふっと笑ったようだった。王子はさらになにか言おうとしたが、別の兵が彼らの前に現れ、それ以上の会話を不可能にした。
いつの間にかティアと呼ばれた兵は、王子のすぐ傍らで王子を守るかのように戦っていた。まったく、どれほどの敵兵が壁内に入り込んだのか。
ここイル・イギルスは、街を高い城壁に囲まれたエル・ザイド王国の城郭都市である。古くより交易の街として栄え、ふたつの川が交じりあい、街道の要所にあるこの街は今、隣国ザビアの軍勢に取り囲まれ、十日ばかり経っていた。
ザビア軍が攻城機を持ってきていなかったのは、幸いだった。だが、連日の攻勢をしのいでいるとはいえ、城外との連絡は日増しに取りにくくなっている。
そして、さきほど城壁の一部が突破され、ザビア兵が街中に入り込んだところに、ファーラル王子たちが出くわしたのだった。
敵兵は十数人で、数に勝ったファーラル王子の一隊はすぐに退けたが、まだ街中には敵兵が潜んでいよう。彼らが五箇所ある城門のいずれかに向かっているのは、明らかだった。城門が開けられてしまえば、ザビア軍が一気に流れ込んでくる。それだけは阻止しなければならない。
どのくらいのザビア兵が入り込んだかは分からなかったが、すでに突破されたところからの侵入は防いでいる。街中に入り込んでいる敵兵はさほど多くないと思われたが、入り組んだ街中では、どこにいるのか定かではなかった。
目の前のザビア兵がどうっと後ろ向きに倒れる。
「ファーラル王子」
弾んだ声で、ティアが声をかけてくる。王子が無事なことが嬉しそうだ。
だが、ファーラル王子は厳しそうな表情で振り返った。一瞬、ティアは怖気づいて立ち止まった。
そのティアの腕をつかんで、ファーラル王子は細い通りに連れて行った。そこでティアの冑を無理やり取る。
零れ落ちたのは、鮮やかな赤い髪だった。
赤やオレンジ色のさまざまな濃淡と色合いを持った髪だったが、まとまると燃え立つ炎のような緋色に見えた。それは、運命の女神が持つという髪の色を思わせる。
そして、その髪が縁取っている貌は、ファーラル王子のよく知る少女のものだった。金色に縁取られた琥珀色の瞳が、不安げに王子を見上げている。
「ティアーラ」
その声の厳しさに、ティアーラはつい首をすくめた。その少女の肩をつかんで、ファーラル王子は揺さぶった。
「何故、そなたがここにいる! 私は王都から出るなと言いおいたはずだぞ」
そう、出陣するとき、ティアーラはともに行きたいと言った。少女は大隊長を務めるイヴンの娘で、早くに母をなくし兵舎で育ったようなものだった。お転婆な少女で、同じ兵舎で育つ同世代の男の子たちと一緒によく遊んでいる。
第二王子で気ままな身分のファーラル王子は軍舎に入り浸っていることが多く、ティアーラやその仲間たちとも顔見知りどころか、よく遊んでいた。剣を彼女に教えたのも、ファーラル王子だった。それを今、後悔しているが。
出陣が決まったとき、ティアーラもその仲間たちも一緒に行きたいとファーラル王子に訴えたが、王子はそれを退け、子供たちに王都にとどまるように言ったのだった。
その、王都にいるはずのティアーラが何故ここにいるのか。
ティアーラは口を開こうとしたが、揺さぶられて声を出すこともできなかった。
「お、王子……」
やっと絞り出すかのようにティアーラが言うと、ファーラル王子はようやく揺さぶるのをやめた。ティアーラはやっと王子の瞳を見詰めることができる。そして、ファーラル王子が腕から血を流していることに気付き、目を見張った。
「ファーラル王子、怪我をしてます」
ああ、とはじめて気付いたかのように、ファーラル王子は怪我をしている腕を見やった。左腕にかすかな傷がある。先程の戦闘でつけたものだろう。さほど大騒ぎするものでもない。
だが、ティアーラは髪を結んでいた布を取ると、それでファーラル王子の傷を覆った。
「あとで消毒しなくちゃ」
その少女の顎を、王子は捕らえ上に向かせる。
「質問に答えていないぞ、ティア。いつどうやってこの街に入り込んだ。イヴンは承知の上か」
金色の瞳で、ティアーラは王子の紫の瞳を見詰めた。そして、観念したかのように口を開く。
「昨夜、補給船でこの街の中に入りました。父さんは知りません。実は私……」
「補給船だと。いったい警備のものはなにをしている」
「あ、あの王子」
ティアーラが説明を続けようとしたそのとき。再び騒ぎが起こった。隠れていたのだろう、敵兵を見つけたという声が聞こえてくる。
その騒ぎに、ファーラル王子は少女を放した。
「話は後だ。こんどこそ、ちゃんとここにいろよ、ティアーラ」
「私も行く! 王子!」
「ならぬ。これは命令だぞ」
そのまま、後ろを振り向くことなくファーラル王子は駆け出した。ティアーラもその背に続こうとしたが、後ろから手をつかまれた。
「ティアーラ!」
「エルハンさま」
少女の腕をつかんでいたのは、ファーラル王子の側近であるエルハンだった。
「どこに行くのです、ティアーラ。王子はここにいるように命じられたのですよ」
「そんな命令、きけません。王子を守らなくちゃ」
ティアーラはエルハンの腕を振り切って、王子のあとを追おうとした。だが、エルハンは握る手に力をこめて、彼女を行かせまいとする。
「放して、エルハンさま」
「なりません。王子の命令を聞くのです。何故、王子があなたにとどまれと命じたのか、あなたにはわからないのですか」
「そんなの知らないっ」
そんな会話の最中にも、ティアーラは自由になろうともがき続ける。
「あなたになにかあれば、王子は哀しまれる。王子にそのような思いをさせるわけにはいかないのです。あなたはここにいるべきです、ティアーラ」
「王子は私になにかあっても悲しまないと思うよ、エルハンさま」
「いいえ、王子はあなたを大切に思っていらっしゃいます。あなたになにかあれば、哀しまれ、御自分のせいだと思われるでしょう。あなたは王子にそのような思いを味あわせたいのですか?」
ティアーラの動きがぴたっと止まった。ゆっくりとエルハンのほうに向き直る。その顔に信じられないという表情を浮かべて。
「王子が私を大事に思ってる……?」
しまったという表情をエルハンは浮かべた。
「妹のように、ということですよ。それでもあの方は嘆き哀しまれるでしょう」
「うん、わかってる。でも嬉しい。妹としてでも王子が思っていてくれるなんて」
それは幸せそうな表情だった。だが、すぐに険しい表情がそれにとって変わる。
「それならなおさら、行かなくちゃ」
身を翻そうとする少女を、エルハンは再び自分のほうに向き直らせた。
「ティアーラ、ファーラル王子を哀しませることは私が許しません」
「それでも、行かなくちゃいけないの」
ティアーラは泣きそうな表情でエルハンに言った。
「王子が私のことを思っていてくれるのは嬉しい。でもね、それは王子が生きていてくれればこそじゃない。王子が死んじゃったらなにもならないんだよ。嘆くことも、怒鳴ることもできない。王子が生きていてくれれば怒ることだって哀しむことだってできるんだ。笑ったり、話をすることだってできる。でも、死んだらそれで終わりなんだ。哀しみだって生きていれば、そのうちに薄れる。王子が生きていてくれるためなら、私の命なんかいくらでもあげる」
「ティアーラ」
「わかってます。ファーラル王子はいつか他の王家の姫君か高い身分のお姫様を娶られるということは。だって王子だもん、当然だよね。私がどんなにファーラル王子を想っていても、この想いがかなうことはない。そんなこと、はじめから知ってる。でもそれでも、王子には生きてて欲しいの。私の自己満足でしかないかもしれない、でも、それでもいいの」
ティアーラの叫びにエルハンはつい腕をつかんでいた手の力を抜いた。それを待っていたかのように、少女はふっと笑った。
そして、彼の腕を振り払い、軽やかに走り始める。
一瞬後、エルハンは自分の犯した失敗に口の中でののしりながら、少女のあとを追った。
「ティア、この馬鹿が!」
ティアーラは拳骨で頭を叩かれて、その場所を両手で撫でさすった。
「痛いよ、父さん」
「当たり前だ。それともお尻を叩いて欲しいのか」
イヴンの言葉に、さしものティアーラも後ずさった。その姿に、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
「そのへんにしておいてやれ、イヴン」
「王子はお甘い」
そういったが、イヴンはそれ以上娘に手を出そうとはしなかった。
とりあえず、城門は守った。街中に入ったザビア兵はほとんど討ち取ったはずである。もちろん、城門の兵はどの門も通常よりも増やし、街中を監視する見回りの兵も増やし、必ず複数でするようにあたらせている。
残った兵達は中央広場の周辺に集まっていた。その中にファーラル王子やティアーラの姿もあった。夕闇がひたひたと迫り、かがり火があちらこちらで焚かれて皆を明るく照らし出していた。
「それでいかがいたしましょう、殿下。うちのお転婆娘を。王都に送り返しますか」
「いや」
ファーラル王子はかすかな笑みを浮かべて言った。
「今、送り返すのはかえって危険だろう。それに」
王子はさらに笑みを深めた。
「ここにいるほうが、悪さをしないか見張っていられるだろう」
その言葉に、イヴンは得心をえたようにぽんと手を叩き、うなずいた。対して、ティアーラは納得の行かぬような表情を浮かべている。
「そなたは反対せぬのか、エルハン」
側近がティアーラや兵舎の子供たちのことを快く思っていないことを知っているファーラル王子は、そっと傍らの彼に訊いた。エルハンは少し驚いたようだったが、すぐにいつもの生真面目な表情に戻る。
「いたし方ございますまい。私とて、女子供を敵兵がうろうろする外に追い出すようなまねをするつもりはございません。それに」
彼にしては珍しく、かすかな笑みを浮かべて少女のほうを見やった。
「彼女の想いも、少しは分かりますゆえ」
王子を守るためならば、命も惜しくない。それはエルハンも同様である。その想いが、彼にいくばくかの親近感を抱かせているようだった。
「王子」
ティアーラはおそるおそるといった態で、ファーラル王子に呼びかけた。
「お怪我の具合はいかがですか」
「ああ、大事無い。手当ては済ませてあるしな」
その言葉に、ティアーラはぱっと笑みを浮かべた。周り中が明るくなるような、そんな笑みだ。
「よかった。そうだ、王子、これを」
ティアーラは鎧の懐から羊皮紙を取り出した。合わせ目には、見覚えのある封蝋がしてある。勇猛で知られるハフニ将軍のものだ。
「これは」
「将軍に頼まれたんです、これを王子にお渡しするようにと」
それから、ティアーラはいたずらめいた微笑を浮かべる。
「でも、先程まですっかり忘れてましたけどね」
そういうと、ティアーラはなにか食べものをもらってきますねと言って立ち上がった。軽く王子に一礼すると、紅い髪を翻してその場を立ち去る。その後姿を見送って、王子は封蝋をはがした。
「のんきなものだな」
ティアーラが歩いていると、どこからかそんな声がした。少女は足を止め、その声がするほうを見やる。そこは、ぐったりと疲れた様子の兵たちが大勢いた。さすがに、城壁を突破されたのが堪えたのか、どの表情に覇気がない。顔見知りのものもいたが、大半は見たことのない顔だ。その中の一人と目が合った。それで、それが声の主だと知れる。
「明日がどうなるかしれぬのに、戦ごっこか。あきれたものだ」
「ジョハナン」
近くにいた兵が制止したが、男はそれを無視した。
「いいか、小娘。今日はこんなものですんだがな。明日はもっと激しくなる。いつ城壁を突破されるか分かったもんじゃない。女子供のいるようなところじゃないんだ。さっさと帰るんだな」
「帰らないよ、私は」
ティアーラは微笑んだ。
「王子からここにいてもよいとお許しいただいたし」
「小娘、ここは遊び場じゃないんだぞ。邪魔だ」
「邪魔にはならないよ。私は皆と一緒に戦うんだ」
「小娘っ」
「私はティア、ティアーラだよ」
ティアは軽く胸に片手を置いた。それは戦士の挨拶でもある。
「なにを怖がっているの、おじさん」
片膝をつき、腰の剣に手を添えて立ち上がりかけた男に、ティアは不思議そうに訊いた。
「俺が怖がっているだと」
「うん、そう見える。怖がることなんかないのに」
それから、ティアーラは手を広げ、ぐるりと周囲を見渡した。
「皆もそうだよ。なにを怖がることがあるの。城壁や門が突破されそうだから? イル・イギルスがそんなに簡単に墜ちると思っているの? 食料がなくなるかもしれない? それはザビアも同じことだよ。国を離れて戦っているんだ、糧食も尽きてきている。このごろでは近隣の村や町を襲っているみたいだ。向こうのほうが、ずっと大変なんだよ」
いつしか、誰もが少女の言葉を聞き始めていた。いくつものまなざしを浴び、だがそれに気付かぬように、少女は話した。
「私たちは負けない。だってここにいるのは、エル・ザイドでも屈強と謳われた兵士たちなんだよ。ザビアごときに後れを取るわけがないじゃない」
そう言って、ティアーラは周りを見渡した。兵士たちは互いに照れたように顔を見合わせる。その表情に、少しずつ明るいものが浮かんできた。
「それに、私たちにはファーラル王子がいる。王子がいれば、負けることなんかない。そうじゃない」
ティアーラは、手でファーラル王子を指し示した。全員の視線が王子に集まる。
突然のことに、ファーラル王子は驚いたようだったが、すっくと立ち上がった。その姿は自信に満ち溢れているように見える。
「私たちは負けない。皆がいて、ファーラル王子がいる。どうして負けることがあるなんて思うの。それに」
ティアーラは一息つくと、にっこりと微笑んで見せる。
「他の場所で戦っているジャーミル王太子殿下も、ハフニ将軍も優勢だという知らせがあるわ。ハフニ将軍はじきにこちらに援軍に来てくれるはず。それまで持ちこたえなくて、どうするの。私たちは栄誉あるエル・ザイドの軍。ザビアごときに遅れをとってどうするの」
少女は手を空に向かって伸ばした。まるで星をつかもうとするかのように。
「さあ、私たちは勝つのよ。そして、エル・ザイドの地からザビア兵をひとり残らず追い出してしまいましょう」
「ティア!」
顔見知りの兵のひとりが、突然少女の下に駆け寄り、彼女を抱き上げ肩に乗せる。
「我らに勝利を! ファーラル王子に勝利を!」
ティアーラの勝ち誇ったような声が広場中の響きわたり、一瞬の後、広場を包み込むような声が応えた。
「ティア!」
「ファーラル王子!」
「我らに勝利を! エル・ザイドに勝利を!」
兵達はさきほどまでへたり込むように座っていたことも忘れ、立ち上がり、口々に叫んだ。その中心に、ティアーラがいる。
「まるで女神の化身だな」
ファーラル王子がつぶやくように言う。エルハンはそっと王子のほうを見やった。
「見るがいい、あの紅い髪がかがり火を受けて、まるで炎のようではないか。運命の女神ラーディアがもつという、その緋色の髪のようではないか。ティアはラーディアの現し身か」
そう言われて、エルハンは改めて少女を見やった。
かがり火の明かりを受けて透ける紅い髪が、巻き毛のせいか、風になびくたびに揺れ、まるで燃え盛る炎のよう。それは魅入られるような光景だった。確かに運命の女神ラーディアがその場に現れたかのような錯覚に陥ってしまう。
夢か現か。エルハンは呆然とその姿に見入った。
彼の傍らで、ファーラル王子は一歩前に出た。
「皆のもの」
さほど大きな声ではなかったが、よく響く声音に広場は次第に静まり返った。ティアは下ろされ、皆が王子に向き直る。
「ティアーラが申したとおり、ハニフ将軍が援軍を連れてこちらに向かいつつあるという。だが、我らとてエル・ザイドの兵だ。座して助けを待つか、それとも打って出るか。さあ、そなたたちならばどちらを選ぶ」
「打って出ましょう」
つかの間の沈黙の後、イヴンがそう答えた。それに王子はうなずく。
「そうとも、打って出るべきです」
「こもってばかりが戦ではございません。ここはひとつ」
「ファーラル王子についてまいります」
その言葉に、次々と兵達は片膝をつき、胸に片手を当てる。
「よし、では明後日の早朝、我らはザビア軍に対し、打って出るぞ。異存はないな」
「ファーラル王子!」
「王子!」
「我らが命は王子にお預けいたします!」
「王子!」
兵達の声を、ファーラル王子は片手を上げてさえぎった。
「よいな、では今は体を休めるがよい。そして明後日、我らは勝利をつかむのだ。そして、その勝利を我らが女神に捧げようではないか」
ファーラル王子が指し示したのは、ティアーラだった。少女はきょとんとした表情で周りを見渡す。だが、彼女より先に周りの兵たちが彼女を再び担ぎ上げた。
「運命の女神だ! 我らには勝利の女神がついているぞ!」
「ティア!」
「ファーラル王子!」
「我らに勝利を!」
兵達が口々に叫び声が、町中に響き渡った。
夜明け前の風がマントを膨らませ、通り過ぎていく。
静かなざわめきというのだろうか、そこかしこでなるべく音を立てないように兵たちが忙しそうに動いている。だが、この緊迫した雰囲気はザビア軍にも伝わっていることだろう。
「ファーラル王子」
ティアーラは抑えた声で、王子を見上げながら声をかけた。
「やっぱり、駄目ですか」
「駄目だ」
ティアーラはずっと王子にともに出て戦いたいと言い続けていた。対するに王子の答えもずっと否であった。
最後の最後にもう一度言ってみたのだが、やはり答えは同じだった。ティアーラは溜め息をついた。
「こっそり出ようとしても、無駄だからな。皆そなたの顔をよく知っているし、私の命も知っている。あきらめることだな」
ティアーラは再び溜め息をついた。
「でも、ここでおとなしく王子や父さんの無事を祈っているだけなんて。一緒に行って王子をお守りしたいんです」
「その気持ちだけ受け取っておこう。それに、そなたには重要な任務がある。ハニフ将軍のものよりもずっとな」
え、と顔を上げたティアーラに、ファーラル王子はふっと笑みを浮かべると、少女の耳元になにごとかささやいた。ティアーラの表情が驚きに変わる。
「王子、それって」
「そなたならできるだろう。遠矢の弓は得意だっただろう」
「それは、そうですけど……。そんな不遜なことをしてもいいんですか」
王子はただ笑みを浮かべただけだった。
夜明けの光が差し染める。その光の中で、エル・ザイド軍はイル・イギルスの城壁の前に陣取っていた。夜のうちに少しずつ門から出て、布陣していたのだった。
ザビア軍もまた、軍容を整えて待ち構えるように対峙している。どちらもすぐにも攻撃できる態勢だ。
ゆっくりと朝の光が両軍をあらわにしていく。張り詰めた空気が両軍の間に漂っていた。
と、ふいにエル・ザイド軍の中央が割れた。そこに現れたのは、白い馬に乗った騎士だった。輝く黄金の鎧兜は、それが身分高い騎士だと物語っている。
騎士は腰の剣を抜くと、ゆっくりとその手を上げた。ザビア軍のいくつものまなざしが、つられるように上を見上げる。そして、あっという声があちらこちらから漏れた。
「あそこに誰かいるぞ!」
その言葉にさらにいくつものザビア軍の視線が上へと向かう。
城壁の上に、何者かが立っていた。昇りゆく太陽を背に、地上にひしめく軍勢を睥睨するかのように。
白いドレスに包まれた女性の姿だった。だが、それは人の子だろうか。
風に揺れる紅い髪は、さし染めたやわらかな陽の光に照らされて、まるで炎が踊っているようだ。遠目にも鮮やかなその緋色の髪。風にあおられて、燃え盛っているかのよう。
炎の色の髪を持つのは、運命を司る女神ラーディア。
そう、そのラーディアがあたかも現れたかのようだった。
ザビア軍が見つめる中、白いドレスの女はゆっくりと弓を引き絞った。
そして、静かに矢を射る。
矢は、ザビア軍の中に落ちた。ザビア兵の中から悲鳴があがる。
ティアが──そう、それはティアーラだった──使っている弓は、エル・ザイドのもので、ザヒアで使われている弓よりも遠くに矢を飛ばせることができる。その分殺傷能力は劣るが、威嚇には十分だった。
ざわめきがザビア兵の中に広がる間にも、ティアは第二矢をつがえ、ザビア軍に向けて射た。
狙いもたがわず。その矢はザビアの将軍の元まで届いた。むろん、盾に阻まれ将軍には傷ひとつない。だが、衝撃がザビア軍に走る。
確かに城壁の上から射られたものだ。風にも乗ったのだろう。だが、それでもここまで届くものなのか。人の子の業とはとうてい思われなかった。
まこと、女神なのか。
ザビア軍が動揺したのを見越したように、ファーラル王子は攻撃を指示した。
射手たちが走って前に出ると、一斉に矢を射る。銀色の雨のようなその輝き。ザビア兵が盾を構える間もなく、矢の雨が降り注ぐ。さらに第二矢、第三矢が降り注いだ後、射手たちは騎馬隊にその場所を譲った。
戦闘は、一刻ほど続いた。浮き足立っていたザビア軍とでは、勝負はほぼはじめから決まっていたようなものだ。
ファーラル王子がザビアの将軍を討つと、それまでなんとか持ちこたえていたザビア軍も、雪崩をうったように逃走を始めた。ファーラル王子は深追いを禁じ、イル・イギルスに凱旋した。
「ファーラル王子!」
ティアーラが白いドレスを翻して駆けてくる。紅い髪がその白いドレスにどれほど映えていることか。本人は知らないだろう。
ファーラル王子は馬から降りると、胸の中に飛び込んできたティアーラを受け止めた。
「ティア! よくやった」
「わたし達、やったんだね」
ファーラル王子はうなずくと、ティアーラを抱き上げた。
そのふたりを、エルハンをはじめ、兵たちが取り囲み、ふたりの名を呼び続けた。
これが後世「イル・イギリスの戦い」と呼ばれる戦である。この後、ファーラル王子は援軍として現れたハフニ将軍の軍とともにザビア軍を完膚なきまでに叩きのめした。多くの将兵を失ったザビアは、しばらくの間エル・ザイドに攻めてこなかった。
数年後、ファーラル王子はティアーラを正式に后として娶った。王族などの養女となるのは、ふたりともよしとはしなかったため、ティアーラは軍人の娘として王子の下に嫁した。
その後、ファーラル王子の父である国王が崩御し、相次いで兄のジャーミルも嫡子を生さぬまま早世したため、第二王子であったファーラル王子が王位を継いだ。ここにエル・ザイド王国史上はじめての軍人の身分出身の王妃が誕生したのである。
ファーラル王とティアーラ妃はよく国を治めた。ふたりの間には三人の王子とふたりの王女が誕生し、全員がティアーラの紅い髪を受け継いでいた。
その髪の色は孫たちやひ孫たちにも受け継がれ、やがてその緋色の髪はエル・ザイド王家の象徴となっていったのだった。
終
この物語は、かつて久弓奈緒子名義で、友人のアンソロジー小説集に寄稿したものを、若干の加筆修正したものです。
当時のお題が「短編大河小説」でして、なかなかに苦労した覚えがあります。
「ノルカの宝剣」の世界ではなく、それまでに書いていた「エスヴィレアン戦記」の世界観を借りて書きました。
今回、久々に発掘したら、途中までリライトしたものが出てきましたので、そちらも完結させていつかお目にかけたいと思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。




