ソーベリックの人喰い鬼
ウィッチドン地方のカラカムにソーベリックという街がある。
古い羊毛の街だ。
俗に”ソーベリックの人喰い鬼”ヴェロニカの名を広めた街だ。
事件の発端は、大ヴィン帝国海軍元帥、スウィンバーン伯爵A・A・フレーザーの葬儀である。
元来、ヴィネア帝国において元帥は、名誉職であった。
すなわち名目上の貴族が就くだけで実務は、現場の軍人が果たすものだった。
しかしフレーザー元帥は、海軍の構造改革を遂げ、実際に戦場に赴いた。
これも王政復古に伴い軍と王権の繋がりが強められたためだ。
元帥は、部下の信望厚く、数々の戦争で武功を挙げた国家の英雄。
国民の人気も高い元帥の葬儀は、国葬が期待された。
ところが元帥の死から40時間後、急転直下の出来事が発生する。
「ひゃあっ。」
元帥の棺を開けた夫人が叫んだ。
そこにあるべき夫の遺体は、猫の死体と入れ替わっていた。
「あ…。
あいーッ!!」
夫人は、金切り声をあげて周囲を驚かせた。
それを見て夫人は、すべてを理解した。
彼女は、いっそここで狂い死にしたかったことだろう。
これから起こることを考えるだけで背筋が凍り付くのだから。
血統鑑定局と宿礼院は、長く激しい拷問の末、苦痛に泣き叫ぶ伯爵家の人々の口から証言を聞き出した。
翌日、3名の男女から国王に奏上が為された。
第一海軍卿、ミッドフォード公爵オリバー・ジャービス。
宿礼院先端精神治療中心長、アルジャーノン・ウェルズリー。
そして血統大臣、ゴセリン伯爵スノー・ル・ロンドン。
ミッドフォード公は、フレーザー元帥と特に親しかった。
海軍学校では、先輩と後輩。
そしてあやうく元帥と妹が結婚しそうになった人物である。
元帥の人間関係に詳しい彼は、調査協力に当たった。
針の筵だった。
”脳を鞭打つ者”ウェルズリーは、深部脳刺激療法の専門家。
だが国王に拷問の様子を説明する必要はない。
彼がここにいるのは、血統大臣の政治的配慮だ。
なんと彼の知識や技術など問題でなかった。
宿礼院の狩人にしては、連れて来ても支障ない常識人だったから選ばれた。
「フレーザーの正体は、化け猫です。
彼の息子たちがハッキリと証言しました。」
血統大臣の言葉に国王は、眉を動かした。
やや間をおいて年老いた王の隣に立った少年―――”王の口”が胸を反らせて言った。
「王の言葉を伝える。
ル・ロンドン卿、フレーザーの息子たちも全員、猫なのか?」
「御意に御座います、陛下。」
血統大臣は、オレンジの髪をした中年女で無感情に発した。
この間、ジャービスは、冷や冷やしていた。
自分にもとばっちりが来るかも知れない。
また彼にとって20年来の友が猫だったことが受け入れられないでいた。
ウェルズリーは、ずっと畏まって緊張しているようだった。
宿礼院の医師らしからぬ普通さである。
そんな二人を他所に血統大臣は、言った。
「血統鑑定局としては、スウィンバーン伯爵家の血統洗浄を放置していたこと。
まず陛下に対して深く謝罪を致さねばらぬことと考えております。」
といっても彼女は、名誉職に過ぎない。
血統鑑定局は、補佐官が実質的な指導者なのだ。
だからこそ彼女は、平然としていられる。
しばらく国王と”王の舌”は、二人だけでやり取りしている。
会話が済むと少年が胸を反らせた。
「……王の言葉を伝える。
ル・ロンドン卿、フレーザーの親族も全員、猫なのか?
どれほど化け猫が巣食っておるのか?」
と”王の口”が言った。
血統大臣は、冷たく答える。
「はい、いいえ、陛下。
本件は、もう我々の職務ではありません。
この件は、狩人の騎士団に一任することを提案いたします。」
またしばらく老人と少年がやり取りする。
かなり困った表情で”王の口”が言った。
「王の言葉を伝える。
ル・ロンドン卿、経緯を詳しく説明せよ。」
血統大臣は、全く王に対する敬いを感じない無礼な態度で答えた。
「はい、陛下。
猫は、ただ一人の妻を愛し、ただ一対の雌雄が子を為す類ではありません。
フレーザーが子を為さしめた相手は、四海のあちこちに及びましょう。
しかしそれら全てが斯かる一件の如く血統鑑定を偽装できるとは考えられません。
かなりの協力者が周囲にいなければ通らぬ話しでございます。
臣、思うにフレーザーは、人間にポンと一匹いた物ではなく人を装って生きる無数の化け猫の一匹か、と。」
※じんかん…人間の世界のこと。神仏の世界に対して俗世。
「冥府に落ちろ…。」
胸を悪くした”王の口”がつぶやいた。
彼は、青ざめた顔で王の方に顔を寄せる。
王は、彼に何か耳打ちし、少年は、王に何か話している。
何度かそのやり取りを繰り返し、再び少年が言った。
「……王の言葉を伝える。
血統大臣スノー・ル・ロンドン、どのような獣狩りを始めようというのか?」
「若く才能のある狩人を見つけました。
そのものに任せようと考えておりますが?」
「スノー…。」
”王の口”が不快そうに目を細めた。
身の毛が弥立つとは、このことだろう。
「…血に飢えた猟犬を放つなど、正気の沙汰ではないぞ。」
”王の口”の言葉に血統大臣は、微笑む。
「今、この瞬間にも野放しになった猫共が数を増やしているというのに。
それを看過なさるのは、聖君の道ではありません。
陛下の閨房に猫が忍び込み、猫を玉座に就ける手助けがしたいとお考えか?」
血統大臣以外の全員が堪らず顔を顰める。
やがて冷や汗を浮かべた”王の口”が言った。
「……大勢死ぬぞ。」
「銀の弾丸などありません。」
と血統大臣は、さらりと答えた。
「お前が選んだ狩人とて、そうだろう?」
「狩人とは、そういうものでしょう。」
この事態を面白がっているように見える。
血統大臣は、口の端を曲げて答えていた。
秋が始まる前、ウィッチドンに一人の少女が現れた。
齢の頃は、13歳ぐらい。
とても美しいが疲れ切った目をした娘だった。
彼女が立ち寄ったキャンベルタウンは、半日で廃村になった。
後には、猫の死骸が残された。
次に娘は、そこから南に移動したランデューに現れた。
彼女が立ち去った後は、泣き叫ぶ住民が残された。
みな、家族が化け猫と知った後もどうしようもない悲しみを振り払えなかった。
クロディックに娘が到着する頃、猫たちは、街を捨てていた。
秋の終わり。
街には、猫の夫や妻だった人間が吊るされ始めた。
辱められた死体は、切り刻まれ、狂った住民たちが石を投げた。
彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのだ。
そして、やがて冬が来た。
「速度を落とすな。
良い子だ。」
夜の乾いた風のような声で少女が言った。
粉雪を払いながら一台の馬車が猛スピードで走っていた。
少女は、馭者台に乗って二頭の馬車馬の様子を見ている。
吹き荒ぶ雪で前は、見えない。
だが馬車は、何の躊躇もなく全速力で駆けて行く。
馬車の周りには、護衛犬が併走していた。
白い息を吐き、懸命に馬車の速度に着いて来ている。
「……生きてるな?」
少女は、馬車の客室に振り返ってそう言った。
客室では、4人の男女がガタガタと寒さに震えている。
4人は、震えて手で体を擦り続けている。
祈るような眼で少女を見つめるが何も言わない。
「良い子だ…。」
少女は、寒さで凍える4人を確かめて、そう呟いた。
長い黒髪を結んだ少女は、体感-44℃の風の中で正面を睨む。
馬車は、速度をさらに上げ、狂ったように客室は、激震し始めた。
後に続く護衛犬たちは、限界を超え、泡を吹いている。
「………良い音だ。」
鼻歌を唄いながら少女は、アメジスト色の瞳を巡らせる。
彼女がヴェロニカ。
死が近づいて来ていた。
「キャインッ!」
まず右後方の護衛犬が鳴き声を挙げて居なくなった。
続けて左を走っていた護衛犬が姿を消す。
襲撃者の攻撃を合図にヴェロニカは、馬車から飛び降りた。
時速160㎞で走る狩人の馬車は、颯のようにヴェロニカから離れて行く。
だが秒速45mで走る馬車にヴェロニカは、2秒で追いついた。
狩人の歩み。
つまり狩人の踏み出しのことである。
獣狩りの狩人、独特の業だ。
しかし王室猟師ロイズ家の出身であるヴェロニカのそれは、さらに特別である。
一歩で50mを一跨ぎする。
ヴェロニカは、護衛犬と馬車を追い抜き、雪原を疾走する。
やがて獰猛な襲撃者がヴェロニカの前に躍り出た。
「良い子、良い子。」
超高速ですれ違った敵をヴェロニカの仕掛け武器が切断する。
斬り捨てられた襲撃者の死体は、あっという間に馬車の後方に消えていった!
仕掛け武器は、獣狩りの歴史が作り上げた。
様々な機構によって変形し、多くの状況に適応する。
ヴェロニカの仕掛け武器は、工房の記録にもない。
大小、幾つもの棘や刃を持つ武器で強いて言えば昆虫の肢に似ている。
実際、それは、生きているかのように運動した。
「キャインッ!」
ヴェロニカが襲撃者を撃退する間にも護衛犬は、数を減らしていく。
ついに最初の攻撃が馬車に届いた。
「いやあああっ!!」
馬車から女の悲鳴が聞こえた。
ヴェロニカが振り返ると敵が馬車に取り付いている。
すぐにヴェロニカは、速度を落とし、馬車に近づくと敵を振り下ろした。
敵を馬車から引き離すとヴェロニカは、窓を覗き込んだ。
「いいか、おまえら!
いざとなったら死ねッ!!」
ヴェロニカは、客室の4人に怒鳴った。
震える4人は、事前に配られていた短銃を握りしめた。
一度、ヴェロニカも馬車に掴まって休憩する。
真っ白な息がまだ幼さを残す彼女の顔を包む。
ヴェロニカが振り向くと襲撃者たちが追って来ていた。
死臭を撒き散らし、腐乱した死体が走ってくる。
ンザンビー。
あるいは、ゾンビである。
それが元は、人間であれ、他の動物であれ。
ンザンビーは、馬車に追走している。
恐るべき身体能力だ。
一息ついたヴェロニカは、再び馬車を離れる。
客室の4人は、祈る目で彼女を見守った。
死の世界で彼らを守ってくれるのは、ヴェロニカだけだ。
数万年前。
オリオン座から地球にやって来たグ・リュ=ヴォの上位者。
しかし彼らの末裔は、人間に地上の支配権を奪われて久しい。
それでも日向で微睡む猫たちは、いまだ自分たちが毛のない猿の主人であった記憶を残している。
彼らの王国は、1日の大半を過ごす夢の世界にある。
それが彼らを衰退の一途に追いやった夢幻郷だ。
そこは、あらゆる欲望が実現される。
グ・リュ=ヴォの上位者は、夢幻郷に至る技術を封じた。
そして夢に毒されていない子供たちを地球に運んだのだ。
しかし結局、彼らも親星と同じく夢に埋もれ、滅びの道を歩んだのである。
だがいずれ人類もそこに至る階段を見つけ、滅ぶだろう。
そう狂った詩人ニルラゾヘヴは、予言した。
だが《知恵ある猫》は、別格の存在である。
彼らは、健全な精神を保ち、先祖の有用な知識の幾らかを継承していた。
彼らが使役する屍喰鬼。
あるいは、ンザンビーとして知られる人間を変質させた怪物。
これらは、かつて猫たちの奴隷であった。
ンザンビーは、保存された人間をグ・リュ=ヴォの上位者の食卓に饗する役目を与えられた。
この習慣が後に埋葬やミイラ技術として人間に誤って継承された。
また屍喰鬼は、人間の死体を食べるという迷信が産まれたのだ。
だが《知恵ある猫》も先祖の1億分の1の偉大さも受け継いではいない。
盛時には、ンザンビーもこれほど醜くなかったのである。
大ヴィン帝国が《知恵ある猫》との戦争に乗り出して約半年。
ウィッチドン地方のあちこちをヴェロニカは、転戦した。
彼女一人で数万という猫が狩られた。
しかし”猫に害為す者に災いあれ”である。
警句は、眉唾物の伝説ではなかった。
墓場から起き上がる死体。
降り注ぐ雪と雷。
さまざまな災害は、《知恵ある猫》の魔法による報復だ。
だがヴィネア首脳部も馬鹿ではない。
彼らが世界帝国として版図を広げ、7世紀。
怪異との戦いは、これが初めてのことではなかった。
あるいは、痛みに麻痺しているのかも知れない。
多くの国民の死を無視して彼らは、怪異との戦争を開いた。
馬車は、ついにソーベリックに辿り着いた。
真っ白な雪の中、その街は、山のように聳え立っている。
「……これからもっと面白くなる。」
街を一瞥してヴェロニカは、不敵に微笑んだ。
次第に馬車の速度が落ちる。
ヴェロニカは、馬車から飛び降りた。
「降りろ。」
彼女が声をかけると客室から4人の男女が降りてくる。
「か、狩人様……。」
寒さに震えながら一人の女が言った。
これから何が始まるのか分からず、困惑している。
ヴェロニカは、不気味なほど優しい笑顔を作った。
「この街の猫共を狩り尽くしたら終わりさ。
さあ、行こう。」
雪を蹴って5人は、ソーベリックに入っていく。
剣の森のように並んだ尖塔が空に突き刺さっていた。
ハラハラと振る雪が、その間を吹き抜けて来る。
「カラカムにこんな大きな街、あったかな?」
巨大なバラ窓を持つ塔を見上げて青年が言った。
そこには、古代の猫たちが信仰した怪物の姿、神話の一場面が描かれている。
猫が真っ赤な血を口から垂らした様子は、気味が悪い。
猫と人間では、物の見え方が違うといったところか。
「いや……。」
「なんなの、これ……。」
女たちは、凄惨なステンドグラスの画図に眉をひそめた。
ヴェロニカは、連れてきた4人を無視して扉の解錠に取り掛かる。
上着から道具を取り出し、鍵穴に差し入れた。
幾ら狩人でも、この寒さは、細かい作業に差し障る。
指が悴んで思うように外れない。
それにヴェロニカは、この手の作業が得意ではなかった。
「……ったく。
イライラする。」
雪と寒さに邪魔されながらヴェロニカは、ようやく鍵を開けた。
「さあ、こっちに!」
ヴェロニカは、他の4人を呼んだ。
4人は、小走りでやってきて扉から建物に入った。
彼女が連れているのは、ここに来るまでに偶然、助けた一般人だ。
狩人ではない。
キーラ、アイネ、ギネス。
この女3人は、娼婦。
男は、ニアールという。
ちょうど居合わせた客の一人だ。
「ふああ…っ!」
寒さに凍える4人は、暖炉を見つけて真っ先に走り寄った。
真っ赤な火の前に4人は、座り込む。
ここは、大聖堂のような天井の高い建物の広間だった。
灯かりがなく暗い上に、壁も床も家具も黒一色。
ただ暖炉の火だけが燃えていた。
「ここから動きたくない。」
キーラが手を擦りながら言った。
アイネとギネスも歯をガチガチ鳴らして頷く。
「それで良い。
大人しくしていろ。」
ヴェロニカは、そういった。
彼女は、一人、闇の中に歩を進める。
「行っちゃうのっ!?」
キーラが慌ててヴェロニカを引き留める。
だが彼女の役割は、獣狩りだ。
偶然助けた一般人の保護ではない。
「獣除けの香を使え。
ここまでと同じように。」
それだけ言ってヴェロニカは、ふっと居なくなる。
闇の中に4人の一般人だけが残された。
「……おなかすいたね。」
アイネが泣き言をいう。
「寒いよぉ…。」
ギネスも必死に体を手で擦りながら言う。
「……食べるもの欲しいよ。」
アイネが言った。
「…何にもないんだから我慢しなって…。」
首を動かしてギネスは、暗闇の奥を見ながら言った。
今にもそこにンザンビーが現れそうだと思った。
「私らが食われるかも知れないんだから…。」
「あの棚の中に何かあるかも。」
ニアールは、そう言って立ち上がる。
彼は、真っ暗な闇の中に黒光りする家具に近づいて行った。
濡れたように光る家具は、知られざる大陸から持ち帰られた木で作られている。
その一つ一つに《知恵ある猫》に仕えるンザンビーの職人たちの技が込められていた。
ニアールは、手近なものを一つ取って暖炉まで戻ってくる。
一先ず、松明を作って灯かりを確保した。
灯かりで見つかるかもしれない。
しかし獣除けの香の効き目があれば獣は、4人に近づくことはない。
いずれにしても獣は、鼻が利く。
灯かりを使わなくても見つかる時は、見つかってしまうだろう。
やがてニアールから火を貰って3人の女たちも部屋を探す。
だが棚や化粧台の中に食べられそうなものはない。
調べ飽きた4人は、意気消沈して暖炉の前に戻った。
「この部屋は、何なんだろう…?」
ニアールが言った。
だが誰も質問に答えなかった。
「……狩人様、早く帰って来てくれないかな。」
アイネは、暖炉の火を見ながらそういった。
暖炉は、どこからかガスが供給されているらしい。
火の勢いは、一向に変わることなく安定している。
「獣除けの香、大丈夫かな?」
キーラが部屋の中央に置かれた小壺を気にしながら言った。
か細い煙が蓋の隙間から立ち昇り、途切れる事無く続いている。
「……あれで3日は持つはずだって。」
ニーアが言った。
もっともそんなことは、全員知っている。
「……3日って言っても獣狩りの間は、時間がおかしくなってるし……。」
ギネスは、そう言って眼鏡を指で押し上げる。
湾色の瞳が、じっと煙を見ていた。
それから4人は、相変わらず益体のない会話を続けた。
他にすることがないからだ。
時折、窓を叩く風や獣の遠吠えに驚きながら4人は、ヴェロニカを待った。
やがてアイネが疲れて寝入ってしまう。
疲労の限界だったのだろう。
それを皮切りに他の3人も眠りに就いた。
何時間経ったろう。
最初に目を覚ましたのは、キーラだった。
「うん…………。」
目を覚ました彼女は、真っ先に獣除けの香を見に行った。
暖炉から火を取り、灯かりを作ると部屋の中央に向かう。
煙は、変わることなく立ち昇っている。
香の隣には、懐中時計が置いてあった。
キーラは、蓋を開けると香料を継ぎ足した。
獣除けの香は、獣狩りの長い歴史の成果の一つである。
数ある狩り道具の中で一般に出回っている唯一の品でもあった。
その名の示すように獣を遠ざける効果がある。
時には、獣と化した人間を暴く手段ともなる。
その製法は、血腥い秘密の場所に隠されている。
作り方も作られている様子も誰も知らない。
その材料は、人間の骨や内臓を粉末にした物だと噂されていた。
墓荒らしたちが掘り返した哀れな死者が切り刻まれ、この香になるのだ。
あくまで噂だったが。
「……?」
香を継ぎ足したキーラが振り返ると、すぐに違和感を覚えた。
暖炉の前で寝ている人数が減っている。
アイネがいる。
ギネスがいる。
居なくなったのは、ニアールだ。
キーラは、不思議に感じたが騒ぎだしたりしなかった。
トイレに行ったのかもしれない。
外に出る扉は、最初に入って来た場所にある。
絵硝子なので外の様子は、分からない。
ただ風の音と冷気だけが部屋に忍び込んでいた。
そこから数分経っただろうか。
10分以上立っただろうか。
ニアールは、戻って来ない。
しばらくするとギネスも目を覚ました。
彼女は、眼鏡を取ってかける。
「キーラ、ニアールは?」
起きてすぐニアールがいないことに気付いたギネスがキーラに訊ねた。
キーラは、首を横に振る。
「さあ。
私もどこに行ったのか分からない。」
「あんたより先に起きてたの?」
「ううん。
香を継ぎ足してる間にいなくなったみたい。
私が起きた時には、確かにそこで寝てたのさ。」
そんなことを話していてもニアールは、帰ってくる様子もない。
仕方なくキーラとギネスは、扉の方に向かう。
恐る恐る扉を開けると外は、まだ雪が降り続けている。
容赦なく風と粉雪が屋内に飛び込んできた。
「うわっ!」
「ひいっ!」
寒さに震えながら二人は、外を見る。
外は、真っ白な世界がどこまでも続き、張り詰めた冷気があるだけだ。
「ニアール!」
キーラは、声を張ってニアールを探した。
別に知り合いでも何でもないが知らんぷりもできない。
「ニアール!!」
ギネスも外を探した。
しかし何の返事もない。
「これだけ探したんだ。
もう、良いんじゃない?」
ギネスがキーラに声をかける。
雪でベタベタになった二人は、大急ぎで暖炉に戻った。
アイネは、相変わらずよく寝ている。
そういう女だった。
「まあ、良く寝るねえ、こいつ。」
キーラは、そう言って暖炉の前に座る。
ギネスも火の前に手をかざして答える。
「食べる物もないし。
じっとしてるがいいさ。」
それだけ言ってギネスも横になった。
「あんたも寝るのかい?」
キーラは、苦笑いする。
目をつぶったままギネスが答えた。
「こういう時は、起きてても目をつぶるもんさね。」
仕方ないのでキーラも横になる。
起きていてもどうすることもできない。
どれぐらい時間が経ったか。
暖炉の傍にヴェロニカが戻って来ていた。
キーラは、目を擦って上半身を起こした。
すっかり髪も体も汗でベタついている。
「……。」
臭い。
キーラは、確かめた自分の臭いにウンザリした。
「ねえ、狩人様。
………ニアールがいなくなったんだけど。」
恐る恐るキーラは、訊ねてみる。
狩人は、獣から人々を守る仕事だ。
だが狩人は、ときどき理由もなく人を殺す。
人を殺すことを楽しんでいる。
だから狩人を人々は、敬い、そして恐れた。
「そうみたいだな。」
ヴェロニカは、暖炉の火を見つめて背中越しに言った。
キーラは、ホッとした。
何が気に触って狩人に殺されるか分からない。
獣狩りの狩人は、獣となった人を狩る。
だから狩人が街を訪れたら外に出てはいけない。
そう教え込まれてきた。
もっとも普通の子は、親から教わる。
しかし娼婦になるような娘の親は、ろくなもんじゃない。
だからキーラは、娼館の主からそう教えられた。
最初、店から逃げようとする女を怖がらせる作り話と思った子もいる。
しかしどういう訳か狩人は、絶対に夜の街に出た者を逃がさない。
キーラは、ヴェロニカと出会ってそれが何故だか分かった。
狩人には、獲物を追跡する嗅覚のようなものがあるらしい。
人の動き、人の息遣い、手に取るように分かるのだ。
「ニアールは、どこへ行ったんでしょう。」
「形跡を辿れぬとあれば、獣の腹の中さ。
ふふっ。」
ヴェロニカは、そう言って鼻で笑った。
キーラは、ゾッとした。
(何がおかしいの?)
「化け猫どもは、良く寝ている。
この街は、猫共の塒だ。
獣除けの香の傍から離れないことだ。」
そう言ってヴェロニカは、立ち上がった。
彼女は、返り血で汚れたコートを翻し、部屋を出ていく。
「な、何か食べるものが欲しい!」
キーラは、堪らずそう言った。
もう狩人に殺されても仕方ない。
空腹の限界だった。
「狩人様っ!
もう限界です!!」
「あまり騒ぐな。
味が落ちる。」
と言ったが早いか。
ヴェロニカは、風のようにキーラの背に回り込む。
そして白い喉を掻き切って血を啜った。
「あ………あっ。」
不思議と苦痛はなかった。
キーラは、自分に何が起こっているのかしばらく理解できなかった。
ゆっくりと目の前が色を失っていく。
どれほどの時間が経っただろう?
3日だろうか。
それとも一ヶ月だろうか。
キーラが血を吸われた時間は、どれほどだったのだろう。
これは、キーラの感覚がおかしくなってしまったのか。
あるいは、獣の作り出す悪夢がそうさせたのか。
長い。
とにかく長い時間が過ぎた。
それでもヴェロニカは、恐ろしい辛抱強さでキーラの血を啜り続けた。
白い娼婦の喉に噛みつき、両手で彼女の上半身を支えていた。
美しい乳丘をヴェロニカの汚れた手が圧し潰している。
狩人の鼻息がかかるのを娼婦は、感じ取れた。
それは、確かに膨大な時間が過ぎている証拠ではないか。
「ああっ。」
脳の中に真っ白な冷たい液体が広がるような感覚がキーラを襲った。
法悦を大きく超えた陶酔だった。
彼女は、阿片を用いた客との性交でもこんな感覚を得たことはなかった。
古代の哲学者たちが語る魂が宇宙に飛び出す体験。
秘薬によって齎される人体の通常の量を超えた快感だった。
ヴェロニカは、キーラを激しく抱き留めた。
最後の血の一滴まで。
生命のすべてを吸い上げるように。
あと少し。
あとほんの少し。
そうキーラは、願い続けた。
この悍ましい時間よ。
あと少し永らえさせ給え。
しかし涯は、唐突に訪れた。
生命が尽き、キーラの知覚は、薄れた。
役目を終えたキーラをヴェロニカは、捨て去った。
後に残ったのは、快楽を絞り尽くされた娼婦の死体だけだった。
ヴェロニカは、死体を運び去った。
アイネとギネスが目を覚ますとキーラが居なくなっていた。
「………どこ行ったのかねえ。」
「大人しくしてなきゃ。
狩人様に怒られたら殺されちまうよ。」
と二人は、話し合った。
それからどれほどの時間が経ったか。
この広間に客がやって来た。
招かれざる客だ。
最初、アイネとギネスは、ヴェロニカだと思った。
しかし入って来たのは、犬だった。
普通の犬ではない。
《知恵ある猫》が秘術で作り出した番犬である。
「ひゃあああ!!」
アイネが叫んだ。
ギネスも飛び上がった。
獣除けの香が薫き染められていると思われた部屋は、香気が薄れていた。
女たちが香を足すのを忘れたからだ。
「いやあっ!」
どちらか。
その一瞬をギネスは、過たなかった。
素早くアイネを突き飛ばしたのだ。
犬は、アイネに飛びかかった。
「い、いや!
ぎゃあああっ!!」
聞くに堪えない肉の砕ける音がした。
絶望に落されたアイネの悲鳴は、しばらく続いていた。
だがギネスは、彼女のことなど構わず広間を飛び出した。
しかしそれは、さらなる地獄への道筋だった。
ヴェロニカが警告したようにソーベリックの街路は、犬が闊歩していた。
《知恵ある猫》の街。
悪夢の次元にあるソーベリックの真実の姿は、雪吹き荒れる地だ。
真っ黒な岩山のような尖った美しい塔たちは、白い雪化粧を施されていた。
その巨大な塔の下で猫の下僕である犬たちが侵入者を探しているのだ。
彼らは、娼婦の臭いを嗅ぎ取って青蠅のように集まって来た。
「ひ、ひい!」
ギネスは、懸命に雪を蹴って走った。
本来なら犬たちは、人間の足など容易く追いつく。
だが賢い彼らは、これが罠だと疑った。
だから犬たちは、横一列に並び慎重にギネスを追った。
しばらくして犬たちは、これが自分たちの探す狩人ではないと勘付いた。
だが狩人が姿を見せるまで敢えて余力を蓄えたままにしておいた。
しかし愚かな一頭は、功を焦ったか。
いきなり列を離れてギネスに飛びかかった。
まさにそれを見越したように黒い狩人は、舞い降りた。
尖塔の窓から飛び立ち、烏のように飛び来て犬の首を刎ねたのだ。
真っ白な雪に血飛沫が広がる。
それを合図に戦闘が始まった。
真っ黒な犬の群れがヴェロニカに飛びかかってくる。
銃声と犬の鳴き声だけが飛び交った。
どこかで《知恵ある猫》たちは、このことを見ているだろう。
いや、ヴェロニカは知っている。
もはや《知恵ある猫》の後退は、想像以上に深刻だ。
きっと侵入者のことなど気付いていない。
犬たちに全てを任せ、夢の世界に耽っている。
きっと自分が見つけて殺しに来るまで寝ているだろう。
彼らは、このソーベリックの外に関心がないのだ。
人間が巨大な文明を築いていることも知らないだろう。
だから一匹の猫は、現実から目を背けた同胞に失望し、雪の街を出てA・A・フレーザーを名乗ったのだ。
「はあ、はあ、はあ………。」
戦闘が済んだ。
血だらけのヴェロニカだが、そのすべては、返り血ではない。
「………血が………。」
飢えたヴェロニカは、ギネスを探した。
手持ちの輸血液がない。
獣狩りのために作られたどんな傷も治す血薬だ。
度重なる戦闘で底を突いていた。
鼻を利かせる。
そんなに遠くではない。
ヴェロニカは、すーっと雪の上を走った。
狩人の足に人間が逃げ切れるものではない。
すぐにヴェロニカは、ギネスを見つけた。
予定より1人減っている。
まだ《知恵ある猫》どもが隠れている場所に目星がついていない。
これが最後のチャンスになってしまった。
こいつを喰らって最後の探索に出る。
そんなことを考えながらヴェロニカは、ギネスに近づいた。
「怪我はない?」
ヴェロニカは、乾いた声でそう訊ねた。
ギネスは、小さく頷く。
「はーっ、ふーっ。
はーっ、ふーっ。」
ヴェロニカは、大きく胸を上下させた。
これから口にする血を思って胸が高まって来た。
雪の上に座り込んだギネスをヴェロニカは、静かに押し倒す。
そして首筋に歯を立てた。
「いっ。」
ギネスの身体が、びくりと飛び上がった。
だがヴェロニカに抑えつけられ、なすがまま血を奪われる。
よく錬られている。
3人の中で一番、血の質が良い。
ヴェロニカは、ギネスの血の甘さに目を細めた。
娼婦は、例外なく薬物を与えられているものだ。
それが彼女たちの中で輸血液に近い働きを作り出すことがある。
絹のような喉越し。
万金を積んだ美酒さえ血には敵わない。
ヴェロニカが血に酔っている間、ギネスは、空を見上げていた。
灰色の空から雪は、終わり無く降ってくる。
ギネスは、はじめて客を取ったことを思い出していた。
それから繰り返し愛を囁かれ、二度と会わぬ客たち。
そこに悪意があると分かっていても逆らえないのが自分たちだ。
今も狩人が何の目的もなく自分たちを保護する訳がないと分かっていた。
そしてお決まりのように牙を剥いて襲ってくる。
「ふふ。」
ギネスは、笑った。
それは、少女のような明るい笑みだった。
死のう。
馬鹿な自分は、死んだ方が良い。
恋人とのはじめてを思い出した。
胸をときめかせて美しく自分を飾り立てたこと。
そして彼が去っていったこと。
恋人の男友達が大勢、待ち構えていたこと。
そして代わる代わる弄ばれたこと。
死んだ方が良い。
もう死んだ方が良い。
死ねばもう傷つくことはない。
けれど。
傷つく方が気持ちが良いのだとギネスは、分かった。
もう気持ち良いことがないなんて。
だからギネスは、ヴェロニカを引き離した。
「ひ、ぎ………あああッ!!」
首から血が出ている。
ギネスは、傷を抑えた。
ヴェロニカは、起こり得ないことに驚いた。
ただの人間が狩人の力を振りほどくなど。
「あああっ!」
ギネスは、ヴェロニカの首に噛みついた。
吸われた分の血を取り戻せるとか、そんな考えはなかった。
飢えだ。
血への飢えが彼女をそうさせた。
だいたい吸うなら男の血が良かった。
「ぷあっ。」
口を離すとギネスは、走った。
一歩歩むごとに常人を離れるのが体感できた。
やがて狩人の足でギネスは、走り始めた。
誰に学ぶことなく狩人は、狩人になるのだ。
残されたヴェロニカは、体を起こした。
首の傷から血が出ている。
「ばかな。」
今も何が起きたのか分からない。
ヴェロニカは、ぽかんとギネスが逃げた方向を睨んでいた。
だが血が足りぬでは、狩りにならぬ。
他に相手を探さねば。
馬鹿な連中が猫と戦争を始めるから血が足らぬのだ。
こんな馬鹿げたことで死んでなるものか。
ヴェロニカは、一度、ソーベリックを離れる事とした。
新しく血の源を探して戻るために。
ウィッチドン地方のカラカムにソーベリックという街がある。
古い羊毛の街だ。
このソーベリックからやって来て人を攫い喰らう狩人がいた。
ソーベリックの獣狩りを完遂させるために。
人々は、彼女を”ソーベリックの人喰い”と恐れた。
余談であるが7代目スウィンバーン伯爵A・A・フレーザーは、先祖の美しい記憶を顧みて”猫の船乗り”という童話を執筆している。