魔王の帰還、しかし……
アッサムは目覚めた。起き抜けに見た天井は、記憶にあるいつものそれではなかった。見慣れた天井は、もっと近い。起き上がって見た景色も、慣れ親しんだ自宅ではなかった。ぼんやりと、昨晩の出来事が蘇ってくる。
――そうか、僕、負けちゃったんだ。
幼馴染との対戦成績の負け数を増やしてしまった。本物の剣士は、やはり強かった。剣士でない者が、剣士相手に戦って勝てるなど、普通に考えればありえない。それでも、悔しいものは悔しい。
途中で気を失ってしまった彼は知らない。ウバーは気絶すらしなかったものの、体力の限界まで振り絞って戦った末の勝敗であったことを。剣士として旅をしたウバーと遜色ないくらいに、アッサムもまた大きく成長していたのだ。
回想を終わらせたのは、鼻腔をくすぐる良い匂いだった。香ばしいパン、焼いたベーコンに卵。次に、腹の虫が盛大に声を上げた。森から帰って早々、気絶してしまったアッサムは、昨日の夕方から何も口にしていない。
音に気付いた家主が、笑顔を向けてくる。
「おはよう、アッサム。よく寝てたなあ。朝飯できてるから、食ってけ」
「か、カーネルさん! な、なんで」
「ウバーにしこたまやられて気絶してたから、そのままウチで寝かせてたんだ。たっぷり寝て腹減っただろ? 俺の料理じゃ味はそれなりだが、食えんことは無い。遠慮しないで食ってけ」
カーネルに促されてテーブルに向かうと、先ほど鼻の奥で捉えたメニューがたっぷり並んでいた。加えて、ジャムにミルク、いろんな種類の果物をカットした盛り皿も用意されている。
「うわあ……美味しそう」
また腹の虫が暴れた。恥ずかしさで顔が熱くなる。
「ははは。腹が減るのは元気な証拠だ。顔洗って、早く食え」
「はい」
外の井戸で顔を洗って、口をゆすいでから、テーブルの席に着いた。カーネルがパンを一口齧ったのを確認し、アッサムも食事に手を付けた。
普段はご近所からいただいた野菜や、買った肉や、卵を使って自炊している。ウバーやダジリンの両親に誘われて、食事をご馳走になることもあったが、基本的には自分の世話は自分でしている。それが、父との約束を守ることにも繋がると思ったからだ。こうやって、誰かと一緒に食事を摂るのは久しぶりだ。しかも、いつも自分で用意するのは、パンに野菜やハムを挟んだだけの簡単なもの。こんなに種類豊富な朝食は、もっと久しぶりだった。
カーネルは「俺はもう歳だからそんなに食えない。あとはお前が食ってくれ」と言って、自分ではほとんど食べずに、アッサムに勧めてくれた。憧れの村長からの気遣いに感謝し、おいしい手料理をありがたくいただいた。あたたかい食事と想いで、アッサムのお腹は満たされた。
食事が終わってから程なくして、ウバーとダジリンが訪ねてきた。二人ともローブ姿で、バッチリ旅支度した状態だった。
「おはよう、アッサム。疲れは取れたか?」
「アッサム、あたしたちは準備できてるけど、アッサムはこれからよね? ここで待ってるから、支度してきなよ」
二人の心遣いを受け取り、アッサムは急いで自宅に戻って出かける準備をした。身体を拭き、下着を取り換え、戦いやすい恰好に着替える。鉄の剣を腰に差し、三年前に貰ったカーネルのタオルをバンダナにする。
今日は、魔王が宣言した三日目。彼女は、自分が戻って来なかったら、死んだものと思えと言った。もし泉に彼女が現れなければ、試練の対象の魔物がこの世に存在しないことになり、アッサムのチュートリアルは討伐対象を変えてやり直しになる。アッサムにとっては、そっちの方が確実だし、願っても無いこと。
……そのはずなのに、それを拒否する自分がいる。魔王を屠れる武器やアイテムまで使ってまで倒そうと画策したのは、他でもない自分だというのに。魔王本人に魔王の弱点を訊くという愚昧な行動まで起こしたというのに。
引き出しを開け、父の形見のペンダントを手に取る。数秒思い悩んだ末、そのペンダントを首にかけた。父から手渡されてから、それを身に付けるのは初めてだった。万が一にも戦闘中に紛失したり、壊れてしまったりしたら、一生後悔する思ったからだ。それでも、この日はなぜかそれを持っていたいと思った。
自分の中でせめぎ合う様々な感情を深呼吸で吐き出し、アッサムは幼馴染たちの待つ村長宅へ舞い戻った。
アッサムを先頭に、ウバーたち二人が距離を空けずについてくる。朝とはいえ、木々が並び、葉がほとんど隙間なく空を覆う森の中は、ほの暗くて不気味だ。
「この森は庭と言えるくらいに知り尽くしていると思っていたのに、そんな泉があったとは知らなかった。知ったつもりになっていただけだったんだな」
「綺麗な泉なら、あたし、お水飲んでみようかな」
「綺麗でも、生水は止めておいた方がいいんじゃないか……」
後ろからそんな会話が聞こえてくる。自然と魔物の音しか聞こえない毎日とは違う、仲間と一緒の朝。しばらく進むと、森の奥が薄い靄で包まれていた。
「目の前が見えないほどじゃないが、はぐれたら厄介だ。二人とも、なるべくくっついて歩こう」
ウバーの助言に従い、半歩分の間隔で並ぶように歩を進めた。先頭のアッサムは、二人を置き去りにしないよう、少しペースを落として歩いた。二人もこの森は良く知っているとはいえ、歩くのは二年ぶりなのだから。
ゆっくり、ゆっくり進んでいく。泉は、もうすぐだ。森の奥は、靄が濃くなっていた。本当なら、このまま進むのは危ない。しかし、立ち止まって、方向を見失うのも危ない。泉を目指すのが良策だ。
「二人とも、もうすぐだ」
「分かった」
「ちゃんと後ろにいるから、大丈夫よ」
はぐれた者はいない。同じペースで進む。それから三分ほど経過したとき、濃かった靄が嘘のように一気に消え去り、唐突に泉が目の前に現れた。
その傍に、魔王はいた。全身に傷を負い、血を流し、うつ伏せに横たわった姿で。
「お、おい!」
アッサムが駆け寄って、状態を確認する。……まだ息がある。仰向けにして上半身を抱き上げると、美しい顔に切り傷や打撲痕があった。デコピンひとつで三年もアッサムを退けた、常識外れの強さの彼女が、ここまで追いつめられるなんて。
「おい、しっかりしろ!」
頬を軽く叩くと、彼女は呻きながら目を開けた。
「あら……久しぶり、ね」
息も絶え絶えの彼女の全身に刻まれた傷は、傍から見ても致命傷だ。このまま放っておいたら、命はない。
「アタシを……殺すなら……今しか、ない、わよ」
「ふざけんな!」
苦しみの中で儚げに微笑む彼女に、これ以上の傷を負わせる気など起こるはずもない。瀕死の相手に止めを刺して勝っても、父が最期に言った"強く生きる"ことになどならない。
「ダジリン! 回復してやってくれ!」
振り返った先に、ダジリンはいなかった。ウバーも。一緒に行動していたはずなのに、二人はどこにもいなかった。
「どうなってるんだ……」
「当然、よ。ここは、アタシの、作った、異次げ……」
そこで彼女の言葉が切れた。力が抜け、彼女のさして重くない全体重がアッサムにかかる。
「おい! しっかりしろ!」
口元に耳を当てると、弱々しいが呼吸音がする。今なら、まだ助けられる。アッサムは彼女を背負い、元来た道へと走り出した。あれだけ濃かった靄は、すっかり晴れていた。
「あ、アッサム! ウバー、アッサムがいたよ!」
少し先に、ダジリンの姿が見えた。近くの木から、ウバーも現れた。
「アッサム! いったいどこに行っていたんだ! 急に消えて、探してたんだ」
「二人とも、ごめん! でも、今はそれどころじゃないんだ!」
ダジリンの傍で立ち止まり、少し息を整えたあと、頭を下げた。
「ダジリン、こいつを治療してやってくれ!」
「え……? この人、だれ?」
「魔王……」
「ま、魔王!? この女の人が?」
一見すると、美しい少女。アッサムでさえ、まさか魔王が彼女のような美しい少女だとは思いもしなかった。魔王だと信じられたのは、二本の角の存在だった。ダジリンも、それを見て、アッサムが嘘を言っていないことを確信した。
「か、回復して、いいのかな」
「仮にも魔王だろう!? 今なら倒せるのに、この機をみすみす逃してどうするんだ!」
ウバーは剣を抜いた。背負った彼女に、延いては自分に向けられた切っ先を見ても、アッサムの決意は変わらなかった。ウバーの言うことは正論で、アッサムも同意見だ。さんざんしがみついてきた試練だって、ようやく終わらせることができる。それなのに、見捨てられなかった。アッサムの中の何かが、彼女をこのまま失うことを拒否していた。
「それなら、村に連れてって、カーネルさんに判断してもらう。それなら、いいだろ」
今にも泣きだしそうな顔で懇願するアッサムを前に、幼馴染の二人はこれ以上何も言えなかった。