決断
アッサムはしばらくの間、口を開けてぽかんとしていた。夢かと思えるような出来頃だったが、前髪から滴る水滴が夢ではないことを証明している。
「魔王……って、言ったよね……」
静けさを取り戻した森に、風景画に誤って垂らした絵具のような異端な存在のずぶ濡れ少年がつぶやく。
事実を口にすると、だんだんと状況の整理ができていく。自分は、チュートリアルに挑戦している。チュートリアルをクリアしないと、剣士になれない。チュートリアルのルールは、初めて出会った魔物、正確には出会った魔物と同じ種類の敵を倒すこと。自分は、魔王に出会った。
論理学を持ち出すまでもなく、導かれる結論はひとつ。
「ま……魔王を倒さないと、剣士になれないのぉぉぉぉぉ!?」
「アッサム、どうした!」
アッサムの絶叫を聞いたカーネルが慌てて駆けつけてきた。へたり込む少年を抱きかかえて、負傷していないか急いで様子を見る。
「怪我はなさそうだな。しかし、こんなに濡れて、一体どうしたんだ」
カーネルと目が合っても、あうあうと声にならない喘ぎをもらすばかりで、会話にならない。
「もしや、精神攻撃を受けたのか!」
勘違いが加速する。会話もジェスチャーも頼りにならない状況下では、コミュニケーションが全くできずに、それぞれの思い込みがねじれの位置に流れていく。カーネルはアッサムの小さな身体を抱え、大急ぎで村へと走った。水でずぶ濡れになったお陰で、失禁という辱めを受けた事実はばれずに済み、尿と一緒に過去に流せたのが不幸中の幸いだった。
村に帰ったカーネルは、大急ぎで村の占いオババの家に向かった。占いオババは、その名の通り占いを稼業としているが、薬草や医療の知識も豊富に有していた。彼女に見せれば、アッサムを助けられると信じ、彼女を頼ったのだった。
実際には心身とも何の傷も負っていない(失禁による精神的ダメージは除く)のだが、カーネルはそんなことは露知らず、当のアッサムも未だに焦点の定まらない状態で心ここにあらずの状態なので、勘違いをした村長を責めることはできない。
「オババ、いるか!」
「なんじゃ、騒々しい」
「よかった、いてくれたか! 今すぐアッサムを診てやってくれ! チュートリアル中に敵にやられたようなんだ!」
「……みせてみぃ」
椅子に座らせたアッサムの顎を上げたり、涙袋を引っ張ったり、訝しげに顔をいじくりまわしていたが、ふん、と唸って、頭をぽかりと叩いた。
「いたっ! 何だよ!」
「ほれ、治ったぞ。騒がしいから帰んな」
「お、オババ。アッサムはいったい、どういう状態だったんだ」
「白昼夢でも見ていたんだろうさ」
「そ……そんなことをする敵が現れたのか!」
「そんなわけあるか、阿呆。いいから、とっとと出ていきな」
はたきでポカポカ叩かれながら、二人揃ってオババの家から追い出されてしまったのだった。
オババの一発で正気になったアッサムは、ようやくカーネルとまともな会話ができるようになり、丸太に腰かけて事の顛末を伝えた。話が進むにつれ、カーネルの表情が深刻そうなものになっていった。
「その少女は、自分は魔王だと言ったのか……?」
「はい。間違いなく言いました」
「そうか……」
12年の時間を同じ村で過ごしてきて、このような重々しい空気に置かれるのは初めてだった。その空気が、どんな困難にも決して物怖じしない村長からもたらされていることが、余計に不安を煽った。
そこへ、よく見知った顔がふたつやってきた。
「アッサム!」
「怪我したの、だいじょうぶ?」
ウバーとダジリンが傍に立って、幼馴染の腕や頭を触って怪我がないか確かめてくる。
「なんともないよ。ふたりは、無事に終わったの?」
主語はあえて言わなかった。同齢の二人は、気まずそうにしながら、首を縦に振った。試練に失敗したのは、アッサムだけだった。
「おめでとう」
ぎこちないアッサムの祝福に、ウバー達はやはりぎこちない礼を返す。それきり、沈黙してしまった。無音の空気を破ったのは、カーネルだった。
「アッサム。お前には、剣士になるのを諦めてもらうしかない」
村長が、アッサムに非情な選択を突き付けた。項垂れてつむじを見せる彼の顔は見えない。声色から想像する表情は、決して喜や楽の類ではないだろう。
「魔王が相手では、どうやっても勝機はない」
「ま、魔王? どういうことだよ、アッサム!」
経緯を知らないウバーが、丸太の上の幼馴染の肩を揺らす。肩に引っかかっていた刺繍入りのタオルが、地面に落ちていった。
「こいつは魔王に出会っちまったんだ。一番最初の魔物として」
その一言で、幼馴染たちは状況を把握した。アッサムの肩に置いていた手を、離した。心配も同情も、事態を解決してはくれないと、二人にも理解できたのだ。
「すまない……」
何の責任もない村長が、後頭部どころか背中まで見えるくらいに、首を垂れた。
「僕は、あきらめない」
立ち上がって、自分より低くなってしまった村長に向かって言った。それを聞いたカーネルは、こちらも立ち上がって、驚愕の色を浮かべた。アッサムは、大人の眼力にも負けないように、瞬きすらせずに視線をぶつけた。
「僕は、剣士になるんだ。だから、諦めない。魔王も、また来いって言った」
「アッサム……」
「明日も、あさっても、何カ月でも、何年でも。剣士になれるまで、やります」
唖然とする三人を置いて、自宅へと走り出した。誰もいない自宅へ。