魔王との出会い
三人は、森の入口まで一緒に行動し、そこで分かれた。大人たちの気配を背後に感じるものの、ここから先は一人で対処しないといけない。味わったことのない緊張感のせいで、心臓が自分のものではないように暴れ回っていた。
――僕はできる。僕はできる。カーネルさんみたいになって、魔王を倒すんだ。
深呼吸をして、はるか先のゴールを思い出す。スタート地点に立つための試練だ。ここで止まってはいられない。黒い地面を踏みつけ、前に進んだ。
離れたところから、「はあっ!」という声が聞こえた。あれは、ウバーだ。魔物との初戦闘が始まったのだ。闘気がこちらまで伝わってくるようだった。それはつまり、近くに魔物がいるということ。アッサムも、もう何かと出逢ってもおかしくない。
――僕はできる。僕はできる。
心が折れたら負けだ。自分で自分におまじないをかけ、せわしなく目を動かす。微かな音も聞き逃してはならない。
ウバーの戦闘音はもう聞こえない。きっと、決着がついたのだ。勝ったにせよ負けたにせよ、大人が近くで様子を見ているのだから、命に関わるようなことにはなっていないはず。……いや、ウバーなら危なげなく勝っているだろう。アッサムは彼との模擬戦で一度も勝利したことがないし、大人相手でも力負けしないのだ。
――僕も、きっとできる。たぶん、できる。もしかしたら、できる。
だんだんと気弱になっていくおまじない。静寂がやたらうるさい。静かなる騒音の先に、枝を踏む音が聞こえた。唾を飲んで、足音を立てないように、慎重に進む。剣の柄を握る。
森の木々がまばらになり、隠れるにはやや心許ない風景になった。この先には、綺麗な泉があったはず。7歳になったばかりの頃に、腕の立つ戦士たちと一緒に森に来たときは、怖くてほとんど誰かの背中に隠れていた。もう少し、ちゃんと周りを見ておくんだった、とアッサムは後悔した。
回想は早々に切り上げ、歩みを進める。今度は、水が跳ねる音がした。あそこには魚などいないのだから、空から何か落ちて来たか、魔物が水浴びでもしているか、どちらかだ。後者であってほしいという気持ちと、あってほしくないという気持ちが半々。待ち望んだ日がやってきたというのに、気弱な性根が顔を出してくる。
カーネルから貰った、今はバンダナとなったタオルに触れ、勇気をもらう。意を決したアッサムは、勢いよく飛び出した。
美しい、だが全身が真っ黒で不気味な印象を与える少女が、泉に立っていた。泉に手を向け、ぶつぶつと何かを唱えている。
人間。最初はそう思った。だが、水の上に立てる人間など見たことも聞いたこともない。子供だから知らないだけかな、と一瞬思ったが、その考えはすぐに振り払った。そんな人間がいるわけがない。アッサムは剣を向けた。
「そんなおもちゃの剣を向けて、アタシに何か用?」
彼女は泉の表面を歩き、森に着地した。額には二本の角があった。やはり、魔物だ。
「お、お前、魔物だな! 僕と勝負だ!」
なかば剣に振らされるような形で、重い鉄の剣を振り下ろした。重力以外の勢いに乗れず、ふらふらな軌道を進む剣の先を、角の彼女は二本指で摘まんだ。
「こんなおもちゃ振り回してんじゃないわよ」
彼女が少し手首をスナップしただけで、アッサムは吹き飛ばされてしまった。柔らかい地面のお陰で怪我は無いが、剣が離れた場所に飛んでいってしまった。魔物を目の前にして、丸腰になってしまった。
「遊ぶなら、他に行きなさい。邪魔よ」
「ま、魔物のくせに、偉そうに!」
「人間のくせに生意気言ってんじゃないわよ。……待って。アンタ、どうやってここに来られたの?」
一度はアッサムに興味を失いかけた彼女が、ふと何かに気づいて顔を向ける。その圧に漏らしそうになったのを少量に留め、ばれない程度に湿った下着を手で隠しながら剣に向けて駆けた。
足がもつれて四つん這いになりながらも、手を伸ばせば剣に届くところまで来られた。実際に手を伸ばすと、剣の前に二本の華奢な脚が現れた。
「どうやってここに来たのかって訊いてんだけど」
「ひ……ひぃっ」
腰が抜けた。残っていた勇気と尿が全部漏れていった。
「はあ……世話がやける」
彼女が右手を泉にかざすと、泉からぽこんと水の玉が現れた。手をアッサムに向けると、水の玉は勢いよく飛んでいき、アッサムの顔を容赦なく殴打した。全身ずぶ濡れになった。カーネルに貰ったタオルが、情けなくだらんと垂れてきた。立派なはずの刺繍まで、なんだか情けない染みのようになっていた。
「そのマーク……」
タオルに伸ばしてきた手を振り払い、アッサムは這う這うの体で逃げ出した。腰から下が言うことをきかない。違う生き物の上半身と下半身を無理やり繋げて、電気信号をやりとりさせているみたいだった。
「アタシは魔王。この命が欲しかったら、いつでも奪いに来るんだね。小便漏らし」
それだけ言うと、彼女は一瞬にして姿を消した。