八甲田山 77年
2023年9/12タブレット端末で執筆し即日投稿 何とか図書館に返す前に纏められた
余談ですが随分昔に亡くなった曾祖父ちゃんがあのテーマ曲に歌詞付けた歌を良く歌ってたんだよな youtubeで検索したら置いてあったけど……何か下手です(苦笑) 呆け入った頃の森繁久彌さんが歌う知床旅情レベル
【 零下20度以下の世界で走れば肺が凍り付き破裂し即死 眠れば心臓止まり二度と目を覚まさない 映画版&TVドラマ版でメインとなったのは青森第五歩兵聨隊から無作為に選抜された兵士及び士官下士官含む210名中199名を死に追い込んだ白い地獄 1902年1月23日・24日/一泊二日のスケジュールで往復20Kmで終わる筈だった雪中行軍は案内人の帯同拒否し吹雪を根性論で乗り越えようとしたが為に大惨事となってしまう 途中すれ違う筈だった弘前31歩兵聨隊の選抜部隊37名は1月20日から2月1日/11泊12日彼等の10倍の距離歩く224Kmの雪中行軍だったのに捻挫し列車で返った1人除き誰一人凍傷にも掛からなかったのに何故こんな事に? なお原作小説は31聨隊の話がメインです 】
★映画版では31聨隊役は人手足りず27名で移動 しかも指揮官役は高倉健さんでしたのでかなり醜聞抑え目となりました
日本 劇場公開作品/TBSでドラマ化・6話
原作:新田次郎 著
八甲田山死の彷徨 1971年新潮社刊 1978年同文庫化
遭難事件ベースにエピソード追加し登場人物の名前も変えた歴史文学小説
❖出版当時、遺族が未だ健在だったため配慮しそんな構成に
よって史実とだいぶ異なるそうです
令和5年9月12日 此処沖縄は蝉時雨が鳴り響いてますが夜間は幾分凌ぎやすくなりました 代わりに藪蚊が大発生してて其れを追い掛けるトンボも乱舞 元々蚊に集られ易い体質だったけど毎日飲む薬になんか変な成分でも入ってるのか一段と蚊に集られます で……吸ったのは良いけど薬物でトリップし破裂したり動けないから簡単に潰せるので朝目を覚ますとベッドがあちこち血塗れでな 畳使ったベッドだから拭けばどうにかなるけど私の場合敷布団どころかタオルケットすら毎日洗濯必須になるので使えません いっその事、畳もやめて板敷きにしようかと思い詰めるぐらいだし扇風機も所々血が付いてるな(汗) 毎晩蚊取線香とかベープマット使ってある程度殲滅してるけど 全部倒せるモノでも無いらしい
聖職の碑から始めた新田次郎先生作品も此れで3本目 亡き父の書斎に鎮座してたこの小説も結構何回も読んでるものの当時小学生だったしなぁ 何とかストーリーは追えたものの読解力なんて大したものはほぼ皆無 図書館に献本されてたのを何十年か振りに見掛け本当に久しぶりに読み返していたんですが 当時の私はかなりアレな性格だったらしく徳島大尉率いる第31歩兵連隊(此処から常用漢字で勘弁を)の選抜メンバー37名の雪中行軍描写飛ばして 神田大尉率いる第5歩兵連隊選抜メンバーが勝手に付いてきた士族上がりの山田正太郎少佐を始めとする阿呆な上官の命令介入で200名近い下士官や兵士がバタバタ凍死してゆく地獄絵図な描写しか読んでおらず ついでに映画版の其れより悲惨極まるから敢えてオミットされた後日談も全く目を通して無かった事に気付き失笑
映画もテレビ放映で何回も見てるし何故か父親の説明聞きながら見たテレビドラマ版も兵士や死ぬシーンと雪の進軍歌うシーンしか覚えてないや…… 小説が大ヒットするまで忘れ去られてた黒歴史扱いで映画公開やテレビドラマ放映により遺族や関係者が秘蔵してた様々な文献とか写真資料が出て来る切っ掛けになったとか 小説読んでて興味深かったのが徳島大尉率いる1個分隊が9Km走破する予行演習は案内人の協力もあり全く問題無く修了してた史実 此れで事実上人体実験な雪中行軍で名を上げようと有象無象の阿呆な上官沸いたから滅茶苦茶になったんだとか 朝鮮半島の権益巡り元々決して良くは無かった日露関係は悪化の一途 もし開戦したらロシア軍は北海道と青森辺りに上陸してくるだろうからどの程度の時間で防衛ラインを展開出来るのかなんて話も有り こんな無茶振り仕出かしたけど上層部は誰一人責任取らなかった辺りかなり悪質かと
【 原作小説読んでて中々興味深かったのが第31歩兵連隊雪中行軍訓練には東奥日報の従軍記者が帯同し記事を発表 ある程度客観的な文献資料として残っていること とは言えこの頃から既に報道しない権利も行使している史実 延々224Kmもの訓練の終盤近くに彼等が目撃したのは纏まり凍り付き死んでいた第5歩兵連隊の将兵達 当初は此処で大勢が凍死していると報告しなければならなかったけど死んでる人数があまりにも多過ぎたから世論の口撃恐れ新聞記者や案内人まで脅し付ける形で緘口令強いてしまったのが問題視されたんだよ ついでに書いとくと彼等も生存者捜索に動ける程の体力も気力も残って居なかったとか よって生存者捜索と遺体搬送は別の部隊が担当し彼等は何も見なかった事にされてます 】
★史実では其々独自に雪中行軍演習を計画 偶々第31歩兵連隊の訓練に同行していた東奥日報の新聞記事に慌てた第5歩兵連隊が 彼等が豪雪地帯に慣れた選抜メンバーならば我々は無作為に選んだ中隊規模の部隊で戦略物資輸送を橇で行うと急いだ結果起きている
「 冬の八甲田を歩いてみたいとは思わないかな 」青森県弘前に師団本部を持つ第八師団は1898年に新設されたばかりの組織 1901年10月のその日、偶々行われた日露開戦を想定した津軽海峡閉鎖と艦砲射撃による鉄路を始めとする道路寸断に対処する机上演習 厳冬期に積雪が積もる困難な環境下、我が皇軍は果たして八甲田山を越え青森から八戸方面への進軍が可能なのか? 第四旅団長の友田少将と第八師団参謀長の中林大佐が言質を取る形で行軍演習とは名ばかりも良い所な過酷な人体実験そのものな任務を押し付けられ志願させられたのは、青森第5歩兵連隊の神田大尉32歳と弘前第31歩兵連隊の徳島大尉35歳
元士族でお飾りとして呼ばれた同第5連隊の山田正太郎少佐は他愛もない任務だと意気込むも 平民士官な神田大尉は其れなりに寒冷地における行軍の困難さを理解している徳島大尉からノウハウを学び、現地案内人の雇入れと宿の手配 豪雪地帯出身の少数精鋭兵力による事前調査を無事終える 平民出身で年少な神田大尉を軽視し31連隊に対抗意識を顕にする山田少佐等士族出身士官達は中隊規模の210名による寒冷地行軍演習を意見具申 本来指揮官となる神田大尉を指導する大隊本部14人もの士官が訓練に同行する事になった 数年前に臨時編成されたばかりの第八師団は予算の割り振りも雀の涙 そもそも極寒期にまともな装備も自己負担で何とかしないといけない軍隊なんて有る意味自警団以下なのだが士官下士官のみならず兵の大半が都市部出身で豪雪地帯のサバイバルのノウハウ皆無
徳島大尉等が敢えて少数精鋭の27名編成(史実は37名)+新聞記者と途中交代する案内人達だったのは 村伝いの宿泊移動を前提とし凍傷のリスクを少しでも避ける為だったのだが 都市部出身で山の天候の恐ろしさにあまりにも無知だった山田少佐等はあまりにも愚かだった 行軍距離は僅か20Km程度で野営前提の1泊2日の少しハードなピクニック 神田大尉を始めとする冬季の行軍経験者達は恐らく5泊程度の悲惨な体験を覚悟するも零下20度を越える猛吹雪に襲われるとは夢にも思わない 1902年1月20日、第31歩兵連隊精鋭将兵27名が徳島大尉指揮下の元弘前から八甲田山へ 連隊指揮官の児島大佐等の安請合いで224Kmもの過酷なルート踏破を命じられた精鋭達のメインは士官と下士官 例え悪天候に襲われ部隊が壊滅しても士官が率先し殉職すれば申し訳が立つ そんな覚悟で冬山に挑んだ彼等の導き手となったのは少女滝口さわを筆頭とする地元の案内人達
1月23日、青森第5歩兵連隊と大隊本部含む総勢210名の部隊が神田大尉指揮下で八甲田山へ向かう 映画では途中すれ違い目指し云々なエピソードが追加されたが史実は慌てた第5歩兵連隊上層部に急かされる形 山の天候急変を訴え、せめて案内人をと申し出た作右衛門村長の忠告は報奨金目当ての乞食行為だと山田少佐等に追い払われる 急変する天候と猛吹雪に翻弄されるも互いにロープで身体結わえ案内人の導きで着実に進む31連隊とあまりにも対象的な第5連隊 吹雪で視界ゼロとなろうが面子に拘る士族出身士官等により徳島大尉等の指揮権は事実上剥奪、朝令暮改な大隊本部の相反する命令により程なく最初の殉職者が発生 白い地獄と化した零下20度の山の中では精々標高600mであっても酸欠状態となり高血圧と判断力の低下を招き迂闊に走れば肺が破裂し即死する
ちなみにリアリティ出すためお湯投げたら忽ち凍る自然環境下の現地ロケ 当時の軍装なるべくリアルに再現した衣服身に着けさせられた俳優もエキストラもあまりの寒さに半ば錯乱状態 アドリブとは到底思えない迷台詞吐いたり凍死し途中退場する兵士役は志願者殺到したと言う(苦笑) 勿論山田少佐役の三國連太郎や神田大尉役の北大路欣也さん等メインキャストは最後まで極寒地獄を追体験する事になった 闇夜での帰路探し希望は第31歩兵連隊との合流 猛吹雪と斃れる兵士達の断末魔の姿と対象的な過去の幻影 「 俺はもう自分の道を歩く 」1月25日深夜、村山伍長は数人の兵士達と共に森の奥へ姿を消し 倉田大尉の迷台詞 「 天は我を見放した 」がこだまする 長谷部善次郎一兵卒の死を感じた斎藤伍長の嘆き 渡辺伍長以下6名、高橋伍長以下6名が脱出路を求め斥候に出る 倉田大尉と神田大尉等、生存者67名は賽の河原へ 宿営地に付いた徳島大尉等に漸く届く第5歩兵連隊遭難の可能性 1月26日深夜まるで雪像の様な姿と化した神田隊 第31歩兵連隊本部では児島大佐と門閥少佐が徳島隊の帰還を命じようとするが既に手遅れだった 1月27日朝、第5連隊の生存者に更なる災いが降り掛かる雪崩により多くの将兵が更なる犠牲者に加わった
徳島隊により発見された長谷部善次郎一兵卒の凍死体 吹雪の中、遂に賽の河原へ到達する第31歩兵連隊 彼等が目の当たりした大勢の兵士達の変わり果てた姿…… 神田大尉は舌を噛み切り自決していた 1月29日午前二時、徳島隊は遂に宿泊地に辿り着いた 案内人に謝礼を渡し第5連隊を襲った悲劇に対する緘口令を命じる徳島大尉 第5歩兵連隊の遺体回収と搬送は既に始まっていた 生還者は江藤伍長を始め僅か12名 山田少佐は半ば錯乱状態で橇で回収されるも後に軍病棟で自決(史実ではやはり病没だったらしい) 物語は其れから数十年後の1977年秋を迎えた八甲田山 老境を迎えた村山元伍長は第5歩兵連隊の殉職者が眠る墓地に佇み あれ程踏破に苦しんだ山道をロープウェイで空から眺める ロープウェイ建設の前年に91年の波乱に満ちた人生終えた彼の姿を認識する者は誰も居ない
❖エピローグで文字だけで説明された倉田大尉と徳島大尉の最後は奉天開戦での戦死 雪中行軍に参加し悲劇を目撃した将兵の約半数が史実では此処で命落としたものの半数は負傷しつつも生還果たす
❖映画公開の後、何故か小学生の間で流行り出した凍死ゴッコ デジタル・リマスター版を見たお客様なら何となく理解出来るだろうけど此れで帰れる&もう寒さは懲り懲りだと半笑いで固まった顔で皆倒れてるのを子供だけは見抜いてました。