プロローグ 最後の皇帝の最期
自ら皇帝になりたいと望んだわけではなかった。
それでも、俺はこの三年間、六十六代目の帝国皇帝として君臨した。
そして今、皇帝はその役割を終えようとしている。
立派な白銀の鎧の男が額に汗を流しながら、玉座に座る俺に跪く。
「陛下! 民衆が、この宮殿を目指しています!」
この白い大理石で造られた皇帝の間には、黒い法衣を纏う俺とこの隊長だけだ。
「そうか。近衛隊長、宮殿の門は開放したままにせよ。兵には宮殿から逃れるよう命じ、決して民には手を出させるな」
「……し、しかし、それでは」
「これは余の命令である。帝国皇帝たる余の、勅命だ」
隊長は涙を流す。だが、すぐにそれを拭って再び頭を下げる。
「今まで、ご苦労であった」
俺は最後にそう声を掛ける。
隊長は頭を上げ、何か言いたげな顔をした。
しかし、俺が「急げ」と告げると、頷いて皇帝の間を出ていく。
かつて、俺は魔法学院の引きこもりと呼ばれていた。
それが人から別れを惜しまれるのだから、人生分からないものだ。
俺は父と兄の戦死後、この帝国の皇帝となった。
帝国は、父と兄による度重なる海外出兵で疲弊する。父と兄の統治した十五年間で、帝国は荒れに荒れ果てた。加えて、宣戦した諸外国や魔物の侵入を招く。
そんな状況にもかかわらず、皇子と貴族達は自分達の私腹を肥やすことだけを考えた。そのせいで、帝国中で汚職が蔓延する。
帝国は、まさに瀕死の病人となっていた。
そんな時、父と同じように兄が戦死する。
数十を数える皇子は誰もが帝位を継ぐことを拒んだ。
白羽の矢が立ったのが俺、ルディスだった。
元々俺は、魔法学院に閉じ込められていた、ただの賢者に過ぎない。
そうなったのは理由がある。
俺の持つ”帝印”の能力が、他の皇子と変わっていたのだ。
”帝印”は、人、竜や聖獣を従える、皇帝の一族のみが与えられた能力である。
しかし、俺の帝印は、何故か魔物を従えるものだった。
そのせいで俺は”魔王の落胤”と呼ばれ、両親兄弟はおろか宮中から忌避される。
魔法の才能が有ったから、俺は幽閉先に魔法学院を希望した。
入学してからは最高位の魔法もすらすらと体得し、扱えるようになる。
これは、俺の持つ”帝印”の能力が、役に立った。
従魔を従えれば従えるほど、俺の魔力は増大するからだ。
そんな魔法だけの賢者が、政治的な理由で無理やり皇帝にされた。
もちろん皆、俺を傀儡にするためだったのだろう。
だが、お飾りの皇帝等まっぴらごめん。やるなら、しっかり皇帝を務めたかった。
父や兄、兄弟達の汚職や愚策で、罪もない人々が傷つくのが許せなかった。
皇帝になるなり、俺は改革を実行した。
そして数々の戦争を、己の魔法と従魔で勝利に導く。
戦争が終わったことで、田畑に人が戻り、穀物が実った。
皇子や貴族への支出を大幅に減らし、民のための予算を増やす。
当然、反旗を翻す皇子や貴族もいた。だが、俺直々に軍を率い、征伐する。
そして今年、俺の改革で、民衆は自分達で護民官を選べるようになる。
政治に参加することが出来るようになったのだ。
俺はついに、お飾りの皇帝となれる。
帝国に復興の兆しが見え始めた丁度その時、今日という日はやってきた。
俺を良く思わない他の皇子達が、俺が贅沢をしているなどと市井に噂を流す。
それを聞いた、一部の民衆が暴徒と化した。
そしてその暴徒が今、この宮殿に迫っている。
生活が苦しい者は、俺の治世で減っていたとはいえ、まだまだ多かった。
加えて、俺には魔物を従える”魔王の落胤”という悪評が強かった。
暴徒が望むのは、そんな”魔王の落胤”の死だろう。
魔物に恨みの有る人間は、この帝国に溢れている。
俺は、来る死を受け入れるつもりだ。
皇帝はもはやお飾りに過ぎなくなっていた。
それは、俺が未来への基盤づくりを終え、民衆が政治を行うようになったからだ。
この帝国において、皇帝はその役割を完全に終えた。
民衆が中心に政治を行うようになるのなら、皇帝という存在は異物に過ぎない。
だから、俺はもう用済み。
もちろん、思い残していることはあるが。
そんな事を思い返していると、皇帝の間に続々と魔物が入ってくる。
約五十体、種族は小さいのから大きいのまで色々だ。
皆、鳴き声を上げたり、怒鳴り散らして、俺の前に迫ってくる。
魔物が攻めてきたと思われるかもしれないが、違う。
彼らは、俺の帝印に従うと決めた者達なのだ。
「皆、来たか」
俺の声に、浅黒いオークが、唾を飛ばしながら口を開く。
「ルディスの旦那ァ! 何をためらウ! 俺達がいれば、あんな奴ら瞬殺ダ!!」
このオークは俺の従魔で、名をヴァンダルと言った。俺の従えるオークの首領だ。
簡素な腰巻と、背丈ほどの長さもある大斧が、勇ましい。
「そうですわ! ルディス様が出るまでもありません! 私達に一言命じてくだされば、下等生物たる人間など消し炭にいたします!」
美しい顔に似合わない野蛮な言葉を使うのは、サキュバスのアルネだ。
黒い羽根と尾を揺らしている。白肌で、長い茶髪と青い目が特徴だ。
身を覆う布が少ないので、スタイルの良さが目立つ。
「ああああ! これだから、人間は愚かぁなのだぁ! 我らがルディス様にぃぃ、刃を向けるなどぉ!!」
長い青髪の優男は唇から血を流し、そう叫ぶ。
八重歯がちらつくこの黒いコートの男は、吸血鬼のロイズだ。
その後ろでは、実に多様な魔物達がぎゃあぎゃあと騒いでいた。
……正直言って、すごいうるさい。
「静まれ! 従僕達よ!」
俺の一喝に、魔物達は口をつぐんだ。
「貴様らを呼んだのは、余の命令を愚かにも拒んだからだ」
魔物達は、俺の言葉に不服そうだ。
その中で、前列のブルースライムのルーンが口を開く。
このルーンは俺の最初の従魔であり、幼少時からの付き合いだ。
「皆、陛下のために戦います」
「ならぬ。貴様らは余の命令通り、山脈の西に逃れるのだ」
「嫌です、陛下!!」
ルーンは一歩も引かず、俺に返す。
他の従魔も「そうだ!」と声を上げ、「人間を殺すぞ!」などと宣っている。
俺はそれを聞いて、露骨に不快そうな表情をする。
本当はとても嬉しい。
俺なんかのために従ってくれ、今また一緒に戦うと言ってくれてるのだ。
しかし、俺は本当にもう用済みなのだ。
それに、寝食を共にし、共に戦ったこの従魔達が傷つくのを見たくない。
ましてや、ここで国民を殺してしまえば、せっかく訪れた平和は台無しだ。
停戦できた魔物達と人間は、再び戦争になるだろう。
俺は心を鬼にする。
「愚か者共め。余、ルディス・ヴィン・アルクス・トート・リック……」
えっと…… 自分の正式名称を忘れちまったよ……
というより、やっぱ長すぎだ。
正式名称を言えなければ、帝印の絶対服従は使えない。
そんな俺に、ルーンがこう続けた。
「あ! ウエスト・サコッシュ・クラッチ様、です」
そうそう、そんな名前だった。さすがはルーンだ。
いつも俺が忘れた時、教えてくれる。
ルーンは善意で教えたのだろうが、周りの従魔は皆、怒声を上げた。
「馬鹿ぁっ!!!」
「ルーンぅ! 貴様ぁあああ、何を余計なことをぉぅ!」
「え?」
アルネとロイズの声に、ルーンは何だか分からないようだ。
しかし、俺の声を聴いて、すぐに自分のした事を理解する。
「……ウエスト・サコッシュ・クラッチが命ずる。我が従僕は全員、中央山脈を超えよ! 貴様らも、外の従僕もだ!」
俺の手に浮かび上がる光の五芒星、これこそが帝印だ。
深く息を吸って、俺はこう続けた。
「その場をもって、余と貴様らとの主従関係は解消される!」
従魔は皆涙を流したり喚いて、俺の名前を呼ぶ。
しかし、帝印は絶対服従の力を持つ。
従魔達は自分の意思に反して、宮殿の外へ向かうのであった。
「何でだあ! 旦那ァ、どうして一緒に戦わせてくれなイ!」
「ルディス様、嫌です! どうかこのアルネを世界の最後まで御傍に!」
皆、悲鳴にも近い叫びを上げながら、皇帝の間を出ていった。
こうして、皇帝の間は静かになる。
俺以外に、この玉座だけの皇帝の間には誰もいない。
俺の目からは、涙がポロポロ流れていた。
「皆…… すまない」
俺も、もっと皆と一緒に居たかった……
だが、すぐに俺は涙を拭う。
すでに怒り狂った民衆達の声が聞こえるからだ。
俺は玉座を立ち上がり、正面のバルコニーのガラス戸を開く。
バルコニーに立つと、眼下の広場には棒切れやナイフ、松明を持った民衆がいた。
意を決して、俺は口を開く。
「余こそ帝国皇帝、ルディス・ヴィン・アルクス・トート・リック・ウエスト・サコッシュ・クラッチである! 親愛なる帝国臣民よ、余の名を呼んだか!」
何とか忘れずに名前を言えた。
俺の声を聴いて、民衆はわあわあと騒ぎ始める。
だが、一人の男が叫ぶと、急に静かになった。
「”魔王の落胤”よ! 貴様は俺達の税で、私腹を肥やしているのだろう! 俺達の生活は貧しいままだ!」
「確かに、まだ多くの人々が飢えていることは知っている! だが、もう少しで収穫も始まる。一昨年の数倍にもなる収穫が始まるのだ。そうすれば、皆の飢えはことごとく解消される!」
俺は男へそう返答した。天地神明に誓って、嘘偽りのない言葉だ。
だが、男と民衆は納得しない。
「そんな言葉信じられるか! どうせこの宮殿は、宝で溢れているのだろう!」
「そんな物は、ここには何もない!」
「嘘を吐け!」
「ならば、探せ! 心行くまでな!」
そうだ、勝手にすればいい。すでにこの宮殿には、もう何もない。
有るのは玉座と家具、雑貨だけ。
国費に充てるため、贅沢品は全てを売り払ったのだ。
俺は玉座へと戻る。
民衆達は、宮殿を隅々まで探し始めたようだ。
宮殿内が、一気に騒がしくなる。
これで、ないと分かるはずだ。
もしかすれば、俺の命は助かるかもしれない。
だが、それは叶わなかった。
民衆達は何もないことに気が付くと、一気に騒ぎを鎮静化させる。
だが、バルコニーで話していた男を先頭に数名が、俺のいる玉座の前へと来た。
「宝とやらは、見つかったかな?」
「……どこに隠した」
男はまだそんな事を言う。
しかし、本当はそんな物がないことなど、分かっているはずだ。
「無い物は無い。今度は、余の腹の中でも調べてみるか?」
そう答えると、男は俺の胸ぐらを掴んだ。
「……返せよ」
「何をだ?」
「……八年前に死んだ、俺の彼女を」
男からは、やり場のない怒りが伝わってきた。
皇帝と魔物に対する怒り。
それが、皇帝であり”魔王の落胤”である俺に向かうのは無理もない。
「……君は、どこの生まれだ?」
「北部のアルプ村だ。お前ら皇帝が戦争しなかったら、魔物に滅ぼされなかった俺の故郷だ」
「……そうか。それは皇帝たる余達が、守れなかったせいだな」
男は涙を流しながら、声を荒げた。
「そうだっ! お前が! お前らがいなかったら! 俺は、あいつと!」
「余を殺して少しでも気が済むなら、そうすると良い。罪の意識は有る」
八年前は兄の治世だ。だから、俺に言われてもと、感じなくもない。
だが、皇帝となるというのは、全ての責任を負うことと。
前任の愚行に対してもそうだ。
もう、やるべきことはやり尽くした。好きにしてくれ。
「……くそっ! くそおおおぉっ!!!」
男は叫びながら、俺に剣を振り下ろすのであった。
思えば、つまらない人生だった。
鳥籠の小鳥のように魔法学院に閉じ込められ、無理やり皇帝にされてからは戦争としがらみばかり。
楽しかったのは、魔法を学んだり、従魔と過ごしていた時だけだ。
もし、次の人生が有るのなら、少し欲を言ってみたい。
世界を巡ったり、たまには静養をしたり……
俺はそんなことを願いながら目を閉じて、人生の終わりを迎えるのだった。