03 兄上の元教え子
階下で兄上が誰かと話す声がする。結局私は気になって階段を降りた。
玄関で兄上と話をしているのは見知らぬ少女だ。
年の頃は十四、五だろうか……? 栗毛に茶色い瞳の、身なりの良い少女だ。
「兄上、どちら様?」
「お前は来なくていい」
少女は私の顔を見るなり、パッと表情を輝かせた。
色白でソバカスが目立つ。確かに美人とは言えないけれど、愛嬌のある顔でなかなか可愛らしい子だ。
「もしかして、先生の妹君ですか?」
先生? 確かに兄上はいくつも博士号を取得していて、地質学においては学者を称して、ニート同然だった。まぁ、実際は秘密裏に事業をしていたらしいけど。その学者の頃の知り合いなのかな?
「私はジュリアンと言います。先生が開発なさった金鉱山一体の村の村長の娘です。先生は、本当は領主様の若君ですから、先生って呼ぶのは本当はヘンかも知れないんですけど、私に色々な鉱石のことを教えて下さいましたから、先生って呼んでるんです。あ、妹君ということは、領主様のお嬢様ですね!? これは大変失礼しました!!」
ジュリアンと名乗る少女は、こちらが圧倒される勢いで一気に捲し立てた。つまり、兄上が掘り当てた金鉱山の近くの村長の娘さんか……。その娘さんがなぜここに?
「それで、要件は何だ?」
「あら、先生冷たいです。ここまでの馬の手配をしたのは、うちの父なんですよ? 先生がこちらにいらしてるなら、ご挨拶するのは当たり前です。私は先生に嫁ぐと決めているのですから」
「はぁ!?」
あまりの言葉に、私は声が裏返る。はぁと長い溜め息をついた兄上が、ジュリアンを諭すように静かに言い放った。
「お前とは結婚はしない」
「何故ですか!? 先生は私が主席を取れたら、結婚してくださると約束してくれたじゃないですか?」
私は思わず兄上を睨みつける。何それ? 一体どういうこと?
バツが悪そうに頭を抱える兄上は、もう一度溜め息をついた。
「そんな約束した覚えはない」
「酷いです!! 先生は確かに言いました。万年ビリの私が奇跡でも起こして学院で主席を取れば、何でも願いを聞いてくれるって……」
えええっ!? 兄上、本当にそんなことを?
「あぁ、もしかしたらそんなこと言ったかもしれんが、結婚してやるだなんて一言も言ってない。だいたい僕にはもう決まった相手がいる。お前は諦めろ」
「ご婚約なさったのですか? どんな縁談話にも首を縦に振らなかった先生が? そんなの信じられません!!」
確かに兄上にも縁談の話はかなり来ていたらしい。曲がりなりにも一応伯爵家の長男だし。
それを、実質のニートだという理由でのらりくらりとかわしてきたのだと聞かされていた。兄上は最初から、私としか結婚する気がなかったからだ。
「本当だ。こんなこと嘘ついてどうする?」
「先生の妹君! それは本当の話なんですか!? お相手はどんな方なのですか?」
ジュリアンは私の腕を取り、食い入るように見つめながら問い詰めてくる。私は一瞬たじろぐものの、嘘をつく訳にもいかず、上擦った声で返答をしてしまった。
「ほ、本当だよ。兄上は婚約した」
「お相手はどこの誰ですか!? 私よりも美人ですか? お金持ちの令嬢ですか?」
そこで相手は私なのだとは、とても言い出せる雰囲気ではなかった。私は兄上の助け舟を求めて、そちらに視線を投げる。
「お前なんか逆立ちしても叶わない、とびきりの美人だ。歴とした伯爵家の令嬢で、優雅で気品に溢れている」
いやいや、兄上、何気にハードル上げないで? 私のどこが優雅なの? 気品なんてどこに?
十八年近く男として生きてきた私に、そんなの求めないで?
全部ここ最近の聖乙女としての教育の付け焼き刃でしかないんだよ?
「伯爵家の令嬢……相手は貴族なのね」
ジュリアンは悔しそうに呟くと、その大きな目にはみるみる涙が溢れた。
「お前は所詮、村長の娘で平民だ。身分違いだ、諦めろ」
兄上はピシャリとまるでトドメを刺すかのように厳しい一言を言い放った。まるで容赦がない。
「……先生がそう仰っても、私は諦めきれません。絶対に先生をその伯爵令嬢から……略奪してみせますから!!」
ジュリアンは泣きながらもそれだけは断言した。
そしてその場でしゃがみこんで大泣きを始めた。
泣く子には勝てない、そんな顔をした兄上がやれやれと困った様子で、壁に掛けられた電話に手を伸ばした。
「もしもし、村長の娘が森のアトリエまで来ている。誰か迎えに寄越してくれ」
用件だけ告げると兄上は電話を切った。それだけで相手に話が通じるんだ。
「帰れジュリアン。ここに来ても、僕の気持ちは変わらない」
嗚咽で肩を大きく揺らしながらも、ジュリアンは顔を見て伏せながらも首を何回も横に振る。
「……先生がっ、好きっ…なんです」
「僕はお前なんか好きじゃない」
兄上の辛辣なまでのその言葉は、さすがに私でもジュリアンが気の毒にすら思える。
「兄上、そこまで言わなくても」
「お前は黙ってろ」
そう言われると私はもう何も言えない。べったりとその場に座り込んで泣き続けるジュリアンを慰めながら、彼女への迎えが来るのをひたすら待った。
兄上は我関せずで、勝手に一人だけでお茶を飲み始めた。やっぱり兄上って、天邪鬼だな……。
すっかり変わってしまった、いや今までずっと猫を被っていただけなんだと思い知る。私に気持ちを打ち明けるまでは、誰に対しても優しく親切で、来るもの拒まず去る者追わずのスタイルを貫くような、悪く言うなれば八方美人的な人にも見えたのに。
でも豹変して本性を現した兄上は、ただの自信家の自己中で、かつドSな腹黒でしかない。
それでも、私に対しては他の人とは別。私のことは溺愛していて、それだけは一貫している。
「兄上」
「何だ?」
「女の子泣かせたらダメだよ」
「……………」
兄上は額に手を当てて、そっぽを向いた。
それでもちゃんと私とジュリアンの分のカップは用意してあった。……冷たいんだか、優しいんだか。イマイチよく分からないなぁ。
私はジュリアンの分のカップにお茶を淹れて、彼女に差し出した。
「とりあえず、これ飲んで落ち着いたら?」
カップを受け取り、一口だけ口を付けた彼女の鼻は真っ赤になっていた。
背中を優しくさすってやると、彼女は体を擦り寄せてきた。
「妹君、私の味方になって下さいませんか?」
「えっ!?」
彼女は食い入るように私を一心に見つめる。
「そんなぽっと出の貴族の令嬢なんかに負けたくないんです。子供の頃から、先生のことがずっと好きだったんです」
そう言われると私は苦笑いするしかない。ぽっと出どころか、その相手は私なんだけれども。
でもこの状況でそれを言えるか!!
チラリと兄上の方を見ると、肩を揺らして明らかに笑いを堪えている。やっぱりこの状況を楽しんでるな、アイツめ……。
「いいよ、協力するよ」
そう答えると、兄上は目をひん剥いてこっちを凝視した。
「おい!」
「でも念を押しておくけれど、兄上の気持ちが一番大事だから、もし気持ちが動かなければ、すっぱり諦めなくてはダメだよ?」
「分かりました! 先生の心が私に向くように頑張ります!!」
兄上のいつもの長い溜め息を聞きながら、私は困惑していた。
ジュリアンはさっきまでの泣きべそはどこへ行ったのやら、目を輝かせて私を見た。
兄上の態度にも腹が立つし、ジュリアンがあんまり健気だったから、ついそんなことを口走ってしまったのだ。
私も何やってるんだろう……。
「妹君、お名前を伺っても?」
「……私はジーン。ていうか、そろそろ迎えが来る頃じゃないか?」
それから数分も経たずに、村長宅の御者と名乗る男性が迎えにやって来た。帰るのを渋るジュリアンを何とか宥めて、その日は大人しく帰って貰ったのだった。




