09 密室に二人きりで
私達は連れ立ってバーラウンジを後にし、ニコラス様は預かった鍵の部屋番号を確認した。
「この下の階だな」
エレベーターで一つ下の階に降りて、鍵の番号の部屋の前に到着した。廊下の際奥のどう見てもこの部屋は……。
鍵を開けて中に入ると、案の定スウィートルームだった。
広いリビングの奥に二つのベッドルーム、どう見てもこのホテルで一番の部屋だった。
そのうち一つのベッドはどう見てもキングサイズ、天蓋付きの豪奢なものだった。
どうしてもこの手の部屋に入ると、部屋の中を色々と確認してしまう。
「君はそっちを使う?」
キングサイズのベッドに釘付けになっていると、背後からニコラス様に声を掛けられた。
「なら、私は向こうのベッドルームを使うかな?」
「えっ? ああ、はい」
心なしか、ニコラス様もいつもの余裕がないような?
手の早い王子達と違って、ニコラス様は紳士だから、もしかしてなんてことはあり得ないのに。
ていうか本当に今日ここに泊まる? さすがに冗談だよね?
「昼食の件はすまなかった。君がせっかく弁当を届けてくれたのに、大人気なかったね」
「いいえ、もういいんです」
確かにあれは少し残念だったけど、ニコラス様との結婚が決まった今は、あんなことくらい大したことではない。
「ひょっとして、君の手作りだった?」
「はい」
「また作ってくれる?」
ニコラス様は少し照れながらそう言うと、私の髪を優しく撫でた。
何だかきゅーんとしてしまう。
「喜んで」
「キスしても?」
私が頷くと、彼は背を少し屈めて顔を寄せてきた。
唇が触れるか触れないかで目を閉じる。
優しく唇に唇が触れる感触があった。本当に触れるだけの優しいキス。
頬にキスされたことはあったけれど、彼とのちゃんとしたキスはこれが初めてだった。
「ごめん、ちょっと余裕ないかも」
ニコラス様は赤面して、私から顔を背けた。
どうしよう? 何だか物足りない。少しでも彼に触れていたかった。
「何かルームサービスでも頼もうか?」
そう言いつつ、踵を返してリビングに戻り始めた彼の背中に私は思わず抱き着いた。
「ごめんなさい。しばらくこのままで」
あんなことになって彼に拒絶され、一時はどうなることかと思った。彼の家の為にいっそ彼を諦めるべきなのかと。
私が自分の立場を理由に、強引にニコラス様を夫に指名することは可能だったけれど、そんなことをして彼を手に入れても、わだかまりは残ったことだろう。
「ジーン、そんなことをされたら」
そう言いつつ、彼は腰に回した腕を優しく解こうとする。
「私だって男なのだから。好きな女性と二人きり、理性を保つのだって楽ではないのだよ?」
「構いません」
「────っ!!」
腕を解かれて、彼は素早く身を翻すと私を強く抱き締めた。
あまりのことに多少驚きつつも、私は夢中で彼の背中に腕を回した。
「愛してる」
囁くように彼が言って、私にキスした。
さっきの触れるだけの優しいキスとは全く違う、キスだった。
絡まる舌と舌、強く吸い上げるように何度も何度もキスをした。お互いの唾液が混ざり合って、何も考えられなくなる。
私は夢中で彼を求め、彼は十分それに応えてくれた。
「──でもこれ以上は」
すんでのところで彼が踏みとどまり、私の体を慌てて引き離した。
「この先は結婚してから」
「イヤ、このまま」
私は堪えきれず、彼にもう一度キスして首に腕を回した。
彼が身じろぎし、躊躇っているのは分かるのだけれど、私の方が抑えが利かない。
「お願い」
私はそのままニコラス様をベッドに押し倒して、馬乗りになった。背中のホックを外し、ドレスを強引に脱ぎ始めた。ボタンが飛ぶが、そんなの気にしている暇はない。
「ジーン、君は今普通の状態じゃない!」
ニコラス様が、やや強い口調で私を制した。
「ジーン!!」
彼がとうとう私を跳ね除けて、ベッドに押しつけるようにして上になった。
「君は今正気じゃない。こんなことで簡単に処女を失ってはいけない。きちんと順序を守らなくては!」
何度も言い含めるように、私の目をじっと見つめて彼が言った。
「……ニコラス様?」
冷静さを取り戻した私を見て、彼は私を押さえる手を緩めた。
ほっと軽く息をついて、彼は素早く身を起こした。
「すまない」
私達の国では、婚前交渉はタブーな風潮がある。実際のところ、貴族社会では恋愛結婚のケースの方が少ないので、相手とまともに顔を合わすのが結婚式当日という場合も少なくはない。
つまり、処女のまま結婚するのが通例なのだ。
聖乙女は寿命の関係で早く子供を儲ける必要があるので、その通例は適用されない。まあ暗黙の了解といった具合か。
私の場合、子供を作るのを急いだ方が良いと言われているけれど、クロエ様のお陰で多少の猶予は延びている。秋の収穫祭くらいまでなら、何とかギリギリといった具合だろうか。
ニコラス様は、まあ見るからに堅物で清廉潔白な人柄。もちろん出来る限り、通例を守りたいのだろう。
たとえ私が聖乙女だとしても。
でも自分では全く実感がないんだよなぁ。
でも、相手が夫に相応しい条件を満たすなら、迫られると拒めないということが、やっぱり普通でないんだろうけど。
でも今は、迫られるというよりかは、私が彼を襲ったのでは?
「その、ごめんなさい!!」
ヤバイヤバイ! 私やっぱりおかしい? よりにもよって、ニコラス様を押し倒すだなんて!!
思い出して頬がカアッと真っ赤に染まる。一体何てことをしてしまったのだろう!? はしたないにも程がある。
「何か着るものを用意するから、少し待っていてくれ」
ドレスのボタンは飛んでしまったので、このままでは帰れそうにもない。
「あ、ここに泊まるのは冗談だからね?」
「もちろん分かってます!」
彼は少し笑って、部屋を出て行った。一人になって、自分のしでかしたことを思い出して、恥ずかしくて堪らなくなる。
ニコラス様に幻滅されてないだろうか? 尻の軽い女だと思われただろうか? 本当に後悔しかない。
フカフカの羽根枕に顔を埋めた。穴があったら入りたい気分だ。
しばらくして、ニコラス様が紙袋を手に戻って来た。
「適当に見繕って貰った。サイズが合うといいが」
ホテルが建つ大通り沿いには、高級ブティックも何軒も立ち並ぶ。おそらくそのどこかで買ってきてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
袋から取り出した淡い水色のワンピースは、白いレースの襟が可愛らしいフェミニンな落ち着いたシンプルなデザインだ。
こういうのが彼は好みなんだ、ふーん。
「私は向こうに行ってるから、着替えて」
「すみません」
せっかくグレース様が用意して下さったドレスを台無しにしてしまった。私は脱いだドレスを紙袋にしまい、新しいワンピースにさっさと着替えた。
「あの、ご面倒をお掛けして」
リビングに戻ると、ニコラス様はソファーで落ち着かなそうにしていた。
「あっ、サイズはピッタリだったみたいだね。良かった」
「少し話をしようか。座って?」
私は彼の言う通り、対面に腰を下ろした。
こうして彼と向かい合うのは、彼にきっぱり振られた時以来だった。
「実は、君と結婚することを早速殿下にお伝えした」
マクシミリアン王子に!?
「聖騎士団長に復帰することになったし、君は準王族の身分で、収穫祭に合わせて大々的に挙式することが元々決まっているからね。私達の結婚といえど国事に等しいから、勝手に色々決められないんだ」
そうだった。ニコラス様はマクシミリアン王子の腹心でもある。私と結婚することが決まっても、式の日取りや衣装や何もかも、おそらく自分達では決められないんだ……。
「それで提案なのだが」
ニコラス様は、少し身を乗り出してはっきりと告げた。
「先に結婚してしまわないか?」
「ええっ!?」
ニコラス様がそんなことを言うなんて意外だった。誰よりも礼節を重んじ、国に忠誠を誓っている彼が。
「あの、ええと、大丈夫なんですか?」
ニコラス様は少し困ったように笑うと、肩を竦めながら言った。
「実は殿下に言われたんだ。君のリミットのこともあるから、結婚は早い方が良いと。挙式に関しては、あくまで国民に聖乙女の存在を知らしめる為なので気にすることはないと」
つまりは先に結婚しておき、改めて国の行事の一環として挙式するということだろうか?
「君さえ良ければ来週中にでもと思っている。なかなか急なことだが、了承してくれないだろうか?」
「分かりました」
まさにトントン拍子で話が進むとはこのことだった。つい先ほどまで、彼の婚約話に心を痛めていたのに、今はその彼と猛スピードで結婚の話が進んでいる。
もしかして夢ではないだろうか?
自分の頬をつねった私に、ニコラス様が目を丸くした。
「ジーン?」
「あの、夢じゃないですよね? これ」
「もちろん、夢じゃないよ」
クスクス笑いながら彼が言う。
「では決まりだ。これからすぐ家に帰って、兄上達と相談する。詳しい日取りとか、君のドレスとか大急ぎで決めないといけないからね」




