10 深い森の奥で
私はまっすぐ進むことは諦め、来た道と反対方向に戻り始めた。すると数分も歩かぬうちにあすの家の前に辿り着いてしまった。陽はすっかりもう沈み始めていた。
「やっぱりここからは逃げられないんだ」
呆然と呟く私に突如背後からかけられた声。
「どこに行ってたの?」
振り向くと、そこにはアレックスが立っていた。
街にでも出ていたのか、先程の黒いローブ姿ではなく、普段の彼が好んで着るような服装だった。
「ああ、こんなに汚れて……。あちこち傷だらけじゃないか!?」
アレックスは私に駆け寄ると、軽々と私を抱き上げた。
「お風呂に入って綺麗にしよう」
そのまま家の中に運ばれて、バスルームへ連れて行かれた。
バスタブには薬湯のような独特の香りの湯が張られ、私はあっという間に裸にされて体の隅々を丁寧に洗われた。
抵抗する気もなく、もうされるがままだった。
「こんなにたくさん傷付いて。小枝にでも引っ掛けたのかい?」
アレックスは傷の一つ一つを確認しながら、瞬く間にそれらを癒した。彼にとってそんなことは造作もないことなのだ。
「もう痛くないだろ?」
「…………」
黙り込む私にアレックスは変わらず優しく声を掛ける。
そして体を優しく拭いてくれて、彼は純白のドレスをどこからか持ち出してきた。
「さあ、これに着替えて」
それは紛れもなくウェディングドレスだった。
それを凝視していると、アレックスが言った。
「ジーン、ここには僕達二人だけだ。誰もこの森には入って来れないし、これからずっとここで二人で暮らすんだ。約束とは少し違ってしまったけれど、一生君を大事にする」
それでも彼が私を監禁していることには間違いなかった。
そして、彼の私に対する気持ちも何ら変わってなどいないことも。
「愛してるよ、ジーン」
「愛してるなら、どうして?」
言葉とは裏腹にアレックスの表情は、今にも泣き出してしまいそうなものだった。
どうしてこんなに傷付いた顔をしているんだろう?
監禁されているのは私の方なのに。
「酷いことをしているって自覚はあるんだよ。本当はどうしようか迷った。でも真実を知ったら、君はきっと僕を軽蔑するだろう。それでも、もし世界に僕と君との二人だけだったとしたら? 君は僕を受け入れざるを得ないんじゃないか? 漠然とそう思ったんだ」
この世界にアレックスと私の二人だけ? でもそれはあくまで例えだよね?
「ここは僕の結界の中。外界とは完全に遮断されている。この世に僕達二人しかいない、その状況に限りなく近い状態だ」
「だから自分を愛せと?」
アレックスは、私の首にダイヤモンドが連なったプラチナのネックレスをつけながら答えた。
一見しただけで、相当な値段の物だと分かる。
「どんな贅沢だって、思いのままだよ?」
「私が贅沢したい訳じゃないことくらい、知ってる癖に」
私の言葉に、アレックスは自嘲気味に笑った。
「そうだね。君は一般的な女の子とは全く違うんだった。どんな高価な宝石やドレスにだって興味なんかないし、綺麗な花を贈ったところで、靡く君でもない」
「何かそれ、まるで女じゃないみたいな言い方だよね?」
私が突っ込むと、アレックスは声を上げて笑った。
「そういう所も好きなんだ。君は君。女の姿をしていようが、男の姿をしていようが、清廉で裏表がなく、素直で優しく、バカみたいにお人好しで、いつも周りに振り回されてる君が大好きなんだ」
「褒めてるんだか、貶してるんだか」
アレックスは私に構わず、淡々と着替えさせた。そして耳にネックレスと同じ意匠のピアスを嵌めながら耳元で囁いた。
「愛してる」
耳を貫かれる痛みと同時に吐息と共に吐かれた甘い響きが、痺れのように全身に広がっていく。
首筋に落とされる口付けに私は思わず目を閉じた。
「こんな風にしても、君は僕を許すんだね」
羽交い締めにされて、私は彼の手に自分の手を添えた。
──もう逃げられない。それならばもう、受け入れるしかない。
受け入れてしまえば、何てことのない快適な生活だった。
アレックスの魔法は万能で、掃除やその気になれば食事の支度だって、何とかなってしまう。
彼は時々食材や日用品などの買い出しに出掛けてしまうけれど、私はただ大人しく帰りを待つだけだった。
二人だけのゆっくりとした時間だけが過ぎて行く。
気が付けば、もうここで暮らし始めて半年が過ぎていた。
その日は朝から雪が降っていて、私は窓から外の様子を眺めていた。
「かなり降ってるね。冷えるから暖炉の側にいるといい」
「うん」
私はアレックスに促され、暖炉の側の椅子に腰を下ろした。
「今、温かいお茶を淹れるね」
アレックスは甲斐甲斐しく、私の世話をしてくれた。
私ももちろんされるがままでなく、家庭菜園の手伝いをしたり、森で簡単な狩をしたりした。
金銭的には何も困ってはいなかったが、ただ家でじっとしているのも私は我慢がならなかったからだ。
なかなか充実した毎日だったと思う。
「もうすぐジーンの誕生日だね。誕生日プレゼントは何がいいかなぁ?」
「猟銃のちょっと性能がいいやつが欲しいかな。魔物はアレックスの魔力の影響下で出ないけど、熊とは度々出くわすからさ」
元々この家にあった猟銃は旧式で、ブレもかなり大きい。
私の言葉に、アレックスは少し吹き出した。
「年頃の女の子の欲しがる物とまるで違う」
私は森で、度々鹿を獲っていた。半分自給自足する私達にとって貴重な肉なのだ。これは聖騎士になる際に得たサバイバルスキルの一つで、戦地や任地で食料に困った際は、猟をしたりして食材を得ていたからだ。
熊はもう、何度か遭遇して、その度に威嚇して追い払っている。
「まあ、家まで来て荒らしたりする訳ではないからねぇ」
さすがに家の付近まで来て倉庫でも漁られたら、駆除は考えている。
「いいよ。今度街に寄ったら、君の望む物を買って来るよ」
「ありがとう」
アレックスは相変わらず長い髪のまま、青年の姿だった。
それなのに、ここに初めて連れて来られた日以降、私と同じベッドで眠ることすらなく、キスやハグもスキンシップの域を出ないままだった。
私から、そのことを言うのも何だか憚られて、結局うやむやのまま、日々を過ごしていた。
なぜ、私を抱かないのだろう?
そのチャンスはいくらでもあるし、その気になれば彼は私を好きに出来るのに。
「どうかした?」
少し考えに耽っていたのを見透かされたのか、アレックスが首を傾げて見つめていた。
「ああ、別に何でもない」
「そう?」
この時の彼の考えなど、私には知る由もなかった。
そしてもうすぐこの穏やかな生活に終わりが来ることも、私はこの時はまだ、全く気付いてもいなかった。




