09 甘い監禁生活の始まり
次に目覚めた時、見覚えのない天井が見えて私は慌てて体を起こした。
辺りを見回して、ここが泊まっていたホテルの部屋ではないことを知る。明らかに別の場所だ。
それより、私はなぜ何も着ていないのだろう?
最悪の考えが頭をよぎる。
アレックスにキスされて、私はどうなった?
のろのろと立ち上がって、部屋の中を改めて見回す。
古いがきちんと整えられた寝室。置かれた家具や調度品はごくごく質素なもので、アレックスの趣味とは些か違って見えた。
「目が覚めたんだね」
不意に声を掛けられて、私は思わずビクッとして振り返る。
伸びた長い髪はそのままに、真っ黒いローブを着込んだアレックスがいつのまにか背後に佇んでいた。
まるで、ずっとそこで私を見ていたかのように。
さっきまで、確かにこの部屋の中には私一人だけだった。
私は無意識に彼から後退りして、壁際にあったチェストにぶつかり、上に置かれていた花瓶を落としてしまった。
挿していた花が落ち、床が水浸しになった。
「ああ、割れちゃったね。でも気にしないで?」
たじろぐ私に、彼はまるで何でもないことのように言った。
次の瞬間には花瓶はすっかり元通りになっていたからだ。
「バスルームはそちらの奥のドアだよ。そこのクローゼットに君の着る物を用意しておいたから」
私が裸であることを問い詰めたかったが、それはこの状況では愚問だろう。
「どうして?」
「どうしても君を諦められなかった。君を騙し、強引な手を使って君を自分のものにした。どれだけ僕を怒って、なじってくれたって構わない」
頭の中で、ガンガン何かが鳴り響く。
アレックスの告白は、何よりも許しがたい発言だった。
私の意思など無視して、強引に想いを遂げたんだ。
それはとても悲しいことだった。
私と彼の信頼関係が、崩れてしまった瞬間でもあった。
「ここは、僕の昔の住まいなんだ。朽ちてボロボロになっていたけれど、当時の姿のまますっかり復元した。ここからはもう逃げられないよ? この森は僕の庭。結界が張ってあるから、誰も入って来られない」
つまり、私はここから逃げられないし、誰も助けに来れないということになる。
「私をここに監禁する気なの?」
アレックスは口元に微笑を浮かべながら言った。
「この家の中や、森の中ならもちろん自由にしていいよ。そういえばお腹空いたろ? 何か用意しよう」
「何も食べたくない」
アレックスは黙って、部屋を出て行った。
私はすぐさまバスルームに向かった。洗面台の前で、鏡に映った姿を見て絶句した。
──そこには身体中に刻まれた情欲の証が。
首筋のキスマークを思わず手で隠し、私は自嘲的に笑った。
どうせこれを見る人はアレックスだけなのに。
私は手早くシャワーを浴びて、クローゼットの中から適当な服を着た。
ベッドに腰掛け、一息つく。
さて、私はどうすればいいのだろう?
すると今度はちゃんとドアのノックの音がして、アレックスが食事を持って入って来た。
「ご飯持ってきたから」
「いらないって言った」
アレックスは私に構わず、ベッド脇のサイドテーブルに食事を置いた。
「我儘言っててもダメ。食べるものはちゃんと食べないと」
「約束したよね? 私の気持ちが外に向いたら、きっぱり諦めてくれるって」
アレックスは黙ったまま、そのまま私の隣に腰を下ろした。
「ここから解放してよ。もう、兄上の所に戻るよ」
「それでお兄さんと結婚するの?」
それには私は答えられない。兄上はやっぱり家族で恋愛対象ではない。
「知ってるよ、ジーンにとってお兄さんはお兄さんだって」
「でも僕は違う? そうだろ?」
私はアレックスから顔を背けた。こんなことをされても、やっぱりアレックスを嫌いにはなれない。
「二人の時間はたっぷりある。ここで、君が僕に気持ちを向けてくれるまで尽くすよ」
「約束と違う!!」
激昂した私にも、アレックスは冷静だった。
粥なのか、リゾットなのか一見分からないものをスプーンでひと匙掬って、私の口元へ持ってきた。
「ほら、アーンして」
「いらない」
プイと顔を背けた私に、アレックスは仕方ないといったような表情をした。そのまま自分の口の中に入れた。
「ん、美味しいよ?」
そういえば、今の時間が何時なのかも分からないけれど、しばらく何も口にしていないのは間違いなかった。
喉だってもうカラカラだ。
「じゃあ、せめて水くらい飲んで?」
私は無言で首を横に振った。
アレックスは小さく溜め息をついて、自分で水の入ったグラスに口を付けた。
突如、体の動きが痺れたように拘束されて、動けなくなった私に、彼は私の顎を引き寄せるようにして口移しで水を飲ませた。
「んんん!!」
冷たい水が喉を通り過ぎていく。まさか口移しで水を強引に飲まされるなんて!!
そしてそのままベッドに押し倒された。
強引なキスが続き、私はそれを受け入れる他ない。
「このまま愛し合おうか?」
そう言って私にのしかかる彼は、あのあどけない年下の可愛い子ではなく、完全に力強い一人の男だった。
「やめて!!」
「ちゃんと食事を取るなら、やめてもいいよ?」
私は仕方なしに頷いた。アレックスはぱっと体を起こして、ベッドから立ち上がった。
「じゃあ、ご飯はちゃんと食べてね。僕はちょっと色々用事があるから」
用事とは何だろうか? でも、私が気にすることではないのかもしれない。
その直後に私の体の動きがすっかり元に戻って、アレックスは私を振り返って言った。
「二人だけの結婚式を挙げよう。夕方には戻るから、それまでおとなしくしてるんだよ?」
まるで子供に諭すかのような、優しい口調だった。
何も答えない私を無視して、そのままドアから部屋を出て行った。
私はとりあえず食事に手を伸ばした。
ここから逃げるにしろ、何か食べないことには力が出ないからだ。
味はよく分からなかったが、一口食べると弾みがついて、あっという間に全て平らげてしまった。
ドアに外から鍵がかけられている様子はなかったので、私は部屋の外に出てみた。
すぐ広い居間があって、ここもやはりアレックスの普段の趣味とは少し異なる感じがした。
王族の彼は、やっぱり値の張る調度品が好きらしく、大公家の屋敷の彼の部屋はそういったもので溢れかえっているのに、ここはまるで違った。
避暑地にある別荘のような? そんな趣の部屋だった。
それでも、最低限置かれた調度品はかなりの年代物。ひょっとするとこういった物の方が価値があるのかもしれない。
私は兄上と違い、目利きではないので詳しくは分からないけれど。
辺りを見回しても、アレックスの姿はどこにもなかった。
この家の中にはいないようだ。
私は玄関から外に出た。
一面に広がる光景に絶句した。この家は完全に森の中に孤立して建っていた。
深い深い森だ。木の葉が風で揺れる音、鳥のさえずりだけがそこにはあった。
この森を抜けて、家に帰れるのだろうか?
どちらに向かって歩けばいいのかも、さっぱり分からなかった。ここからは逃げられないとアレックスは言っていたけれど、試してみないことには何とも言えない。
私は意を決して森の中に進んで行った。早足で森の中を歩く。そこは普段人が通らないことが丸わかりなほど荒れていた。私の靴は部屋履きのままだったので、水捌けの悪い所を通ったら、みるみるうちに浸みてドロドロになってしまった。
森の中はまだ昼間だというのに、木々が鬱蒼と生い茂るせいか薄暗く、気味悪く感じる。
──果たしてここを抜けれるのか?
頭のどこかでここからは抜けられないような気が漠然とした。すぐその考えを、頭を振って搔き消す。
私は何時間もただまっすぐに歩き続けた。
代わり映えのしない景色、何度も同じ所を通っているような気もする。そのうち、一つの木のうろの形が気になって、私は落ち葉を両手で掬ってうろに詰めた。
そしてまたまっすぐ歩き始めて、しばらく歩き続けると、またあのうろの前に出た。うろの中には私がさっき詰めた落ち葉が入っていた。
同じ所をぐるぐる歩かされている。それはもう明白だった。




