2話
小山内さんはその後も智子さんとの想い出を嬉々として語り、時に少し寂しそうな表情で過去を振り返ったりと、自分の大切な人生の一部を共有するかの様に丁寧に語ってくれた。
それは本当に大切にしていた仕事を誰かに引継するかの様に思えた。
小山内さんも定年退職が近い。という事はきっと人生の終末も俺よりは早く迎えるという事だろう。改めて思うが俺とは20歳以上も歳が違う。
そんな長い人生の中でこんなに甘酸っぱくほろ苦い思いをしたのは始めてだったのだろう。
ご結婚された奥様には申し訳ないが、小山内さんが最も青春し恋い焦がれたのは彼女だったのだ、というのは話の熱でよく理解出来た。
カウンターにいた男性の勘定をすませた女将ーー智子さんーーは店先まで男性を送り届けた後、エプロンを外しながら一息をついた。
時計は21時を回った所だ。ちなみにここまでの客は俺たちとカウンターの男性のみだった。
「お疲れさま」
労う小山内さんに智子さんは、ちょっと待ってね、と一度奥に戻りエプロンを置いて再び戻ってきた。
「智子さんも何か飲みなよ。僕に付けといてくれればいいからさ」
「いつもありがと、じゃあ頂くわね」
そう言って冷蔵ショーケースから瓶ビールとグラス3つを持ってきた智子さんは僕と小山内さんにお酌をしてくれた。
手酌をしようとしていた智子さんに「ちょっちょ」と瓶を取り上げ小山内さんが智子さんのグラスにお酌をする。
微笑みながらされるがままの智子さんと小山内さんの姿が夫婦のように見えた。
「じゃ、まっとりあえず」
小山内さんと智子さんの「乾杯」という声に僕もグラスを掲げた。
「懐かしい話をしていたのね」
「ん?ついね。喋り過ぎた感はあるかな」
「ほんとに、私も混ざりたかったわ。仕事が手につかないったら」
「ははは、しかしもう随分昔の様に感じられるね。あれから20年以上も経って、僕も智子さんも色々あったね」
「そうね。あなたは結婚して、子供も出来て。私はずっと独り身で、ってもちろん嫌みじゃないわよ?」
笑いながら「分かっているよ」と答える小山内さんを見て智子さんもまた控えめに笑っていた。
「会社だってもうすぐ定年でしょ?退職した後何か考えているの?」
小山内さんは顎に手を当てて、うーん、と考えている。本当に特になにも考えていなかったのだろう。
少し悩んだ後、ふと思いついた様に小山内さんが言った。
「もう一回、青春をやり直してみようかな、ってね」
「あら素敵」、と言う智子さんに笑いながら「もう遅いか」というテンポの良い切り返しを聞いているとまるで夫婦漫才を見ているかのようだった。
その後智子さんからこの店の事を色々聞いた。
店の名前である「紫陽花」の由来は、花言葉にちなんで、店にいる全員が和気あいあいと過ごして貰える様にー、というのは建前で、商売繁盛や金運があがる花だから、という単純な理由だそうだ。
料理好きだった智子さんのお父さんが脱サラして開いた店だという。
世間が浮かれたバブルの時期には神田に支店を出すぐらいは儲かっていたが、弾けて以降は支店を潰し、客足も売上もじり貧、今は休日こそまずまずの客足ではあるが平日はからっきしだそう。
「私もいい歳でしょ?父も母ももう亡くなったけど、貯金もそこそこあるの。多分質素に暮らせば過ごせるぐらいに。だからそろそろかな、とは思っているの」
「店閉めたら、どうするんだい?」
グラスに残ったビールを一気にあおった小山内さんは寂しそうな表情で言うと、智子さんはその空いたグラスにビールを注ぎながら「そうね」と続けた。
「私も青春を、もう一度やり直してみようかしら」
パッと明るく振る舞った智子さんの顔に寂しさは感じられなかった。
むしろ何か吹っ切れたような潔さや未来への希望を感じる。
「そっかそっか」
小山内さんはその表情を見て、満足気に笑った。
3人しかいないお店に、二人の爽やかな笑いと空気が流れ込む。
それは昔、とうの昔に感じた「家族」の空気。
ふとカウンターに目を送ってみると、写真が一枚、装飾も地味なフレームの写真立てに飾られていた。
随分昔に撮られたであろうそれには、二人の男女が笑顔でピースを決めて写っていた。
写真の古さもありそれぞれが誰だかは分からなかったが、あえて智子さんに聞こうとは思わなかった。
写真立ては一点の曇りも埃もなく、中の二人がこちらを見つめて微笑んでいるように思えた。
「皆川君、そろそろ行こうか」
時計をみると22時半を回っている。
「智子さん、ごちそうさま。はい、お勘定。お釣りは少ないから取っておいて」
「ありがとうございます。久しぶりに楽しかったわ。皆川さんも今日は付き合ってくれてありがとうね」
「いえ」
手荷物をまとめた俺たちに智子さんは「おみやげ、持って行って。明日の朝にでも」と包みを渡してくれた。
店先まで送ってくれた智子さんに一礼をして、俺たちは駅に向かう事にした。
曲がり角に差し掛かる所でふと後ろを見てみるとまだ俺たちを見送ってくれていた。
俺の視線に気づいた彼女は笑顔で控えめに手を振ってくれた。
「ありがとな、皆川君。付き合ってくれて」
「いえ」
少し蒸し暑さが戻り、肌に張り付く湿気が産毛を刺激する。
明日は曇りのち雨との予報だから、きっと不快指数は高めだろう。
「よかったよ、最後が君と一緒で」
「いえ、そんな」
小山内さんのその言葉に、何か突っ込むことはしなかった。
駅に着いた俺たちはそれぞれの電車に乗り、帰路へ着いた。
家に帰り包みを開けてみると、おにぎりが2つと漬け物が入っていた。
数年は使っていないだろう皿を戸棚から引っ張り出し、簡単に盛り付けをしてからラップをかけ冷蔵庫に閉まった。
そういえば小山内さんに御礼を言いそびれたな。明日ちゃんと伝えないと。
あと、明日は久しぶりに早起きをして朝ご飯を食べよう。