1話
定時を告げるチャイムが聞こえる。
それぞれが席を立ち、タイムカードを押して退勤していく見慣れた光景。
俺もその光景の内の一人。
臭いと湿度に溢れた満員電車に揺られ30分、車内の人をかき分けようやく地元駅のホームに降り立つ。
途中のスーパーでいつもの総菜と弁当、それとウーロン茶がなくなったので2リットルのペットボトルを一本買い帰路に就く。自宅は駅からおおよそ10分程の距離だ。
木造40年二階建てアパートの106号室、恐らく建てた時から変わらない簡素な錠に鍵を通すが、毎年梅雨の季節は中々回らない。
扉を開けると木造建築独特の匂いが俺を出迎える。前腕にぶら下げていたビニール袋をひとまず床に降ろす。ぶら下げていた所にはひもが食い込んだ赤い跡が出来ていた。
居間のテーブルに放ってあるエアコンのリモコンを拾い上げ、除湿24度を設定する。ピッという音と共に比較的新しめなエアコンの吹き出し口の羽が上下に踊り出した。
ジャケットをハンガーに掛け、買ってきた弁当を電子レンジで温める。自炊はもう10年程していない。
温めた弁当を居間まで持って行くのは面倒なのでキッチンのシンクで夕食を取る。テレビを観ながら食事をする習慣は元々ないので、どこで食べても同じだ。
ペットボトルはそのまま口飲みをする。一人暮らしで何年も人を上げた事のないこの家にはコップに注ぐ意味をなさない。洗い物が増えるだけだ。
夕食を終えたあと、ペットボトルをほとんど空っぽの冷蔵庫に放り込み、風呂に入る。
もちろん湯船は張らず、シャワーだけで済ます。
べたつく身体を石鹸で洗い流し、早々にバスタオルで身体を拭き終えた俺は、リモコンを拾い上げテレビを付ける。座面が痛んだ座椅子にもたれ掛かりながら眠くなるまでコマーシャルが流れれば違う局へチャンネルを回す。内容は頭に入っていない。
11時を回る頃、ようやく瞼が落ち始めてくる感覚をアラームに俺は寝床に着く。布団を被ってしまえば朝まで苦労なく眠れる。
社会人になった頃からか、目覚まし時計が鳴る5分前に起きる様身体に時間が染み着いていた。
5分間を布団の中でうだうだと過ごし、鳴ったタイミングで俺は布団をめくり上げ身支度を整える。朝食は取らない。
早々と家を出る俺は簡素な錠に鍵を掛け、30分の満員電車に揉まれ、会社へと辿り着くのだ。
たった十数行で完結する、ある意味原始的な生活。これが今の俺の全てである。
生活も仕事も、ここ5年で苦労した記憶はない。
凹凸や障害物のない平坦な道を進み続ける果てには何が待っているのだろうか。
思えば感情を表に出したり、仕事以外で人と会話しなくなってからもう何年が経つだろう。
元々他人と話す事が得意ではなかった俺は、新入社員の頃から口べただった。もちろん電話を受けるのも架けるのも得意ではない。
同期や同僚に飲み会に誘われても、テーブルの隅で愛想笑いを浮かべるのに必死で俺が何か発言をする事はなかった。そんな俺はいつしか会合に誘われなくなった。
数年後、仏頂面で愛想のない俺に言い渡された新しい配属先はPC事務や雑務がメインの部署だった。
部内には数名の主婦パートと、小山内さんという直属の上司が1名。
小山内さんは年齢は60間近でそろそろ定年退職を控えているそうだ。
みな揃って自分の作業に集中している為、就業中に必要な会話以外はしない。
営業部署にいた頃、バカみたいな大きな声で無駄な会話ばかりだった先輩や同僚に息苦しくなっていた俺には、ここの環境はまさに天国に思えた。
そこまで人数の多い部署ではないので、周りに耳を傾けているとそれぞれが様々な音を発しているのが分かる。
キーボードを叩く音、ペンが紙を走る音、呼吸、聞こえて来る様々な音は確かにそこに人間がいるのだと意識させてくれる。そもそも人は嫌いではない。あくまで会話が苦手なだけなのだ。
数日経ったある日、デスクで昼食を取っていると珍しく小山内さんが話しかけてきた。
「皆川君、今晩暇かい?」
「ええ、特に予定はないですが・・・」
「そうかそうか、良かったら食事に付き合ってくれないか?もちろん僕のおごりだ」
小山内さんから食事に誘ってくれるなど、この部署に異動して来てから初めての事だった。
多少戸惑いを感じながらも、いつも朗らかな小山内さんと二人で食事をするぐらいは許容範囲かと思い誘いを受けることにした。
「分かりました」
「おお!よかった。では業後にまた」
そう言って目をカッと見開いた小山内さんは、満足気に自分のデスクに戻っていった。
小山内さんがあんなに嬉々の表情を見せたのは初めてだったので、俺の中で少し小山内さんへのイメージが変わった。もちろん悪い方向に、ではない。
定時のチャイムが鳴った。
今日の仕事も無難に終わらせた俺は一伸びした後、小山内さんのデスクの方に目を向けた。
どうやら今日入ってきた案件がまだ片づいていないらしく、まだパソコンとにらめっこを続けている。
「小山内さん」
「おお、皆川君すまん。あと30分程で片づくと思うんだが・・・。先に店に行っててくれないか」
「はぁ」
「僕の名前で予約をしてあるから、先に一杯やっててくれ。場所はここだ」
そういってグルメサイトから出力した印刷を少し申し訳なさそうに手渡された。
「分かりました。では先に行ってます」
そういった俺に小山内さんは微笑みを顔に浮かべ「なるべく早く行くからな」と俺を送り出した。
6月も半ばに差し掛かり、もう18時を過ぎているがまだ外は明るい。
幸いな事に今日は晴天に恵まれていた。だが気温もそこまで高くなく、風に乗る空気も湿っぽくない。こんな日に世間はビアガーデンに行きたがるのだろうなと思った。
店は駅から少し離れた裏路地にあった。
こじんまりとした個人経営の居酒屋で、その純和風の佇まいは昔の家屋をそのまま流用したんだろうなと想定出来た。こういう雰囲気は嫌いではない。
引き戸を開けると、戸に付いていた鈴がチリンと音を奏でた。
テーブルが2席、カウンターが6席(内2席は食材の段ボールが積んであるが)の外観の期待を裏切らず中もこじんまりとした木造の内装だ。
カウンターには常連と思われる初老の男性が1名。それ以外の客は俺だけだった。
「いらっしゃいませ」
40代ぐらいの着物を来た細身の女将が、奥から暖簾をくぐって草履を擦る音と共に現れた。
「小山内で予約しているのですけども」
「あ、はいはい。お待ちしておりました」
女将は「こちらにどうぞ」と壁際のテーブル席に案内してくれた。
この場合の上座、下座はどっちだっけな、と一瞬迷ったが所詮些末な事だと思い気にせず奥の椅子へ腰掛ける。
「先に始めてますか?」
「じゃあ、とりあえず生を」
「はい、かしこまりました」
穏やかな口調と笑顔を絶やす事なく、注文を受けた女将はまた裏へ戻っていった。
きっと何十年もこういう接客業をされているのだろう、どこか安心する事が出来る。
そういえば「とりあえず生」なんて台詞を最後に発したのは何年前の事だろう。
久々に人間界を降りたって俗世に身を委ねている様な感覚がどこかおかしかった。
「お待たせ致しました」
冷凍庫で冷やされた霜付きのジョッキになみなみと注がれたビール、そしてお通しの小鉢が運ばれてくる。
「ごゆっくりどうぞ」
女将は再び暖簾の奥へ戻っていった。早速キンキンに冷えたビールを頂くとする。
凝固点に近い冷たさの強炭酸が喉を通り、胃に到達する瞬間身体から重力が解放されたような浮遊感と幸福感で思考が支配される。緊張から解放された脳がプリンの様に柔らかくなった気さえする。
「ふぅ〜」
たまに自宅で飲む缶ビールとはやはり違うな、と実感出来る。一気にジョッキの半分までいってしまった。幸せとはかくも身近にあるものだ。
煮物の小鉢を適当に突ついていると、小山内さんがようやく到着した。
「遅れてすまんね」
ハンガーに上着を架け、深々と椅子に腰掛けた小山内さんもまた「とりあえず生」と女将へ早速注文した。
「待たせたね。何か頼んだかい?」
「いえ、まだ」
ちょうど良く生ビールと先ほどの小鉢が小山内さんの前に運ばれてきた。
「智子さん、注文いいかな?もつ煮とお新香盛り。今日のおすすめの魚は何?」
「今日は鮎が入っているので、塩焼きにしてますよ」
「いいね。じゃあ2人前。あ、皆川君は鮎大丈夫?」
「はい」
「わかった。じゃあとりあえず以上で」
「はい、かしこまりました」
「じゃあとりあえず、乾杯」
お互いのグラスが控えめにチン、と音を立てる。
早速ジョッキに口を付けた小山内さんの喉からゴクゴクとまるでコマーシャルの様な音が鳴る。最初の一口を味わった小山内さんも、俺と同じ恍惚の表情を見せた。残業終わりだ、喉も乾いていただろう。
「はぁ〜、生き返るってのはこの事だな。皆川君も遠慮しないで飲んでくれよ」
「はぁ」
ジョッキに残ったビールが半分程減っているのを見て小山内さんが気を利かせてくれたようだ。ビールは腹が膨れるからな、次はしっとりとウーロンハイあたりを頼もう。
「こじんまりとした店だろう」
「よく来られるんですか?」
「うん。始めて来たのは俺が30を過ぎた頃だったかな。結構でかいトラブルをやっちゃってさ、当時の先輩に慰めで連れてきて貰ったのが始まりかな」
お待たせ致しました、とテーブルにはそっと先ほど頼んだ注文が運ばれた。
さっそくキュウリのぬか漬けに手をだした小山内さんは「ここの漬け方が好きなんだ」とポリポリ音を立てながら楽しんでいる。
俺は大根のぬか漬けを食べてみる。なるほど、ぬか漬け特有の臭みは強いがしつこくなくガツンとした塩気がとてもいい。
「昔っからこの味なんだよ」
「そうなんですか」
もつ煮も肉汁と出汁をたっぷりと染み込ませた野菜がメインのもつに引けを取らないぐらいうまい。久しぶりにちゃんとした食事を取った気がする。
気付けば小山内さんのジョッキは空になっていた。
俺のジョッキを指さし「何飲む?」と聞かれたので「ウーロンハイで」と答えた。本来であれば後輩の俺がこういう事をやるべきなのだろうが、こういうタイミングや間がよく分からない。全て小山内さんに委ねる事にした。
「生とウーロンハイで」
「はい、かしこまりました」
ジョッキに少しだけ残った分を一気にあおぎ、そのまま女将へ手渡す。
「珍しいわね、小山内さんが誰かと一緒に来るなんて。会社の方?」
「そうそう、同じ部署の部下なんだ」
「あ、皆川と申します・・・」
とっさに鞄から名刺入れを出そうとする俺の仕草に小山内さんと女将が顔を見合わせて苦笑する。
「皆川さんね。今後ともぜひご贔屓に。ゆっくりしてっいってちょうだい」
にこっと笑った女将はお盆に空いたジョッキを2つ乗せてまた裏へ戻っていった。
「若く見えるだろう」
「40代ぐらいですよね?」
「いや、俺の1個下なんだ」
俺の回答に目をカッと見開いた小山内さんは「50代後半には見えないよな」とくすくす笑っている。
確かに肌は綺麗で着物に似合う薄化粧もどこか艶やかで、目がくりっとしている所謂美人系の顔立ちだ。もしテレビに出ていたとしても納得出来る。
「ここだけの話、僕、昔惚れてたんだよ」
そういう小山内さんは照れながら少年の様に頭を掻いてみせた。
「初めて見た時一目惚れでさ。それから何度も彼女と話したいが為に通ったよ。誰かと行くとゆっくり話せないから、ほらそこのお客さんみたいにカウンターに一人でね」
カウンターに座っている男性は無言で升酒をちびちびとやっている。時折ふぅとため息が聞こえた。
「話したい、と言ってもああいう風に黙っていただけだったけどね。彼女から話しかけてくれるのを待ってたんだ。寡黙でちょっと影がありそうなカッコいい男を演じればいける、と思ってね」
小山内さんはカウンターの男性の背中を横目で見つめながら続けた。
「でも全然ダメだった。だからある日思い切って話かけてみたんだ。しかもいきなり、独身ですか?ってね。最低だろ?今思えば完全にナンパだったなぁ。折角寡黙な男を演じてたのに」
こういう時に入れるうまい返しが分からないので、僕は淡々と首を軽く縦にふる。きっとここは笑い飛ばして欲しかったんだろうな。
「いつも話しかけてこない僕にいきなりそんな事を言われて彼女もきっと驚いたと思う。だけど彼女は屈託のない笑顔で、はい、と答えてくれたんだ。それに思わず前のめりになって、僕もです!って答えたらさすがに苦笑いしてたけど」