四話
病院に着くと、自動ドアが開ききらないうちに中へと駆け込み、受付で病室を尋ねた。
そして、エレベーターを待つのはじれったかったので、母さんのいる3階まで、階段を一気に駆け上った――。
扉を勢いよく開けるわけにはいかないので、病室の前で一度、深呼吸をしてから、静かに中に入る。
中を覗くと、母さんは点滴を受けながら、仰向けで寝ていた。
どうやら、まだ目は覚ましていないらしい。
付き添っている看護婦さんがこちらに顔を向けた。
「水沢様ですか?」
「はい、そうです。母は、母は大丈夫なのでしょうか!?」
「脈は正常値を示しているので、命に別状はありません。おそらく、過労で倒れたのだろうと先生もおっしゃっていました。傍に付き添って差し上げてください。」
「わかりました。ありがとうございます。」
付き添いの看護師さんが退室すると、僕はパイプ椅子をベッド横に持って行き、母さんに顔を向けて座った。
そっと母さんの手を、両手で包み込むように優しく握る――。
握った手や腕は、いつの間にか細く、か弱くなっており、下手をすれば、骨を折ってしまいそうだった。
「こんなになるまで働くなんて…………。僕が頼りないのはわかるけど、倒れるまで無理するなよ……」
改めて、母さんに無理させている自分に腹が立つ――。
もっと早く就職が決まっていれば、そもそも、リストラされないように働いていれば、こんな事態にはならなかっただろう。
しかし、今さら後悔したところで、時間は巻き戻らない――。
「母さん、正社員じゃなくて、アルバイトだけど、次は絶対に受かるからな。これ以上、母さんに無理させないようにする……。母さんが目を覚ましてくれたら、今度、喫茶店の仕事の見学に行く予定なんだ。今日、面接だけさせてもらったけど、店長の桜川さん、とても良い人だったよ。あの喫茶店なら、僕でもやっていけそうな気がしてる。」
未だ目を覚まさない母さんに優しく話しかけた。
顔を近づけると、すーすーと穏やかな寝息が聞こえたので、ひとまず安心して良さそうだった。
僕は、母さんがいつ目を覚ましてもいいように、できるだけ長い間、傍で見守り続けた。
そして、夜中の12時を過ぎ、僕がうとうとし始めた頃、母さんはゆっくり目を覚ました。
「う……」
「っ!母さん……?」
ゆっくり、ゆっくりと重たい瞼が開いていく――。
僕は母さんの様子にハッとして、一気に目が覚めた。
長い間寝ていたせいもあり、母さんは、喉の奥から絞り出すような、小さな声をあげた。
「こ……こ、ここは……?」
「母さん、大丈夫?ここは病院だよ。」
「び、びょう……い……ん……?」
僕は母さんが聞きとりやすいように、優しく、ゆっくり話した。
「そう、病院だよ。母さん、仕事中に倒れたんだ。」
「そう……かい……」
「うん。とりあえず、病院の先生、呼ぶね?」
そして、僕はナースコールを押した。
看護師さんに母さんが目を覚ましたことを伝える。
すぐに来てくれるそうだ。
僕は母さんに向き直る。
「母さん、大丈夫?しんどかったら、寝てていいからね?」
母さんはまだ体がついていかないようで、再び、瞼を閉じた。
やがて、看護師さんたちがやって来て、母さんを呼び起こし、体調のチェックなどを始めた。
話によると、明日一日だけゆっくり体を休ませれば、明後日の昼以降には退院できるらしい。
僕はお礼を言って、退室する看護師さんたちを見送ると、再び母さんの傍に座った。
そして、穏やかに寝息を立てる母さんにひと言、「おやすみ」とだけ呟いたのだった――。
♢
ゆっくり休んだおかげか、退院する頃には、母はかなり元気になっていた。
今も、手際よく着替えなどの荷物をまとめたり、復帰の電話を職場にかけたりしている。
僕もエスポワールに電話をして、改めてお伺いする日を決めた。
「ほんと、迷惑かけたね。ごめんよ。」
母さんが僕に謝罪する。
「気にしないで。元はといえば、僕が母さんに苦労をかけさせているのが悪いんだし……。早く、母さんが楽できるよう、頑張るよ。」
「ありがとう。まぁ、あんたならきっと大丈夫さ。母ちゃんも期待してるからね。」
「プレッシャーかけるなよ……」
「はははっ」
「でも、本当に、無理はするなよ?母さんもいい歳なんだから。今回のことがあったから、休みつつ仕事をしたとしても、職場の人は何も言わないんじゃないかな。だから、無理はしないと約束してほしい。」
「そうだね……ありがとね。」
そんなやり取りを終えた後、僕たちは病院の食堂で昼食を取ってから、退院手続きをして、自宅へ帰った――。
♢
数日後、改めて、僕は喫茶『エスポワール』へ来ていた。
店員さんにスタッフルームへ案内してもらい、桜川さんのところへ行く。
桜川さんを視界に捉えると、僕はペコリと会釈した。
「おはようございます。先日はお世話になりました。」
「いえいえ、お母様は大丈夫でしたか?」
「はい、もう大丈夫です。この度は、わがままを聞いてくださり、ありがとうございました。」
「元気になったのなら、良かったですね。やはり、家族は大切にしたほうが良いですから。さて、本日はお店を見学していただきますが、その前に、これに着替えてもらえますか?」
そう言って、エプロンを手渡される。
僕はスーツの上着を脱いで、白いカッターシャツの上にエプロンを付けた。
そして、桜川さんの案内により、見学会が始まった――。
♢
まず最初に、厨房の様子を見せてもらった。
手際がいいスタッフの皆さんによって、どんどん注文された品ができあがっていく――。
中でも、スイーツの盛り付けやラテアートの完成度の高さに、僕はとても感動した。
その時はたまたま、ワッフルの盛り付けを見学したのだが、完成したワッフルは、ソースやフルーツが色鮮やかに着飾っていて、食べるときに崩してしまうのがもったいないほどの出来栄えだった。
例えるならば、色合いと、盛り付けられている姿から、まるでアゲハチョウのようである。
今にも、お皿から羽ばたいて行ってしまいそうなほど、生き生きとしていた。
次に、ラテアートだが、僕が見たものは、可愛らしいクマのキャラクターが描かれていた。
そして、おそらく、注文した人が誕生日なのだろう。
クマのキャラクターと一緒に、女性のような名前と、『誕生日おめでとう』の文字も描かれていた。
ちなみに、クマのキャラクターは立体感を出すために、スチームミルクの部分がカップからはみ出るくらい使用されている。
描く様子も見ていたが、30秒くらいで仕上がったため、何が起きたのか、僕にはさっぱりだった。
周りを見渡すと、どのスタッフもテキパキと調理をこなしており、この店のレベルがどれほど高いのかを実感できたのだった。
ちなみに、僕は不器用なので、そうせざるを得ないような、何らかの理由がない限りは、厨房に近づかないほうが良いだろう。
作業の邪魔をしてしまうだけである。
また、こうして作業の様子を見ていると、ただ、自己満足で完成度を高くしているのではなく、お客様に喜んでもらいたいという気持ちが強いからこそ、これほどの完成度になっていることがわかった。
なぜならば、どのスタッフも、失敗しないように真剣に作業はしていたが、その目はキラキラと輝き、とても生き生きと働いていた。
「凄いですね……」
僕は感嘆の言葉しか出てこなかった――。
♢
厨房を見学し終え、5分程、小休憩を挟んだ。
そして、次は店内の様子を見学した。
注文の様子やレジのやり取りの様子を見る。
これらならば、僕にもできそうだった。
一連の作業を見届けた後、僕は桜川さんに話しかけた。
「本日はお忙しい中、私のためにこのような機会を与えてくださり、ありがとうございます。」
「いえいえ、ざっくりご案内したので、お役に立てたかどうか……。それで、いかがでしたか?」
「はい。まず驚いたのが、厨房のスタッフの方々のレベルの高さでした。おそらく、僕はなかなかついていけないでしょう。しかし、ここの方々はとても温かい心を持っており、ぜひ一緒に働いてみたいと感じました。どのスタッフも、お客様にどうすれば喜んでもらえるか真剣に考えているようで、特に、ウェイトレスさんがしていた、さりげない気遣いの数々は、私も真似をしたいと思います。そして、私もここで皆さんと一緒にぜひ、働かせていただきたいです。」
「なるほど、わかりました。では、以前させていただいた面接も踏まえて、合否を決めさせていただきます。決まり次第、改めてご連絡させていただきます。」
「わかりました。ぜひとも、こちらで働かせていただきたいと強く思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。」
こうして、スーツに着替えなおすと、改めてもう一度挨拶をしてから、お店を出た。
外に出ると、店の近くの桜の蕾が大きく膨らんでいた。
そして、早くきれいな花を咲かせたいと、強く強く主張している姿が、なぜか僕の目に留まったのだった――。