旧帝都
そう言うとラビンソンは掴んでいるジェネイルの服に更に力を入れながらお互いの鼻先がくっつく程顔を近付ける。
その際服の襟が更にが締まり「グエッ」とジェネイルは蛙が踏まれた様な声を出し抗議の一つでも言おうと思ったのだが、ラビンソンの形相を間近で見て抗議では無く声にならない悲鳴をあげる。
「良いか?ジェネイル。今までは国と言う後ろ盾とカースト……社会的身分制度による平民と貴族の壁に今まで守られて来たのだろうが、その全てが盾にも剣にもならなくなる。その意味が分かるか?怨み辛みを跳ね返す物が何も無いんだよ。今のお前は確かに貴族かもしれんが我々庶民と何も変わらない」
ラビンソンはここまで言うとジェネイルの服から手を離し、ジェネイルはそのまま尻から地面に落ちる。
その際ジェネイルは「グエッ」っと再度悲鳴を上げるが今回の悲鳴にはある種怯えにも似た感情も感じ取れた。
「で、どうするんだ?嬢ちゃん達」
「そうですね……ギルドルールの一つに『いざこざは決闘させる場合がある』というのを使い今回は決闘したいと思います」
「……今回の件は明らかにこのジェネイルに非がある。わざわざ決闘なんかしなくても然るべき手順を踏めばこいつを牢屋に入れる事も出来るのだが?それに国は今言った様にめまぐるしく変化している。今回此奴を牢屋に入れた所で出てきた時には君に復讐出来ない世の中になっている可能性が高い」
「そうですね……私もそう思います」
「だったら……」
「……それよりも、他人の手でどうこうするよりも自分の手で私達の主人をコケにした事を思い知らせてザマーミロと言ってやりたいのです」
今回の件をどう扱うのか聞かれたウィンディーネは自分の手で始末をつけると強い意志を持って返す。
どうやらウィンディーネは自分が思っていた以上に怒っている様である。
「では今日はもう遅いので明日の午後一時、ギルド闘技場でお待ちしております。大幅な遅刻または無断での欠席をした場合ペナルティーが付きますのでご注意下さい」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
「いえ、それでは明日の健闘を祈ります。……わ、私の分までボッコボコにしてやって下さい!応援してます!」
馬鹿どもに絡まれてから約二時間、日が落ち辺りはすっかり夜になったころウィンディーネ達はやっとの事で正式な手続きを終えた所である。
「やっと外の空気を吸えましたねー」
ギルドの外に出るとミセルが「んー……っ!」と一度大きく息を吸いながら伸びをし、そんな事を言う。
その際胸が強調されるのだが、あいも変わらずそこには果てしない絶壁が広がっていた。
因みにこのギルドを出る際、陽は落ちて辺りは暗くなっているからという建前を使い数組の男共がナンパしに来た事も疲れている要因の一つでもある。
あんなものを見せられ良くナンパできるなーとミセルは恋愛とは時に強気で押すべきなのかもしれないとある意味感心していたりする。
それにしても相手の気持ちを無視して強引にナンパなどはあり得ないのだが、女性は告白されるものであり男性は告白するものであるという常識を捨て自分からアプローチしに行くのもそれはそれでありかもしれないとミセルは思う。
しかしミセルが気になり始めた異性の男性にその様に分かりやすいシグナルや行動をした場合を考え、その結果起きるであろう恐怖の結果にふるふると頭を振り妄想を止める。
それに、もし恐怖の結果が起きなかったとしてもそれはある意味裏切りに近く恩を仇で返すような事をしたくないし、それで付き合えたとしても一生罪悪感は消えないだろう。
「でもまあクロ様自体が色んな意味で特殊すぎるしねー」
「そうなんですよ……日に日に募る思いは大きくなって行くし、もうどうしろと……」
自分の気持ちに蓋をして心の奥底にしまおうとした時、不意にレイチェルに話しかけられ思わずミセルは何も考えず返してしまい、気付く。
謀られたと。
「ち、ちちちちちちっちがっ!違うっ!違うから!なんか良く分からないけど違うから!いやーそうなんですよねー……違うんですよねー……レイチェルはあの瞬間騙されちゃったかなー……ごめんね、でも違うから」
「必死だけど顔が真っ赤じゃんミセル」
「クロ様を好きになってしまうのは仕方のない事ですからね」
「あらあらあらまあまあまあ」
「……ミセルは見る目がある」
「大丈夫っすよ!なんとなくそんな気はしてたっすから!これで確信が持てただけっす!」
「……………………うぅ」
もはやミセルは恥ずかしさでどうにかなりそうだし泣こうと思えば簡単に泣けるぐらい目に涙が込み上げて来る。
その涙を溢さまいと必死に我慢していたミセルなのだが「それもこれも全部クロ様が悪いのですから、今度責任を持ってみんな一緒にクロ様のお嫁様にしてもらいましょうね」という言葉を優しく言われミセルの涙腺がついに崩壊し涙を溢してしまう。
「私もっ……私もクロ様を好きになっていいんですか!?もう自分の気持ちに嘘をついてその気持ちに蓋をしないでも………良いんですか?」
「ミセルっ……っ!!」
そして思わず心の声が出てしまった瞬間、ミセルはセラに思いっきり抱き締められる。
「愛しき人への気持ちを押し殺し、自分に嘘をつく辛さは知っていたのに……あなたに同じ思いをさせていたなんてっ、気付けなくてごめんなさいっ!」
◇◆◆◇
私ことエマ・スミスは敬愛するイルミナ様に助けて頂き、そしてイルミナ様の主人であるクロ様の屋敷にて使用人として働く事になってから早くも数ヶ月の月日が経った。
仕事の主な内容は掃除洗濯が基本でそれを曜日毎のサイクルで持ち場を使用人全員が均等になる様に振り分けられている。
そして何より一番驚いた事はちゃんとした使用人でも破格である給金をイルミナ様の奴隷である私にまで同じ額を頂き、更に一日に働く時間は九時間、その内休憩は一時間、それとは別にお昼休憩まで頂け、更に休みが週二日にそれとは別に祝日と言う休みまでも頂けるという好待遇である。
普通奴隷であれば一日中働かされて質素なご飯が一回あれば良い方であり、たまにこの全てが夢で無いかと思ってしまう。
ちなみに勤務開始時間である朝七時から九時間後は自由時間である。
もはや一般的な暮らしよりも良い生活と言っていいだろう。
「さあエマ、買い出しに行きますわよ」
「……は、はい……ッ!」
「……その、まだ私が怖いのでしたら無理に……」
「今が幸せ過ぎて夢ごこちになってただけですので……大丈夫です」
「……本当に本当?」
「本当に本当の本当です……っ」
先輩使用人のボナさんに買い出しを誘われたのだが考え事をしていた私は返事に一瞬だが遅れてしまう。
その一瞬の沈黙をボナさんは未だあの時の事を気にかけていたらしく気遣ってくれるのだが、その気遣いが私には心苦しくもある。
それはまだここの使用人として働きだして数日経った頃である。
私の教育係に任命されたボナさんは普段は人間の姿をしているのだが、実は魔族らしく血を濃く引き継いだらしいボナさんの熊然としたその姿を見た私は一瞬怯んでしまったのである。
今思い出しても罪悪感を感じる程には悪い事をしたなと、「ほ、本当に怖く無い?」と未だ聞いてくるボナさんを見て思う。
イルミナ様に拾われる以前まで私は化け物の顔をしていたというのに。
「ど、どうしたのかしら?」
「怖く無いのアピール……です…」
しかしながら初見こそはびっくりしたものの今現在に至っては毎日欠かさず手入れをしているのが一目で分かる体毛の肌触りが地味に癖になりつつある私は、今はオーソドックスな人族の姿をしているボナさんにもう怖がってないという気持ちを込めそっと抱きつく。
今のボナさんは勿論可愛いのですが、魔族の姿のボナさんも愛嬌があって可愛いと思う。
だけど私に抱きつかれあたふたしながらも怖がられてなくて良かったとホッとしているのが分かるボナさんもそれはそれで可愛いかったりする。
「で、では買い出しに行きますよエマ!」
「ボナちゃんエマちゃん今日もおはようさん」
「おはようございますポールさん。今日のおすすめは何ですか?」
「おう、今日はボナちゃん達の為に取っておいた物があんだよ。やっと米が手に入ってな」
帝国旧都市にある城下町へボナは仲間がだしてくれたデモンズゲートを使いやって来ていた。
因みに崩れて旧王城に交代で常にクロ様の使用人が配置されておりデモンズゲートはそこに出現されるようになっている。
そして訪れた旧都市にある城下町へ食材を買い出しに来た二人なのだが、商店街通りを歩いていると顔見知りとなった店主などから挨拶などされる。
そのうちの店主一人が米が手に入ったとボナさんに告げるとボナさんは物凄い勢いで店主の元へと駆け寄るとズズイと身体を店主に近づけ手を握る。
その顔はプレゼントが届いた子供の様だが身体は大人の、それも物凄い魅力的な身体をしている為店主の鼻の下は心なしか伸びている。
その店主の後ろにはひたいに青筋が浮き出ている般若が立っているとも知らずに。
「本当にお米が手に入ったのですかっ!?」
「本当だよボナちゃん。あんたんとこの魔王さんには良くしてもらってるからね、米くらい何とかするさ」
「ぎ、ギブっ!ギブっ!」
ボナさんの言葉に店主の女将さんが対応するのだが店主は女将さんにコブラツイストの要領で関節技を決められている。
側から見れば物凄いシュールな光景である事はエマでも分かる為羞恥心を若干感じてしまう。
それにしても、とエマは魔王の使用人であるボナさんに友好的なこの商店街の人々の反応に最初は戸惑っていた。
しかしながらボナさんと商店街の店主達の会話を聞き纏めてみるに、クロ様が統治してから以前まで納めるべき納税額などその他諸々はまだ何も変わっておらず、比較的一般的な徴収の請求をされている様である。
ここでエマは以前と何も変わって無いのに何故店主達はボナさんを通してクロ様のお礼を言っているのかと疑問に思っていたのだが以前までは提示された納税額プラス色をつけた額を徴収されていたのだと言う。それも納税額よりも高い額をである。
税金という名目で受け取ってはいるがその金は国に流れる事はなく貴族の懐を肥やすのみである。
即ち税金の不正徴収に横領をこの国の貴族達は当たり前の様にしていたという事である。
更に道路補修や水路の改善など集めた税金は目に見える形で自分達の街に使われている光景も以前以上に見られる様になり、その光景はいかに以前まで税金が貴族達に食いつぶされていたのかを物語っていた。
そして一番の要因は、そもそも生粋の帝国国民でなければ愛国心なるものは極めて低いという事であろう。