009
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「……僕って、ほんとうに駄目ですね」
碧生は、正座をしながらうつむき、太腿の上に置いた手をギュッと握りしめた。
「本当は……ただ帰らなかったのではなく、ただ逃げていただけなんです」
「……逃げてた?」
俺がそう小さくつぶやくと、碧生は力なくうなずいた。
「青憧さんと黄雅さんのように、僕のことを良く思っていない方がたくさんいらっしゃるのは、当たり前だと思ってました。でも……それでも、僕みたいなヤツでも、姫様や姉上のように、暖かく迎え入れてくれる方がたくさんいることも分かってました…………僕は、怖かったんです。中途半端な状態で、逃げる場所を作ってしまえば、いつまでたっても僕は昔の自分のままの現状に、甘んじてしまいそうで…………だから、もっとみんなに認められるような、立派な神使になるまでは帰らないと、今思えば変な意地を張って、結局ずっと逃げていたんです。その結果、多大なるご迷惑をおかけしていることにも気づかずに、今まで来てしまったなんて……」
碧生が途切れ途切れにたどたどしく話す言葉を、みんな静かに聞いていたが、碧生の言葉が途切れた瞬間、鈴鹿が口を開いた。
「逃げる場所があることや迷惑をかけることは、そんなにいけないことかのぅ?」
「…………え?」
鈴鹿は、おそらく自分の答えは持っているのだが、あえて答えを尋ねるような聞き方をしているような気がした。しかし、碧生は目を丸くして、思いがけない質問に、あっけにとられているような顔をしていた。
「そうじゃのぅ……例えばの話、シラギクとぬしの立場が逆だったとするなら、シラギクのことを迷惑じゃと思うかえ?」
碧生は、うつむき加減でしばらく考え込んだあと、目線だけ上げた。
「……いえ。うまく想像出来ませんが、きっとそうは思いません」
「ならば、それが答えじゃ」
質問とその答えの意図が飲み込めていない碧生は、遠慮がちに首をかしげた。正直、俺も分かっていないので、碧生と一緒に首をかしげたい気分だ。
すると、スイがふっと小さな笑い声を漏らし、
「そうだよねー。鈴鹿なんて毎日迷惑かけまっくてるし」
と、軽口を叩いた。
そんなこと言ったら、怒られるんじゃ……
「余が迷惑をかけるのは当たり前じゃ」
開き直ってる!?
青花は、鈴鹿の隣で苦笑を漏らした。
「まぁ、こういうことだよ」
スイは手のひらを上に向けて、鈴鹿と青花のほうを指し示しながら、碧生に目配せをした。
「え、あの?」
「信頼関係がある者同士なら、多少迷惑かけたっていいじゃん。周りからみたら迷惑かもしれないことでも、本人同士はさほど苦にしてないよ」
「でも……僕は、誰かに信頼されているんでしょうか?」
「されてなかったら、シラギクだって三千年も一緒にいないし、まず神使に選ばれないでしょ」
スイがそう言うと、碧生は自信なさげな表情のまま、顔を上げた。
「碧生は、みんなにちゃんと信頼されてるの! 足りないのは自信だけなんだよ? お仕事だって出来るし、やさしいし、それにかっこいいし! この二人とは天と地の差よ!」
黙って話を聞いていたが、途中からずっと何か言いたげにうずうずしていた紅里が、耐え切れず感情を吐き出した。その紅里に盛大に指をさされた青憧と黄雅は、
「……お前、さっきから俺らの扱いひどくないか?」
「天と地の差は、さすがにヘコむぞ」
と、すっかり勢いを失くしていた。しかしその直後、
「つーか! ……たしかに俺らは身の程わきまえろって、姫様にお叱りを受けるような馬鹿だが……」
「お前は身の程わきまえすぎだろ! おかげで俺らが余計に馬鹿みたいじゃねーか!」
と、青憧と黄雅は、碧生に向かって勢いよく言葉を発した。すると、
「あんたらと足して二で割ったら、ちょうどよかったんじゃねーのー?」
今度は、いつの間にか部屋に入ってきて、ふすまの前であぐらをかいて座っていた黄恵が、右手に顎を乗せ、二人をからかった。
「「うるせー! 黄恵!」」
紅里の言葉を皮切りに、一気に騒がしくなった室内。
だけど、ただ騒いでいてうるさいのではなく、みんなが笑顔で、なんだか空気が温かいように感じてホッとした。
帰り際、碧生が里の人たちに挨拶に回っている様子を、お屋敷の外で見守っていると、
「今日は、碧生を連れてきてきれて、本当にありがとうございました」
と、青花に頭を下げられて焦った。
「えっ!? いや、俺は別に何もしてないから……」
「実を言うと、碧生のところへ里の誰かを使いに出すことも出来たんですよ」
「じゃあ、なんで……」
「余が行くなと言うたのじゃ。碧生が自らの意思で帰ってくるのを待て、とな。ぬしに、これを返しに来るときに連れて来いとは言うたが、まさか本当に連れて来るとはのぅ」
鈴鹿は、首飾りをそっと撫でた。
「ここに帰りたい気持ちもあったんだろうけど、自分の意思っていうか、今回はオレたちが半ば強引に連れてきちゃったけどね」
スイがそう言うと、
「そうじゃろうなぁ。まぁそれでも、ここに帰ってきてよかったと思ってくれたらそれでよいのじゃ。次は自分の意思で、欲を言うなら、もう一皮むけて帰ってきてほしいもんじゃのぅ」
と、鈴鹿は碧生を見て微笑んだ。
「お待たせしました!」
挨拶回りを終えた碧生は、走って戻ってきたせいで少し息が荒い。
「お疲れさまー。そんな急がなくてもよかったのに。ちゃんと挨拶出来たの?」
スイは、困ったような顔で笑った。
「はいっ、おかげ様で!」
「ならよかった。じゃあ、そろそろ帰ろっか。シラギクも心配だし」
「っ! そうですね!」
そう言うと碧生は、鈴鹿の前まで行き、背筋を伸ばして、
「今日は、ありがとうございました」
と、丁寧にお辞儀をした。
「礼には及ばぬぞ。ここはぬしの里でもあるのじゃ。いつでも帰ってこればよい」
「碧生。あなた、全然帰って来ないから、とても心配してたのよ。これからは、たまには顔を見せに来てほしいわ」
鈴鹿と青花の言葉を聞き、「……はい」と、小さくつぶやいた碧生。
「姐さん、一日に最低三回くらい、碧生のこと話してましたもんね」
「またな。お前、もうちょっと自信つけて来いよ」
「そうそう。そんで今度は、あのべっぴんの姉ちゃんと来いよー」
「紅里は、碧生だけ来てくれればいいもんっ! 碧生! 毎日帰ってきてもいいんだよー!?」
みんなが口々に碧生に言葉をかける。黄恵は青花に目くばせし、青憧と黄雅はぶっきらぼうながらも、碧生のことを気遣っているような言葉をかけ、紅里は涙目で碧生の腕にしがみついている。
みんなの顔を見回した碧生は、下を向きかけたが、すぐにゆっくりと顔を上げて、空を仰いだ。そして、顔をまっすぐ戻すと、
「…………僕は……今日、ここに来て、よかったですっ」
と、一言ずつ噛みしめるように、言葉を紡いだ。そして、瞳に涙を浮かべながらも、目を細めて笑った。それは作ったものではなく、自然に滲み出た心からの笑顔だ。
俺が知っている碧生は、いつもぎこちない表情で自信のなさそうな顔をしていた。だから俺は、碧生のこんな表情を初めて見て、少し驚いた。
しかしそれに驚いたのは俺だけではないようで、みんな碧生を凝視していた。まだ出会って間もない俺が変化に気づくくらいだから、きっとこの人たちはもっと変化を感じているはずだ。
そんな中、鈴鹿は二、三歩前へ足を進め、碧生との距離をつめると、
「そうか。それは何よりじゃ」
と、うれしそうに微笑みながら、碧生の頬に触れた。
鈴鹿の手に落ちた碧生の涙が、陽に当たりキラキラと光っていた。
俺たちは今、里を出て来た道を辿って駅まで歩き、電車に揺られている。生き帰りでだいぶ歩いたり、なかなか電車が来なかったりで、日帰りなのにちょっとした長旅に出たような気分だ。
表情もどこか晴れ晴れとしている碧生は、腕に大事そうに妖刀を抱き、
「お二人とも、こんな遠くまで……すいません」
と、電車の窓から、もう見えなくなった里の方向を見つめたあと、眉を八の字にして、軽く頭を下げた。
「気にしなくていいよ。こっちこそ、突然押しかけたのに、もてなしてもらっちゃって逆に悪かったかなって」
「うん……俺、なんか小判みたいやつもらっちゃったし……」
俺はポケットの中から、鈴鹿に手渡された手のひらサイズの小判のようなものを取り出した。楕円というより四角に近い形で、鈍く光る金色のそれには、よく見ると古代文字と思われる文字が書かれている。
帰る間際に呼び止められ、「碧生をぬしのところへ使いに出してよかった。礼を言うぞ」と、自らの着物の懐から出したそれを、断る間もなく握らされたのだ。
「よかったね。それ、ただの小判じゃないよ」
「ただの小判じゃないって?」
「それは、魔除けにもなるんですよ」
「……俺がもらっちゃってもよかったのか?」
「大丈夫ですよ。里には何枚もありますし、僕も一枚頂いて持ってます。家に置いておいてもいいんですが、そんなに重くないですし、カバンなどに入れて持ち歩くことをおすすめします」
「へぇ、そうなんだ」
「イッセーは鈍感だから、絶対持ち歩いたほうがいいね。人間が持つには十分すぎる効力あるし、結構ハンパないよ」
スイは一言多いが……なんかすごいものをもらってしまった、ということはなんとなく分かる。
電車を降りると、たいして綺麗なわけでもないが見慣れた景色に、少しホッとした。ここも都会ではないけど、里があったとこに比べたら都会なほうだ。
俺は何の迷いもなく、ごく自然と家に帰る方向を向き一、二歩足を進めた瞬間、後ろで「あ!」というスイの声がして振り向いた。
「どうしたんだよ?」
道の先を見ているスイと碧生と同じく、その視線を辿ってみると、俺が原因を発見する前に、
「あっ! シラギクさん!?」
と、碧生が声を上げた。
よく見るとたしかに、向こうから気分よさげに鼻歌を歌いながら歩いてきたシラギクが見えた。
「おー、もう帰ってきたのか?」
俺たちに気付いたシラギクは、片手を軽く上げた。
シラギクと合流したあと、とりあえず駅裏の人気のない公園に移動した。
「その顔を見る限り、やっぱり帰ってよかっただろう?」
公園のベンチに腰掛けたシラギクは、じっと碧生の顔を見て、確信を秘めた笑みを浮かべた。
「あの……はいっ! ありがとうございました」
シラギクの前に立っている碧生は、勢いよく腰を曲げた。
「ところでシラギク。すごく楽しそうだったけど、なにしてたの?」
「タタラのとこでお茶してた。今日は疫病神も来ててな、俗に言う女子会というやつだ!」
死神に祟り神に疫病神……どんな女子会だよっ! なに話すの!?
「あ、そうそう。今日は用事があるから帰ったが、疫病神がお前に会いたがってたぞ」
「えっ……」
っていうか、疫病神の用事って何。会うのは嫌じゃないけど、ちょっと勇気いる。今日じゃなくてよかった。
「いや、あの、えーっと……シラギクさん? 付かぬ事をお伺いしますが、お仕事は……」
碧生は、聞きたくないようなことを聞くように、恐る恐るシラギクに尋ねた。
「ん? あー……午前中はやった」
「午前中は!?」
シラギクは顔を背けると、
「…………つまんなかったから」
と、ぼそっとつぶやいた。
「つまらないって」
「からかうヤツがいないと、どうも調子が出なくてな」
「……シラギクさん」
碧生は、ガクッとうなだれた。
「まぁ二人いるし、今から頑張ればなんとかなるんじゃない? ならなそうなら、手伝うしさ」
スイがなだめるように声をかけると、碧生は顔を上げるなり素早くシラギクの手首をつかんで、
「今から一旦、神界戻りましょう! どれだけ残っているのか確認しないと!」
と、シラギクを立たせると、
「お二人とも、今日はありがとうございました! このご恩はいつか必ずお返しします!」
と、綺麗にお辞儀をした。そして俺とスイに向かい、緊張感なくのんきに手を振っているシラギクの手を引き、慌ただしく帰って行った。
あっという間に静かになった公園で、スイはついさっきまで二人がいた場所を見て、
「結局、シラギクも碧生がいないとダメなんだね」
と、笑みを浮かべた。
「うん。碧生、里に帰ってなんか変わったな。こんないきなり変わるもんなんだ」
最初は無理に連れて行って申し訳ないと思っていたけど、今はよかったと思う。
「そうだよ。人間だって何かのきっけけで良くも悪くも、いきなり変わっちゃうことあるし、それ考えたら碧生はだいぶ時間かかったほうだよ。ま、オレらの場合、人間みたいに短命じゃないから、変わるのに時間かかってたのかもね。言っちゃえば、人間と違って時間なんていくらでもあるわけだからね」
「……そういうもんなんだ?」
「さぁ?」
「なんだよそれ!」
人間がいきなり変わることなんて想像出来ないし、そういう人も今まで多分見たことがない。人間、そうそう変われないんじゃないか、というのが今の俺の率直な感想だ。
でも、俺よりいろんな人間を見てきたスイが言うなら、あり得るのかもしれない。だけどきっと、スイは聞いたって教えてくれないんだろうな。
人間はこの世界に生まれてきて、そしていつか必ず死ぬわけで……生きている間に、出会う人と遭遇する出来事は人によって違うから、考えてることも行動も違う。
自分も人間だけど……人間って結構、謎だらけだ。
ふわふわと桜が舞う公園で、柔らかくて固まりきらない何かは、舞うことなく、俺の中に留まった。




