006
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「それ、役目を終えたらちゃんと元に戻るよ」
俺が自分の手のひらに乗った神玉をまじまじと見ていると、スイがそう言いながら、階段の下の地面に軽く飛び降りた。
「……役目?」
「今はその石に、私の神玉の力が込められてるけど、それをあなたに移動させれば元の鏡石に戻るわ!」
「移動って、どうやって?」
「その石を手で強く握れば、それであなたに力が移動して色が抜けるの! どちらの手でもかまわないから、好きなほうでいいわよ!」
「それで、そこからどうすれば?」
「あとは、その手で従弟のお姉さんのお腹をやさしく撫でてあげればいいだけよ!」
イブキは、小さくガッツポーズを作った。
「ふーん…………って、はぁ!?」
イブキが簡単そうに言うからつい相槌を打ってしまったが、よく考えたら、そんなこっぱずかしいこと出来るわけがない。
大げさに驚いた俺を見たスイが、
「普通にサラッと触らせてもらったらいいじゃん。従姉妹なんだし、別に変態扱いとかされないでしょ?」
と、笑いをこらえながら言った。
「ふざけんな。そんなナチュラルに触りにいけるわけないだろ!」
お前は出来るのかもしれないけど、俺には無理だ!
「もー照れちゃって」
「わりとウブなのね!」
「前世が神でも、今は一応、思春期の男の子だもんね」
……コイツら! 他人事だと思って!
「さて、今日の用事も済んだことだし、私はそろそろ帰ろうかしら」
話がひと段落ついたところで、イブキが箒を持って立ち上がった。
「えっ!」
俺は別の意味で焦った。そんな俺を見てイブキは、俺が言おうとしたことを察したように、
「あなたなら、出来るわ。だって、従姉妹のお姉さんのこと好きでしょう?」
と、優しく微笑んだ。
「……うん」
「それなら大丈夫。たまには、自分の気持ちに素直に行動してみてもいいと思うわ」
そんな顔で、そんなことを言われたら、他に方法がないかなんて聞けなくなってしまった。
「一応、やってみるけど……」
俺が自信なさげにそう言うと、
「あんまり深く考えすぎないほうがいいんじゃない? 従姉妹のお姉さんなんだし、そんな不安にならなくても大丈夫だよ、きっと」
ナギは、俺を励ますような言葉をかけてくれた。しかし……
「そうそう! 別に胸触ってこいとか言ってるわけじゃないんだしさ」
と、スイに至っては、完全に楽しんでる顔をしている。
そんなスイにうらめしげな視線を送っていると、イブキが小さく吹き出した。
「ふふ。心強い人がたくさんいて、よかったわね」
「は!? どこがっ」
「私も安心して帰れるわ。雪丸ー! 帰りますよー!」
話が噛み合ってない。イブキ、人の話聞いてた!?
「もう帰るのか?」
イブキに呼ばれてすぐに、サルの姿のまま、屋根から飛び降りてきた雪丸は、一度地面に着地してから、イブキの肩に飛び乗った。
「ええ。十分、遊んでもらったでしょう?」
イブキが困ったような笑顔で見た先には、息も絶え絶えに横たわる茶々丸がいた。そういえば、途中で姿が見えなくなったけど、俺たちが話してる間、ずっと雪丸に追いかけまわされていたのだろう。
「また来てやるぜ!」
「……もう来んなっ!」
茶々丸は、地面に寝そべったまま叫んだ。
「じゃあ、またね。うまくいくように祈ってるわ!」
「今日は、忙しいとこごめんね。ヘタレなイッセー君のために来てくれて」
スイは、わざとらしく俺のことを君付けで呼んだ。
「いいのよ! 私、まさかこんなに早く、力になれるなんて思ってなかったもの。それに、今日は久しぶりに会えてうれしかったわ。でも、もう次に会うときが楽しみで仕方ないわ!」
そう言ってイブキは、まるで小さな子供を見るように目を細めた。
そして、イブキが逆さに持っていた箒を小さく振ると、イブキと雪丸の周りだけ小さな風が吹き、雪丸の「じゃーなー」という声だけを残して消えた。
イブキと雪丸が帰ったあと、俺も家に帰った。玄関のドアを開けると、見慣れない靴が一足、きれいに並べて置かれていた。おそらく、瀬里姉の靴だと思った俺は、思わず服の上からポケットに入った神玉を押さえた。
俺は硬い表情で、いつもより控えめにドアを開けた。出来るだけ、静かに開けたつもりだったが、俺がドアを開いた瞬間、視線が集まるのが分かった。
「あーおかえりー! お邪魔してまーす」
俺を見て最初に声を上げたのは、瀬里姉だった。
「おかえり。一勢、瀬里ちゃんに会うの久しぶりでしょ?」
「……うん」
俺は、母さんの問いかけに、半ば適当に相槌を打った。
「私の結婚式以来だから、二年くらい会ってなかったよね?」
「そんなになる? 私、何回か会ってるよ?」
そう言って、姉ちゃんは首をかしげた。
「何度か家にお邪魔したことあったけど、一勢いなかったんだよね。だから今日久しぶりに見たよ。男の子って二年で結構でかくなっちゃうもんだねぇ」
「瀬里姉、なんかババくさいよ」
「あー? そういうこと言う?」
「そうよ! 瀬里ちゃん、まだ若いんだから!」
女三人の話は盛り上がっているが、俺はさっき、瀬里姉の膨らんだお腹を見てから、実は内心、気が気ではない。
昔は男勝りで髪もショートだった瀬里姉は、髪も伸びてすっかり大人の女の人だ。いっそ昔のままの瀬里姉だったなら、もう少し落ち着いて居られたのかもしれない。
俺は、動揺を隠すように、無駄に歩きながら携帯をいじったり、自分の飲み物を入れにいったり、リビングをうろうろ歩き回っていた。しかし、さほど時間稼ぎは出来ず、
「一勢? さっきから何うろうろしてるの?」
と、母さんに不審がられ、「……別に」とだけ返し、あきらめてみんなから少し離れたところに腰を下ろした。
「あ! 瀬里姉に会うのが久しぶりすぎて、緊張してるとか?」
「違うし」
俺をからかってきた姉ちゃんには冷静に切り返したが、本当は当たってる。
「なんか懐かしいなーこういうの!」
急に笑い声をあげて、俺と姉ちゃんを交互に見て笑みを浮かべる瀬里姉。
「瀬里姉たちが引っ越してから、あんまり会えなくなっちゃったもんね」
「そうだね。私、二人のことは妹と弟みたいに思ってたから、さみしかったよ。うちは女ばっかだから、五十鈴はまぁ二人目の妹みたいなもんだったけど、一勢が産まれたときは、初めて弟が出来たみたいで新鮮だったなぁ」
瀬里姉は目線を上に上げて、一つ一つ思い出すように話し始めた。
「なーんか私だけ適当じゃなーい?」
「そんなことないよ?」
「ほんとー?」
「ほんとほんと!」
気を抜くと、どんどん進んでいっている会話。しかし、俺は瀬里姉のお腹と、ポケットの中の神玉が気になって仕方がない。
俺が一人、悶々としている間に、いつの間にか夕食の時間になっていて、父さんとじいちゃんも加わり、和やかな時間を過ごしていた。俺以外はみんなにこやかだけど、じいちゃんはもうすぐひ孫が産まれるとあって、特別うれしそうに見えた。そんな中、俺は周りの様子を伺うように目を配らせ、黙々と箸をすすめた。
「瀬里ちゃん、いっぱい食べてね?」
「うん、ありがとう! おばさんの手料理は相変わらず美味しいから、私も見習わなくちゃって思うよ」
「瀬里、お前ちゃんと料理してるのか?」
「おじさん失礼ー! 私だってそれなりに出来てるよ! たぶん」
「そうか。五十鈴とは大違いだなー! はっはっは!」
「お父さん! 私だってちょっとくらい出来るもん!」
「お前が作るのは、お菓子ばっかりじゃないか」
「五十鈴は相変わらずお菓子星人なんだね。そういえば、昔…………あ!」
話の途中、瀬里姉がお腹を軽く押さえた。
「えっ! 瀬里ちゃん、どうしたの!?」
母さんが心配そうに声をかけると、
「ああ、ごめんごめん! 今、すっごい動いてるから」
と、困ったような顔で笑った。
「え!? どれ!? 私も触りたい!」
姉ちゃんは、何のためらいもなく瀬里姉のお腹をなで、「あ、ほんとだ!」と、はしゃいでいる。それをじっと見ていたら、
「一勢も触ってみる?」
と、いきなり瀬里姉に聞かれて焦った俺は、ここでとんでもない過ちをおかした。
「い、いいよっ別に……!」
せっかくのチャンスだったのに、そう言って断ってしまったのだ。
何やってんだ! 俺のアホ!
夕飯のあと自室に入った俺は、ドアに背を預け、そのまましゃがみ込み思わず頭を抱えた。
瀬里姉、明日何時に帰るんだろう? 明日学校だし、帰ったらもういない可能性だってある。そしたら、せっかくイブキが力を映してくれた神玉が無駄になる。なんであのとき断ったんだ、俺。
俺はベッドに入ってからも、ずっと悶々と考えを巡らせている。
ベッドの脇に置いた神玉は、窓から入る月明かりに照らされて、淡い白の光を放っている。
考えれば考えるほど、『瀬里姉が寝てる間に』、『転んだふりして』とか、変態じみたことしか浮かばなくなってきて、考えるのに疲れた俺は眠りについた。
それからしばらくして、なんとなく家の中がざわつき始めた気がして、浅い眠りから覚めた。時計を確認すると、まだ夜中の三時半過ぎだった。だけどやっぱり家の中、特に下の階から足音が聞こえる。
もしかしたら泥棒かもしれないと思い、俺はそっと自室から出た。なるべく音を立てないように階段を降りると、リビングから明かりが漏れていた。一瞬ドキッとしたが、そのあと母さんらしき声がうっすらと聞こえてきて、俺は遠慮がちにリビングの扉を開けた。
そして次の瞬間、目に飛び込んできた光景を見て、俺は硬直した。
瀬里姉がソファで苦しそうにお腹を押さえていて、母さんが落ち着かせるように「大丈夫よ!」と、声をかけていた。そのとき、ふと俺に気付いた母さんは、
「一勢! ちょっと瀬里ちゃんに付いててあげてくれる? 病院に電話して、父さんに車出してもらうから!」
と、慌てた様子でリビングを飛び出して行ってしまった。
あのとき俺が、素直に触らせてもらってれば、こんなことにはならなかったのかもしれないのに……そう考えるとだんだん怖くなってきた。人の命がかかってるのに、俺は何してたんだろう。
俺はリビングを出て走って自室に戻り、すがるような思いで神玉をしめながら、また階段を駆け下りた。
「せ、瀬里姉……大丈夫?」
恐る恐る声をかけると、
「……ん、大丈夫」
と、瀬里姉はふりしぼるように声を出した。
ごめん、瀬里姉……もう遅いかもしれないけど……
神玉を握っていた手を開くと、神珠は元の鏡石に戻っていた。俺はその手を、瀬里姉のお腹の少し横あたりに置き、二、三回ぎこちない手つきで往復させてなでた。
瀬里姉のお腹から手を離した瞬間、父さんと母さんが慌ててリビングに入ってきて、あっという間に瀬里姉を病院に連れて行った。
一人リビングに残された俺は、どっと疲れて体中の力が抜け、ソファに頭を預けた。すごく長く感じたけど、横目で時計を見れば、まだ十五分くらいしか経っていなかった。
そのまま、そこでうたた寝をしていたら、二時間後くらいにじいちゃんが起きてきて、事情を話すととても心配そうにしていた。そわそわしているじいちゃんと二人でリビングにいると、その一時間後、父さんと母さんが病院から帰ってきて、瀬里姉の赤ちゃんが無事に産まれたと聞いて、やっと緊張の糸が切れた。
ちなみに余談だが、姉ちゃんは一回も起きずに、朝までぐっすり寝こけていた。
俺は苦しそうな瀬里姉を見て、命にかかわることだったらどうしようと、一人テンパっていたが、どうやらいわゆる陣痛というものだったらしい。陣痛がどんなものなのか、俺にはよく分からないけど、子供産むのが大変なんだということは身に染みて分かった。
しかし、産むだけではなく、育てるのも大変な人間って、実は一番手のかかる生き物なのかもしれない。




