004
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あれは今から五、六年前、俺が小学校四年か五年の秋のことだ。
朝、学校へ登校して、特に何事もなく一日の授業を終えた。そこからいつもどおり、春斗と下校するのだが、通学路を歩き初めてすぐに、
「なぁなぁ! ちょっと川、見に行こうぜ!」
と、春斗がわくわくした様子で、いつもの道ではないほうへ体を向けた。俺は特に断る理由もなかったので、
「うん、いいよ」
と、春斗に付いて行った。
普段、自転車や車では通ったことがある道も、学校帰りに通ることはあまりないから、少し新鮮だった。川が見えてくると、
「うおー! すげぇ!」
と、春斗が興奮気味に声を上げた。
目の前の川には、いつものような穏やかさはなく、増水していて流れも荒々しい。これは昨晩、通り過ぎた大型台風の影響だ。春斗はこれが見たかったのだ。
「近く行ってみようぜ!」
いつもと違う川の姿に、すっかりテンションの上がった春斗は、ランドセルを投げ捨てて川岸へと下りて行った。俺もランドセルを降ろして、春斗に続いて川岸へと下りた。
特に危機感も抱いてなかった俺たちは、どんどん川に近づいていった。
そのとき、キキーっと自転車のブレーキをかける音が聞こえ、振り向くと、
「あー! 二人とも、そんなとこにいたら危ないよっ!」
と、学校から帰宅して友達の家に行く途中だったのか、自転車に乗った希実がこちらに向かって叫んでいた。
「だいじょーぶだって! なー? イッセー!」
「川に落っこちても知らないからね!」
「うるせーな! 落っこちても俺、泳げるしぃー!」
そう高を括って、調子に乗った春斗は。さらに川へと近づいた。
さすがに危ないと思った俺が、春斗を止めようと近づいたとき、春斗が被っていた帽子が川のほうへ飛ばされた。
「あっ!」
と、叫んだときには、時すでに遅し、春斗の体が思いっきり傾いた。手を伸ばした俺も風に煽られて、春斗と一緒に川に落ちた。
そこからあっという間に、川に飲み込まれた俺と春斗。泳ごうにも流れが速すぎて、ただ流されるがままの状態だった。しかし、最初は必死に顔だけは水面上に上げようともがいていたが、瞬く間に水分を含んだ服が重さを増し、それさえもままならなくなった。
体全体が川に沈み、息も止めていられなくなった。
すごく苦しくて「もうこのまま死ぬのかも」、と思ったが、そのほかにも「俺、今死んだらどうなるんだろう? 明日、鈴木に漫画貸す約束したのになぁ」と、他の事も考えていて、脳内は妙に冷静だったのを覚えている。不思議と怖いとか、そういう感情は俺の中にはなかった。
そして、いよいよ限界が来てしまい、フッと意識が遠のきかけたとき、川の底から何かに押し上げられるように、俺の体は水面上へ飛び出して、いつの間にか川岸に打ち上げられていて、空気をを吸えば、一気にむせ返り、激しく咳き込んだ。俺が川岸に打ち上げられたのとほぼ同時に、春斗も川岸で俺と同じく咳き込んでいた。
朦朧とする意識の中、薄目を開けると、青ざめた顔をして呆然と立ち尽くす希実と、大人が数人、慌ただしく電話をかけたり、俺と春斗のところへ駆け寄ってきたり騒然としていた。大人の人たちは、おそらく希実が呼んできたのだろう。
その後、俺と春斗は救急車で病院に運ばれた。
俺たちが運ばれたのは、それほど大きくない、町の病院だった。命に別状はなく、処置も終わり春斗と親の迎えを待っていると、まず先に春斗の母親が、俺たちのいる部屋に入ってきて、
「ほんっとに、アンタは何やってんのっ!」
と、春斗の頭を叩いた。
叩かれた春斗は、「ごめんなさいー」と声をあげて泣き出した。
俺は春斗が怒られている光景を見ても、うちの母さんは怒らないだろうな、と根拠のない確信があった。だから、それほど緊張もせずに待っていると、廊下からバタバタと足音が聞こえた。その足音は部屋の前で止まり、ドアが開いた瞬間、夕飯の用意をしていたのかエプロンもつけたままの、真っ青な顔をした母さんが立っていた。母さんは俺と目が合った瞬間、少しだけホッとしたような顔をしたあと、ツカツカと俺のところまで歩いてくると、
「一勢っ!! なんでこんな日に、川なんか行ったの!?」
と、俺に向かって怒鳴りつけるように言葉を放った。
姉ちゃんはよく怒られているけど、そのときとは様子が違う。心から怒っている母さんを見るのは初めてだった。初めて思いっきり怒られて呆然としていた俺は、小さな声で、
「……面白そうだったから」
と、ぼそりとつぶやくと、
「――――して……どうしてそんなことするのよっ!! 死んじゃったらどうするのっ!!」
と、再び怒鳴った。
そのとき、ギュッと握られた母さんの手が震えているのが見えて、俺は怒りで震えてるんだと思い、殴られると思って思わず目を瞑った。
しかし、いつまでたっても衝撃が来ない。不思議に思ってそっと目を開けると、母さんが泣いていた。怒られたことよりも、そっちのほうが衝撃的で、俺はどうしていいか分からずに、ただその場に立ち尽くしていた。
すると次の瞬間、「無事で……生きててよかった」と、母さんは俺のことを抱きしめた。おそらく、あのときの俺は、自分のしたことを反省する以前に、泣かせてしまったという罪悪感のほうが大きくて、そのことに対しての「ごめんなさい」という謝罪の言葉を小さくつぶやいた。
帰り際、泣き止んだ春斗が、
「おばちゃん、ごめんなさいっ……俺がっ、俺がイッセーのこと誘ったからっ……だから、怒らないであげて」
と、母さんに訴えかけた。
すると、母さんはゆっくりと左右に首を振り、
「どっちかだけが悪いんじゃなくて、二人とも悪いの」
と、優しく言い聞かせるように言った。
春斗は俺の顔を見て、少しだけ納得いかないというような表情を浮かべていたが、春斗だけが悪いんじゃなくて、俺だって悪いと思っているから、それを伝えたくて、俺は春斗の顔を見てうなずいた。
病院から出ると、仕事を抜けてきた父さんが、ちょうど車から降りてきたところだった。
父さんが運転する車で家に帰る途中、父さんにも少し怒られ、家に着いてから、俺たちが溺れたときに人を呼んでくれたことのお礼と、迷惑をかけたことの謝罪をしに、母さんと希実の家に行った。
家に帰ってからは、
「何してんの、バカ一勢! 心配したんだからねっ!」
「まったく、命を粗末にしちゃいかん。それに、こんなことで親を泣かせるのもいかんぞ」
と、姉ちゃんとじいちゃんにも怒られた。
溺れて死にかけても恐怖や危機感はなくて、俺は自分の命に対して、さほど執着がなかったように思うけど、みんなに怒られて、泣かれて、初めて自分が生きていることを自覚したような気がした。
という、俺が怒られたときのエピソードを話すと、
「そりゃあ、怒られるよね」
と、スイが言うと、「そうだね」「そりゃそうよ」と、ナギとイブキも賛同した。
「お母様は、自分がお腹を痛めて産んだ子が、自ら危険をおかして命を落とすなんて……考えただけでゾッとしたんじゃないかしら?」
「イッセー、知ってる? 救急車から搬送者の家に連絡するときって、だいたいの場合、安否は言わないんだよ。お宅の息子さんを、どこどこの病院に搬送中ですから来てください、みたいな情報しか知らされないの」
「それって、生きてるかどうか分からないし、すごく怖いよね」
みんなが口々に言った言葉と、あのときの母さんが重なった。着の身着のまま、見たことのないくらい真っ青な顔をして、病院に駆け込んできて、泣いていた母さん。俺の軽率な行動で、そうさせてしまったのだ。
「…………俺、すげー悪いことしたな」
今更だけど。
「ま、分かればいいんじゃない? ある意味、いろいろ勉強になったでしょ?」
「まぁ、うん」
「でも、もう二度とやっちゃダメよ?」
「それは、分かってるよ」
俺がスイとイブキの言葉にうなずくと、
「よかったね、スイ。一勢が学習してくれて」
と、ナギがスイに笑顔を向けた。
「……え?」
なんでスイ?
俺が不思議そうな顔をしていることに気が付いたスイは、
「あー、あのときね、イッセーを水中から押し上げたのは川の神の使いで、春斗を上から引きあげたのはオレなんだよね」
と、言い放った。
「……はぁ!?」
「ほんとはスグにでも助けれたんだけど、それじゃあきっと、何にも学習しないなーっと思って」
「僕らは、神界から見てて、ちょっとハラハラしたけどね」
「私も、あとから聞いたときはびっくりしたわ」
「えっ、みんな知ってたのかよ!」
「まぁ、今ここにいるヤツはみんな知ってるね。あ、そうそう。川の神に会ったら、お礼言うんだよ」
「………………」
俺は、十六歳になる以前も、いつも見られてたのかと思うと、恥ずかしいような、怖いような、ありがたいような……よく分からないけど、別に全面的に嫌ではないかな、とは思う。
今の俺には神様の姿も神使の姿も見えていて、助けられたことがあるけど、見えてなかったときにも、知らず知らずに、そうやって助けてくれてたってことは、きっと今まで他にも、助けられたことがあるのかもしれない。




