003
003
俺に謝ったあと、雪丸は拗ねたように腰を丸めてしゃがみ込み、落ちていた木の枝で地面に落書きを始めた。
「どうする? 中行く?」
ナギが特に誰に聞くでもなく、そう問いかけると、
「今日は暖かいし、ここでいいわ。雪丸も部屋の中で大人しくはしてないと思うし」
と、イブキが答えた。
あわただしさも一段落したかのように見えたそのとき、ナミと犬の姿の茶々丸が、神殿から出てきた。そのことに、いち早く気付いた雪丸は勢いよく顔を上げ、
「あー! 茶々丸っ!」
と、ウキウキしたような声で叫んだ。
雪丸に名前を呼ばれた茶々丸が、驚愕の表情を浮かべた瞬間、サルの姿に戻った雪丸が茶々丸に飛び掛かった。それを間一髪で避けた茶々丸は、
「テメー! 何でここにいやがる!」
と、雪丸に向かって叫んだ。
「遊びに来てやったんだぞ!」
「いらねーよ! こっち来んな!」
雪丸から逃げるように、走り出した茶々丸を雪丸が追いかけ始めた。
そんな二人を、
「相変わらず仲良しね! 雪丸ったら、久々だからはしゃいじゃって」
と、イブキが微笑ましく見ていた。
「へぇ、あの二人仲良いんだ。じゃあ、あれってじゃれてるだけなんだな」
イブキの言葉を聞いて、俺がそうつぶやくと、
「テメーバカヤロー! どこをどう見たらそう見える! 犬猿の仲って言葉、知らねーのか!?」
と、間髪入れずに、茶々丸に怒鳴られた。どうやら、俺のつぶやきが聞こえていたらしい。
そういえば、犬猿の仲って聞いたことあるけど、たしかに漢字で書くと犬と猿だもんな。っていうか、茶々丸って……なんていうか、敵? が多いなアイツ。
逃げる犬とそれを追うサルを尻目に、俺たちは神殿の前の階段に移動して、俺は階段の真ん中あたりの段に腰を下ろした。俺の隣にはイブキがいて、イブキの少し下にナギがいる。スイは階段の斜めになっている手すりに器用に腰かけている。
俺は誰かが足りないなと、辺りを見回すと、花壇の前にしゃがみ込み花を見ているナミがいた。
ナミはああやって花を見てること多いけど、なんか楽しいのかな?
「人間ってすごいわよね! たった十六年で、こんなに大きくなるんだもの!」
ぼんやりナミを見ていると、ふとから声が聞こえ、反射的に隣を見ると、イブキが俺の顔を見て微笑んでいた。
「でも、少しさみしい気もするわ」
イブキは眉を下げて、さみしげな表情を浮かべた。
「……それは、どうして?」
「あなたが生まれ変わってきたときね、一番に知ったのは、私なのよ?」
「え?」
「私の神界には、毎日、人間の出生記録が送られてくるの。そこには、その日に生まれた子の両親や、住所、それに前世とか、いろいろな情報が書かれててね」
「じゃあ、俺のも?」
イブキは笑顔でうなずいた。
「その紙にはね、それぞれ色があるんだけど、あなたの紙は見たことのない色、というかいろんな色が混ざって、妙に光っているように見えたのよ。だから、普段手に取ることはあまりないんだけど、気になってつい手に取ってみたの。そしたら…………あなたのだった。あのときは、うれしかったわ。本当に、うれしかった」
そのときを丁寧に思い出すように話すイブキは、うれしそうだけど、泣きそうなせつない顔をしていた。
しかし、だいたいのいきさつは分かったけど、俺としては、なんとなく少し気恥ずかしい。
「あのときさ、イブキが真っ先にここに来て、教えてくれたんだよね」
スイが懐かしそうにそう言うと、同じく懐かしそうに、
「そうだったね。それで、ナミが花を確認しに行ったら、小さな芽が出てたんだよ」
と、ナミを見ながら、ナギがそうつぶやいた。
花って、今年の俺の誕生日に、花が咲いたっていうやつだったかな?
「あらあらあら! 花って、あのお花は、まだ名前がないの?」
「あ、そういえば」
「そうだね」
イブキの質問に、スイとナギが目を合わせながら、息のあった答えを出した。
「またちゃんと、名前を付けてあげたほうがいいと思うわ!」
そういえば、初めてここに来た日以来、あんまりちゃんと見たことないけど、あの花の名前って聞いたことなかったなー、なんて俺が悠長に考えていると、
「うん。今度考えるよ、イッセーが」
と、スイがさらっと俺を名前を出した。
「……え!? 俺!?」
「当たり前でしょ。あれはいわば、お前の花みたいなもんなんだし」
「いや、そうかもしれないけど……」
「最終決定は一勢に委ねるけど、みんなでちょっとずつ、意見出したらいいんじゃない?」
そう言って、ナギが助け舟を出してくれたのだが、
「しょうがないねー。イッセーは花のネーミングセンス、なさそうだしね。ほんと世話が焼けるよ」
と、わざとらしいため息を吐いて、人をからかうような笑みを浮かべたスイ。
悪かったな。花のネーミングセンスなんて、俺にあるわけないだろ。
そんな俺たちのやり取りを見て、イブキが小さな笑い声を出して笑い出した。
「こうして、またあなたと話せる日が来てうれしいわ。私たちにとって、十六年なんてあっという間のはずなのに、あなたが産まれてからの十六年は長かったもの」
「それは僕も、すごく分かるかも。人間界に様子を見に行っても、十六歳になるまで、僕らの姿も見えないし、声も届かなかったから」
「でもさ、赤ちゃんのときは、ちょっと見えてたっぽいよね」
「ああ、うんうん! なんか笑いかけてくれたりしてたよね」
「そうそう。誰かが指とか目の前に出すと握ってたし」
「コハクは、赤ちゃんよりも小さいから潰されかけてたわよね!」
「そんなこともあったね。コハクは周りをちょろちょろするから、気になったんだろうね。あとさ、人間には害はないけど、タタラが煙管吹かして、サイカクに取り上げられたり――――」
俺の知らない、というか覚えていないときの話で盛り上がる三人。
………………。
はっ! もしかして……昨日、母さんが誰もいないのに笑ってたとか、空中で何かを掴むみたいに手を握ってたとか言ってたのって……まさか……
「え、ちょ、あのさ……それって主に、縁側でだったりする?」
「まぁ、だいたいそうだね。イッセーは赤ん坊のとき、あそこで寝てること多かったから、結構みんな見に来てるよ。もしかして、ちょっと覚えてる?」
スイが、意外そうに首をかしげた。
「いや、覚えてはないけど……っていうか、みんなって」
「毎日いろんな神が来てて、にぎやかだったよ」
「毎日……」
スイは手を口の横に当てると、小さな声でこっそりと、
「その中でもナミはね、飽きもせずに毎日欠かさず見に行ってたんだよ」
と、俺にだけ聞こえるように言った。
「え!?」
「神界にいないなーと思って探しに行くと、必ずと言っいいほどてイッセーん家に行っててさ」
ふとナミに目をやると、こっちには興味なさそうに、相変わらず花のところに居た。
みんな十六年前のことを、昨日のことのように話してるけど、見た目は若いし、実感がない。俺自身が記憶にないくらい小さなときのことも知られてるけど、恥ずかしいというより不思議な感じだ。
「でもね、私は少し心配だったのよ? 男の子だし、もっとやんちゃかと思えば大人しいし……その反動で、大きくなって非行に走ったらどうしましょうかと思ってたのよ」
イブキは頬に手を当て、困ったような顔を作っていた。
「非行って……」
「小さい頃から、あまりご両親に怒られたりすることもなかったでしょう? まぁ、いい子に育ってくれてよかったけど」
俺がいい子かどうかはあやしいところだけど、イブキの言うとおり、俺には物心ついてから、両親に怒られた記憶はあまりない。怒られるというより、だいたいが「勉強しなさい」とか「片づけなさい」とかそういう注意くらいだ。「あとからやる」ってほんの少し反抗しても、本当にあとでやれば、それまでだった。
どちらかと言えば姉ちゃんのほうがやんちゃで、よく怒られてたから、それを見てああいうことすると怒られるんだとか、見て学習してたんだと思う。
ああ、でも――――
「たしかに、あんまり怒られたことってないけど…………一回だけ、すげー怒られたこと、あったよ」
俺の脳内で、“怒られたこと”と検索すれば、必ず出てくる記憶。
十六年前のことは覚えていないけど、あのときのことはまだ、昨日のことのように思い出せる。




