001 危ない橋も一度は渡れ
001
短い春休みも終わりに近づき、寒さも和らぎ、もうすっかり春らしくなってきた。その気候と同じく、俺ものんびり、まったりと過ごしている。
じいちゃんの家から帰ってきて数日、俺はまったく外に出ていないような気がする。ちなみに、今日もゲームしかしていない。誰もいないリビングで無駄にテレビをつけながらソファーでごろごろして、慣れた手つきでゲーム機のボタンを押す。
しかし、そんな俺の平穏な時間を中断させるように、インターフォンのチャイムが鳴った。今、家には俺しかいないのだが、俺は基本的に家の電話にも出ないし、誰か来てもだいたい居留守を使う。今日もめんどくさいので居留守を決め込んでいたのだが、
「やっぱ居留守だったね」
と、俺しかいないはずの家に、人の声が響いた。
びっくりしてソファーから起き上がると、そこにいたのは洋間に似つかわしくない、着物姿のスイだった。スイはわざとらしく手をひらひらさせていた。
「……どっから入ってきたんだよ」
「秘密ー」
神様も神使も……何でこうも、神出鬼没なんだ。
「で? なんか用?」
「うん。ちょっと来て」
スイは楽しそな笑顔を浮かべているが、俺は疑いのまなざしでスイを見た。
「来てって、神界に?」
「そ。イッセーに用があるんだってさ」
「俺に用って……もしかして神様?」
「ま、神界でイッセーに用があるヤツなんて、もしかしなくてもだいたいそうだよね」
スイはそう言って、さりげなくテレビを消した。
どうやら俺に拒否権はなさそうで、あきらめてゲームの電源を落として、重い腰を上げた。
玄関を出ると、ここ数日インドアな生活をしていたせいか、太陽の光が少しだけ目にしみて思わず目を瞑った。初めてではないが、こういう現象に見舞われると、太陽にやられた吸血鬼にでもなったような気分になる。
何度かまばたきをすれば目もすぐに慣れ、庭まで行くと、池のそばにある木がふと目についた。
「そういえばさ、あっちのおじいさんの家行ったとき、ミコトやキノたちには会った?」
スイはそうやって疑問形で俺に尋ねているが、おそらく、じいちゃん家であったことを知ったうえで、俺が木を見て思い出したことも見抜いてる。
「……お前、知ってただろ」
「あ、バレてた?」
「当たり前だろ」
最初から隠す気もなかったくせに。
「あの土地にキノの神器があることは知ってたけど、あっちでの出来事はミコトたちからいろいろ聞いたよ」
「ふぅん」
「いい経験出来たんじゃない? 田舎もなかなかいいもんだったでしょ?」
「……まぁ」
「あと、聞いてたより素直だったって言ってたけど、なんかあったの?」
スイは意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「何でもないっ! 早く行くぞっ!」
「はいはい」
俺は、あまり聞かれたくないことを聞かれ、それをごまかすように池に足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れれば、そこは今まで居た世界とはまるで違う世界。最初は戸惑いもあったが、神界に入ることにもだいぶ慣れてきた俺は、いつものように神殿へ向かおうと鳥居のほうへ歩き出した。
「ねーイッセー」
「なんだよ?」
「前」
「前?」
俺は立ち止まって前方を確認した。目の前には見慣れた大きな鳥居、その奥にも異変はない。しかし再び鳥居を見たときに、目の端に映った影に、少し違和感を感じた。その影を確認するように目線を動かせば、橋の一番端にある擬宝珠のところに人が見えた。いや、この場合、人ではないのだろうけど……
「あそこにいるのは、神様? 神使?」
「神様だよ。でも、こっちにはまだ気づいてないみたい」
再び足を進めると、だんだんその神様が見えてきたのだが、俺たちが近づいていることに、まったく気づいていないみたいだ。
女の神様で、淡い薄紫色の着物の上に、半透明の生地を重ねた着したような着物を着ていて、少しウェーブのかかった長い髪は、一つに束ねて右側から自分の体の前に流している。その神様は、柱に抱き付いて幸せそうな顔で、ひたすら擬宝珠に頬ずりをしていた。俺たちは二メートルくらいの間隔をあけて立ち止まったのだが、向かい合っているような状態なのに、一向に気づく気配はない。
「これは……どういう状況?」
「キョウは橋の神様だからね。橋が好きすぎてああなったみたいな?」
「……まじか」
「ちなみに、オレがイッセーん家行く前からあそこにいるよ」
「えっ!」
それって、軽く三十分はあの状態ってことだよな。
「キョウ! ちょっとその辺にして、神殿行かない? イッセーに用があるんでしょ?」
「ちょっ……」
俺の心の準備は中途半端な状態なのに、スイがキョウを呼んでしまった。スイの声に気付いたキョウは、ハッとして顔を上げた。
そして何事もなかったかのように、俺のほうへとゆっくりと歩いてくると、
「お久しぶりですぅ。お待ちしておりましたぁ」
と、少し語尾が伸び気味な話し方で、おっとりとした笑顔を浮かべていた。キョウの顔をよく見ると、おでこにネックレスのような飾りを着けているのだが、ネックレスについていたのは、緑がかった水晶みたいな神玉だった。
「えっと、よろしく……?」
「はい。よろしくお願いしますぅ」
キョウは両手で俺の手を包み込むように握った。
「さて、神殿でゆっくり話そっか」
「お邪魔いたしますぅ」
そう言って、鳥居のほうを向いて振り返ったキョウの後頭部を見て、俺は一瞬、おどろきで言葉を失った。そんな俺には気づかず、手を外側に広げながら、楽しそうに歩いていくキョウ。
「びっくりした?」
俺の様子を見たスイは、隣でうっすら笑みを浮かべていた。
「さすがに、ちょっと……」
キョウの後頭部には、おっとりとした様子からは想像できない、酷く歪んだ顔の能面が付いていた。あのおでこのネックレスは、能面の紐だったのだ。
「あれの意味は……まぁ、多分すぐに分かるよ」
スイの言う、あの能面の意味というのが少し気になったが、とりあえず足を進めた。
神殿に向かって歩いているのはいいのだが、俺は少し前を歩くキョウの、後頭部の能面が気になって仕方ない。まるで後ろにも顔があって見られているように感じる。しかも能面の顔が怖い。
「一勢君は、何が好きなのぉ?」
前を向いたまま、唐突に話し始めたキョウ。
「へ!?え、好きって……趣味とかそういうの?」
「そう」
「えっと……」
「イッセー君はゲームとか読書(漫画)が好きだよねっ」
わざとらしい君付けで、俺の代わりに代弁したスイ。悔しいけど、おおかた当たっているので、言い返せない。
「そうなのぉ? じゃあ今度、橋の写真集をプレゼントするわぁ」
「あ、ありがと」
橋の写真集って何!?
「キョウは、ほんとに橋が好きだね」
「私、橋の神だものぉ。もちろん、ここの橋も大好きよぅ」
「神界でも人間界でも、いろんな橋見に行ってるよね」
「そうよぉ。あとねぇ、ここに来る前に、タタラのところの暗黒めいた橋が見たくて行ったんだけど、追い返されちゃったわぁ。ひどいでしょぉ?」
「そうだったんだ。あ、タタラのとこはイッセーも行ったことあるよね?」
「え、うん。たしかにタタラのとこの橋、幻想的で綺麗だったな」
と、俺が言葉を発した瞬間、キョウはピタッと足の動きを止め、黙り込んでしまった。その後ろ姿は、能面のせいもあるのか、心なしかまがまがしいオーラをまとっているように見えた。
だけど、俺はキョウが黙り込んでしまった理由が思いつかなくて、答えを求めるように、ふとスイを見ると、おでこを押さえて「あちゃー」と小さくつぶやいていた。
え? 俺、なんか変なこと言った!?
「……ス――――」
「キョウの橋が一番綺麗だけどねっ! 今度、イッセーも見せてもらうといいよ!」
と、俺がスイの名前を呼ぶが早いか、少し慌てた様子でフォローを入れたスイは、俺にうなずいとけと言わんばかりの視線をよこした。俺も意味が分からないなりに、とりあえず空気だけは読んで、
「へ、へぇ。ミテミタイナー」
と、答えたのだが、棒読みになってしまった。
すると、くるっと振り返ったキョウは、
「そうでしょぉ。一勢君も、いつでも見に来ていいからねぇ」
と、相変わらず、おっとりとした笑顔を浮かべていた。そしてそのあと、また何事もなかったかのように歩き始めた。
……さっきのは、いったい何だったんだ。
「ヤキモチだよ」
スイが小声でぼそっとつぶやいた。
「ヤキモチ?」
「そ。イッセーがタタラのとこの橋が綺麗だって褒めたから」
「え、それで?」
「ああ見えて、キョウは結構、嫉妬深いんだよ。地雷踏むと豹変するから」
「豹変!?」
「軽い二重人格みたいなもんだから、とりあえずキョウの前で、他の神のこと褒めたりとかは絶対すんなってこと」
「…………」
……それ、出来れば神界来る前に、教えといてほしかった。




