006
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俺の記憶が正しければ、俺はついさっき自宅の庭の池に落ちたはずだ。なのに俺の服も体も濡れていない。
池に落ちたとき、とっさに目を瞑ったが予想していた衝撃がなく、目を開くと景色が変わっていた。大きな橋の真ん中で座りこむ俺。橋の下には川。橋から見える景色は山。
まさか…………俺、死んだ?
いやいやいや! ありえないだろ! 小さい子供ならまだしも、あんな底見えてるような池で溺れて死ぬとかダサすぎる。
…………夢であってほしい。
夢なら覚めるはず。ふと立ち上がり、グッと手を握ると自分が何かを握っていることに気がついた。自分の手を見ると、池に落ちた原因でもある朱い羽根を握っていた。
「おいテメー!! 何突っ立ってんだ!!」
羽根を見つめていると突然、口は悪いが高くて可愛らしい声が聞こえた。驚きはしたが、他にも人がいたことに少し安心した。しかし、前にも後ろにも人の姿が確認できない。
「……あれ?」
確かに声は聞こえたのに……空耳?
「なめてんのかテメー!! 下だ、下!!」
「下?」
目線を下へ落とすと俺の足元に、白いかたまり。驚いて思わず一歩後ろへ下がったが、よく見ると大きなクリクリとした目の、可愛らしい真っ白な子犬だった。
「わぁっ! …………犬?」
「犬じゃねぇ!! 茶々丸様だっ!!」
ふんぞり返る犬、もとい茶々丸。
「……え?犬って……喋るっけ? やっぱり夢だったん、イタッ!!」
足の脛に茶々丸の跳び蹴りが入った。しかも思いっきり。
俺は脛をおさえてうずくまった。
「どうだ! 夢じゃないだろ!」
「……っ!! たしかにっ、痛いけどっ!」
「分かったらさっさと行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待って! 行くってどこに?」
「前、見てみろ」
「……前?」
少し痛みが治まり前を見ると、橋の先に見えたのは大きな鳥居だった。
「この先に、テメーを待ってるヤツがいる」
「……誰?」
「行けば分かる。ここでごちゃごちゃ言ってても仕方ねぇ。とりあえず早く行くぞ!」
鳥居に向かってどんどん歩き出した茶々丸。不安もあったがここに一人取り残されても困るのでついていくことにした。
鳥居をくぐると、流麗な日本庭園が目の前に広がり、その先には緑深い山道が見える。
川の流れる音や木々のざわめきに聴覚が研ぎ澄まされる。普段は喧騒に埋もれてしまっているようなささいな音なのに、その存在を力強く訴えかけてくる。
「あの、ここどこの神社?」
「……あぁ、向こうではそういうんだったな」
周りの雑音がないせいか俺にも聞こえていたが、茶々丸はひとりごとのように呟いた。
「向こう?」
「ここでは神社とは呼ばねぇぞ。ここは神界だからな!」
「神界?」
「簡単に言えば、神の世界だ!」
「はぁ!? なんで俺がそんなとこに……」
俺、やっぱり死んでる!?
「テメーが割ったからだよ!」
割った? 今日一日の記憶をたどってみるが、何かを割った記憶なんて出てこない。
「鏡だ、鏡! テメーここ来る前に割っただろうが!」
「ここ来る前って……俺、池に落ちた記憶しかないんだけど……」
「その池が鏡だって言ってんだよ!」
「はあ!? 池って水だろ!」
「だったらなんでテメーは濡れてねぇんだよ」
「それはまぁ、そうだけど」
「あの池は神の神器だ。それがテメーが落ちたことによって割れたんだよ」
なんでそんなもんがうちの庭にあるんだよ。うちは神社でもなんでもないぞ。
しかしここが本当に神界で、もし仮にあの池が神器だとすると……
「もしかして……この先にいるのって神様だったり、するわけな――――」
「そうだぞ」
俺の淡い期待は打ち砕かれた。
「…………俺、どうなんの?」
「心配しなくても、あいつらは別に怒っちゃいねーぞ。多分」
「多分って……え? あいつら? 一人じゃないの!?」
「言ってなかったか?」
「聞いてない!」
「ま、一人も二人も変わんねぇだろ!」
「変わるわ!」
主に俺の心情が! いつの間にか、もう喋る犬なんてどうでもよくなるくらいには動揺している。
「よし! ここ登ったら着くぞ!」
いつの間にか山道に入っていて、左を見ると石が敷き詰められている階段があった。一段一段の幅は普通の階段の二、三倍ほどある。下からは階段の頂上に、鳥居と塀のようなものがあることくらいしか分からない。茶々丸はピョンピョンと軽快に階段を上っていく。俺は一段一段、踏みしめるように上った。
階段を踏みしめるたびに心の奥がざわつき、自分の心音がやけにはっきりと耳に鳴り響く。
頂上に着き鳥居をくぐると、すでに開かれている門があった。
「早く入れ!」
ここに来るまで俺の前を歩いていた茶々丸が、俺の隣で立ち止まったまま先に入るように促した。少し躊躇いはあったが、遠慮がちに足を踏み入れた。俺が門の中に入ると続いて茶々丸も門の中に入った。
門の中には、立派な神殿が建っていた。その神殿の左右にも小さな神殿が一つずつあった。灯篭や綺麗に咲いている花々があり、塀の外には豊かな緑が広がっている。
「ちょっと待ってろ!」
「えっ!」
「まだ心の準備が!」と言おうとする間もなく、茶々丸は真ん中の神殿に向かって走り出した。とっさに伸ばした手は行き場をなくし宙をさまよった。