010
010
夕飯を食べ終わり、心ここにあらずな状態のまま、机に片肘をついてテレビを観ていると、
「一勢? 疲れてるんなら、今日はもうお風呂入って寝たら?」
と、母さんに、少し呆れたように声をかけられた。
特に眠くもないし、そこまで体が疲れているわけでもなかったが、別にテレビを観たい気分でもなかった俺は、生返事を返して、言われたとおりお風呂に入ることにした。廊下に出ると、もう春とはいえ、夜はまだ寒さが残っていて、寒さを振り払うように足早にお風呂場へ向かった。
ひと通り体を洗ったあと、何も考えずにゆったりと湯船につかっていると、お風呂場の天井から水滴が一粒、頬に落ちてきた。
目の下あたりに落ちたそれは、まるで涙みたいで、キノから零れ落ちた涙を連想させた。たった一粒の水滴で思い出してしまうくらい、今の俺の頭の中はキノのことでいっぱいだった。
俺はタタラに恨まれてて、それを知ったときはショックだったけど、理由を聞いて納得出来た。だけど、キノが泣いてた理由は、いくら考えても納得出来なかった。気が遠くなるほど、ずっと長い間、謝罪の言葉だけを思って生きてきたんだって考えたら、正直、キノに嫌われてたほうが俺としては納得が出来たのだ。
お風呂場の中で軽く吐いた息は、少し響いたあと、吸い込まれるように消えていった。俺は湯船に背を預け、軽く目を閉じたのだが、お風呂場の小窓がカラカラと開く音がした瞬間、
「ため息なんてついちゃって、何か悩み事があるようだね!」
と、聞き覚えのありすぎるテンションの高い声が響き、目を開いて小窓を確認すると、そこから顔をのぞかせていたのは、俺の予想通りミコトだった。
「お前っ、何してんだよ!」
「君が何か悩んでいるみたいだったから、相談に乗ってあげようと思ってね!」
「……だからって何で風呂場!?」
「すいません。私はやめたほうがいいと言ったのですが、ミコト様が……」
ミコトの隣から佐波がひょっこり顔を出した。佐波はミコトより背が低いので、目の部分までしか顔が見えていない。
「男同士、裸の付き合いをしようと思ってね!」
……お前裸じゃないじゃん。っていうか、お湯に浸かってるからまだいいけど、佐波も普通にこっち見てるし。
俺は心の中でそう思ったが、さらにめんどくさいことになったら困るので、あえて口には出さなかった。
「キノが泣いてたことがそんなに気になるのかい?」
突拍子のない登場のあと、またもや突拍子もなく、いきなり核心をついてきたミコト。
「え、そりゃあ……あんなに泣かれたら……」
なんか俺が悪いみたいだし……いや、実際、俺がすべての元凶なんだろうけど……
「君は悪くないよ」
「え?」
「だけど、キノも悪くない」
「うん」
「今はそれでいいんじゃないのかな?」
「…………うん」
俺が考えていたことを、ミコトに読まれていたみたいでびっくりしたけど、少し気持ちが楽になった。
「ミコト様にしてはいいこと言いましたね。私、ちょっと感動しました」
「そうだろうそうだろう! もっと褒め讃えてくれたまえ!」
「お断りします」
「つれないねぇ! ま、君もそんな深く考えなくてもいいんじゃない? 無理に今すぐ解決しなくても、神界は繋がってるんだし、いつだってキノに会えるだろう?」
「そうだな。ちょっと考えすぎてたのかも…………ありがとう」
俺が感謝の言葉を、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でつぶやくと、ミコトと佐波は真顔で顔を見合わせた。
「……今、ありがとうって言ったよね? 僕の聞き間違いかな!?」
「いえ。確かに聞こえました」
「な、なんだよっ」
「いやいや、聞いていたより素直だなーってね!」
「聞いてたって――――」
誰に、と言おうとしたら、
「一勢ー? まだお風呂入ってるのー?」
と、外から母さんの声が聞こえて、俺は慌てて返事を返した。
「っもう出る!」
「ならよかった。寝ちゃってるのかと思ったわ」
母さんが戻っていったあと、小窓を見ると二人の姿はなく、冷たい風だけが通り抜けてきた。
俺の中には妙な恥ずかしさが残ってしまったが、二人のおかげで何か分かったような気がした。
次の日の朝、母さんが作った朝食を食べていると、
「今日おばあちゃん退院だから、午前中に迎えに行って一緒にお昼食べたら帰るから、ちゃんと荷物まとめておくのよ」
と聞かされ、俺は生返事を返し、姉ちゃんはちゃっかり、「私、お寿司が食べたーい」と自分の希望を主張していた。
「あ、二人ともおばあちゃんのお迎え一緒に行く?」
「うん。行くー!」
「……俺は行かない」
「あら、どうして?」
どうしてって……
「き、昨日行ったとこに忘れてきたものがあるから」
「そうなの? じゃあ、お昼までにはここに戻ってきてるのよ」
「分かった」
忘れてきたものがあるなんて、本当はそんなのウソだ。少しだけ、ウソをついてしまったという罪悪感はあるが、俺にはどうしても今日、行きたいところがあった。
じいちゃんに家のカギを渡され、みんながばあちゃんを迎えに行くのを見送った俺は、カギをポケットに突っ込み、緩やかに走り出した。
目的地はキノのところ。今日はミコトも佐波もいないし、少しだけ不安もあったが、森に入ったあとも迷わずに、なんとかたどり着けた。キノも瑠璃もいなくて、ご神木だけが俺の目の前にそびえ立っていた。
少し息が上がっていた俺は、ある程度息を整えてから、ご神木に向かって話しかけた。
「キノ?……俺、昨日は言えなかったけど、伝えたいことがあってさ……」
ご神木からも、どこからも反応はなく、静まり返った森。
どうしたもんかとため息を吐くと、いきなり木の幹から誰かが飛び出してきて、そのまま俺の横を転げていった。
「え……キノ? 大丈夫か?」
俺が声をかけると、顔をあげたキノは、
「うぅっ……瑠璃が、突き飛ばしたっ!」
と、涙目で木を指さした。
「キノがうじうじしてるからよ?」
キノが指さしたところから、かろやかに瑠璃が出てきた。
「だ、だって……」
「あなたにお話があってわざわざ来てくださったのに、キノったらずっと隠れてるんですもの」
「……ごめんなさい」
地面を向いたまま、キノは俺に向かって謝罪の言葉を口にした。
「あのさ……その、謝罪の言葉は……俺としては、やめてほしいんだ」
俺が不安げに話し始めると、キノも不安げに瞳を揺らしながら俺を見た。
俺は下唇を噛み、軽く息を吸い込んで、息と言葉を吐き出した。
「俺さ、自分が全知全能の神の生まれ変わりだって知るまで、こんな世界消えればいいと思ってたんだ。でも、前世を知ってからは、それがどれだけ無責任なことなのか分かって……たくさん神様を創って、勝手に神様やめて、全部置き去りにして、生まれ変わったら、何もかも綺麗さっぱり忘れてて…………最低だと思ったよ。だけど、謝ろうとしたら、スイに謝んなって言われた。だからさ、俺のわがままかもしれないけど、キノにだって謝ってほしくないんだ」
そこまで言い終えると、キノは少し目を伏せた。
「……本当に? 僕には、謝らなきゃいけないことしかないのに……」
「うん。キノは何にも悪くないから謝らなくていいんだ。俺はここに来て、綺麗な木がたくさん見れてよかったよ……だから、ありがとう」
俺はキノの不安が少しでも無くなればいいと思い、わずかながらも笑みを浮かべると、キノは神玉を握りしめ、
「君は、昔から変わらないね。そうやって、いつも……僕の、欲しかった言葉をくれるんだっ」
と、困ったような笑顔のまま、涙をぽろぽろとこぼした。
「あらあら。泣くか笑うかどっちかにしなさいな」
瑠璃が手でキノの涙をぬぐうと、
「いいんだもんっ、ほっといてよ」
と、キノは照れくさそうに振り払った。
結局、泣かれてしまったのだが、俺が帰るときは満面の笑みで見送ってくれたキノ。俺の中で引っかかっていた何かは、いつの間にか溶けだして、すっかり消えていた。
「何かいいことでもあったのかなーお兄さん!」
「……どうも」
モヤモヤが晴れて、穏やかな気持ちで歩いていたのに、帰り道で待ち伏せしていたミコトと佐波に遭遇し、からかわれながらじいちゃんの家まで帰ることになった。
「僕たちの予想よりも、はるかにあっさりと解決しちゃったみたいで、びっくりしたよねー!」
「私たちもまだまだですね」
……どんな予想してたんだよ。
俺が今日、キノに今の自分なりに伝えたいことを言えたのは、二人のおかげもあるが、なんか悔しいので今日は言わないことにした。




