003
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「遅かったですねスイ……それより、あなたがついていながら、何ですかこの体たらくはっ!」
サイカクはスイに向かって分厚い本を開いた。
「えーそんなこと言ったってー」
そう言いながら、スイは着物の裾を軽く持ち上げ、部屋の中へ入ってきた。
「っていうか、お前はどこから入ってきてんだよ」
俺、カギ開けてたっけ?
「カギは僕が開けておいた!」
梅は元気よく右手を挙げたが、まるで俺の心の声が聞こえていたかのような言葉に少しびっくりしていると、
「梅は、結構周りを見てるからね。きっとイッセーのことも、よく見てたんだよ」
俺が一言も発しないうちに、カギの真相が明らかになる。
だけどたしかに梅は、俺がこの部屋に入ってきたときからじーっと俺を見ていたような気がする。視線を合わせることはしなかったが、ずっと視線は感じていた。ふと梅を見れば、俺と目が合うなり子供らしい顔でにこりと笑った。
「今はそんな話をしているの場合ではないのですよ! これは由々しき事態です!」
穏やかな空気の中、ただ一人、心穏やかではないサイカクの声が響く。
「とは言え、勉強って頼んでしてもらうもんじゃないじゃん?」
「それはそうですが、せめてもう少し学業の成績を上げていただかないと……私が耐え難いんですー!」
サイカクは、また両手を床につけて嘆いた。
俺は、俺の成績に嘆いているサイカクの姿を見て、なんとなく申し訳ないような気持になった。
「だってさ。どうする?」
「どうするって……」
「大丈夫です。私がなんとかします!」
急に立ち上がったサイカクは、何かを決意したかのように拳を握りしめた。
「こうなったらサイカクは、もうオレが何言っても引かないから、今回はちょっと付き合ってあげてよ」
「えぇ!?」
「とりあえず、今日はご挨拶に伺っただけなので私たちは帰ります。明日からは、私が毎日みっちり学業を教授してさしあげましょう!」
「ちょっと待って! なにも毎日来なくても――――」
「では、また明日!」
サイカクは、俺の言葉を最後まで聞かずに、スイが入ってきた窓から出ていき、梅は俺に手を振りながらサイカクの後についていった。
一瞬の静寂のあと、
「本当に明日から毎日来る気!?」
と、俺は少し慌ててスイに尋ねた。
「たぶんね」
スイから肯定の言葉が聞こえるのと同時に、開けっ放しの窓から冷たい風が吹き込んだ。
「っていうかスイ……お前、サイカクが来るの知ってただろ?」
俺は窓を閉めながら、軽く息を吐いた。
「まぁね。テストの日にち聞かれて教えたのオレだし」
「……なんか楽しんでるだろ」
「まさか」
と、スイはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
絶対、確信犯だ……
サイカクと梅が家に来た次の日、学校へ行くと春斗が力なく項垂れていた。昨日から部活の勉強会が始まったらしいが、すでに少しやつれたような気がする。
「あーもうすでに無理」
「昨日始まったばっかだろ?」
「間違えると筋トレ増やされんだよー」
「うわーそれツラいね」
スイは春斗を見て、気の毒そうな顔をした。
「だろー? これがテストまで続くなんて考えたくもない」
俺は、今の春斗の状況が他人事ではないような気がした。
今日から俺のところにも、テストまで毎日サイカクが来るらしい。来るだけならいいのだが、半ば強制的に勉強をさせられるなんて、俺だって考えたくもない。
今、同じような状況の春斗を見ていると、春斗の気持ちがよく分かり、俺まで気分が重くなってくる。
しかし、そういうときに限って時間が過ぎるのは早く、あっという間に一日の授業が終わった。学校を出て家に近づくにつれ、気が重くなるのと比例して足取りも重くなる。そんな俺を見てスイは、
「そんな嫌がんないであげてよ」
と、困ったように苦笑いをこぼした。
「別にサイカクが嫌なわけじゃないけど……」
「サイカクはあれでも、本当にイッセーのこと心配してるんだよ?」
「心配って……」
あれ? 俺の成績ってそんなにやばい?
「オレは勉強だけがすべてではないと思うし、サイカクだってそれは分かってる。だけど、学業の神からしたら、いろんな知識の一つとして、もう少し勉強してほしいんだと思う」
「……うん」
「だからオレも前に言ったけど、イッセーがこの世界を見定めるのはまだ早いってことだよ。本当にこの世界が嫌いで消してしまいたいなら、もっといろいろ学んでからね」
そう言ってスイは冗談っぽく笑ったが、俺からしたら笑えない冗談だ。
スイの言葉は捉えようによっては、俺が何かを学ぶのは世界を消すため、と言っているようにも聞こえる。もちろんスイはそんなことを思ってはいないと思うが、俺の心は静かにざわついた。
最近は次々と俺の前に現れる神様にも、少しずつ慣れてきたし、俺の周りは至って平和だったから忘れていた。
俺が全知全能の神に戻れば、本当にこの世界は消えるんだ。最初聞いたときはだいぶ動揺はしたが、実感はあまりなかった。今もそこまでの実感はないが、改めてサイカクにも言われたことで、初めて聞いたときよりは少し現実味が増したように思う。
俺にこの世界を見定めることなんて出来るのだろうか。
俺は心のざわつきを振り払うように二、三回首を横に振った。
黙り込んだ俺を見て、スイは笑いながら、
「ごめんごめん、冗談だよ。余計なこと思い出させた?」
なんていつもの口調で俺に尋ねたが、
「……別に」
と、本当は思いっきり思い出していたが、肯定するのはなんだか悔しかった俺は、素っ気なく返事を返した。




