007
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廊下の角を曲がると、少し先にある家庭科室の前にイッセーと葉山さんがいた。オレは出て行こうとしたレンカの腕を引っ張り、廊下の角に隠れた。
「なにするんですの!」
「今、出てっちゃダメでしょ」
レンカは湿った空気を醸し出し、不服そうな顔でオレを見た。
そんな目で見たって仕方ないでしょ。
今のオレとレンカは葉山さんには見えていないが、イッセーには見えているが、それをイッセーがうまいこと隠せるとは思えない。
ここはおとなしく隠れていたほうがいい。
「あんた今日どこ行ってたの?」
葉山さんの声が廊下に響いた。
「今日? ずっと教室にいたけど?」
「うそ! 私が行ったときいつも居なかったじゃない!」
レンカが隠してたからね。
「はぁ!? お前がちゃんと見てなかったんじゃないのか?」
イッセーは、レンカに自分の姿を隠されてたこと知らないもんなー。
「そんなことないわよ!……はぁ、まぁいいわ。これあげる」
葉山さんが差し出した箱を受け取ったイッセー。
「言っとくけど、あんたが誰にも貰えなかったらかわいそうだと思って……」
「……余計なお世話だよ」
「うるさいわね! 少しはありがたく思いなさいよ! じゃ、私部活あるから!」
そう言って葉山さんは、家庭科室に入っていった。廊下に取り残されたイッセーは、自分の手に持った箱を見つめて小さくため息をついた。
それからイッセーがこちらに向かって歩いてきたが、オレはレンカを連れて階段の陰に隠れた。
「どうして隠れるんですの?」
「いいからいいから」
ここで姿を現してもよかったが、隣の校舎にある教室で、寺井さんがきょろきょろしているのが見えた。寺井さんはきっとイッセーに用がある。だけどレンカがいるとまた妨害しかねないので、オレはレンカを引き留めた。
イッセーが教室に入っていくのを確認して、そっと教室を覗いてみれば、イッセーと寺井さんがいた。教室には二人きりなのに、どちらも言葉を発せず静まり返っていた。
「……えっと……寺井さん?」
静寂に耐え切れず、イッセーが話しかけると、ずっと下を向いていた寺井さんが顔を上げた。
「あ、あのっ!えっと……天神君!」
「は、はい」
寺井さんが思いのほか、大きな声でイッセーを呼んだことにびっくりしているイッセー。
「この間はありがとう!」
「この間?……ああ、タタラさんの!」
「う、うん! それでね、これ……あのときのお礼もかねて、その……」
寺井さんは言葉のたどたどしさとは裏腹に、少し強引にイッセーの手に袋を押し付けた。わざとではなく、余裕がなくて、つい勢いをつけて出してしまったのだろう。
「え!? お礼なんて……別にいいのに。でもありがとう」
寺井さんはイッセーが袋を受け取ると、ホッとした顔で笑った。
「あれ? 寺井さん、ちょっと痩せた?」
イッセーはきょとんとした顔で、寺井さんを見ていた。
「分かる!? 私、太ってていじめられてたから、本格的にダイエット始て……今5キロくらい減ったの!」
イッセーの言葉を聞いて、いきいきとした顔になった寺井さんは、うれしそうにそう話した。
「へぇ、すごいな」
「私! 頑張るから! じゃあね!」
寺井さんは教室を出ると、うれしさを抑えきれないような笑顔になり、足取り軽く帰って行った。
イッセーは何も考えないで、思ったこと言ったんだろうけど……本人無自覚でああいうこと言えちゃうのが、たまにすごいと思う。
「さて、レンカ。オレらもそろそろ戻ろっか」
「………………」
レンカは黙ったまま教室の中のイッセーを見ていたが、表情は髪で見えなかった。
「レンカ?」
「……ちょっと、外の風を吸ってきていいかしら?」
「……そうしよっか」
イッセーが目の前にいるのに、すぐにイッセーのところへ行かないなんてレンカらしくない。レンカの様子がおかしいのは一目瞭然で、オレはレンカを屋上へ連れていくことにした。
屋上に着いてからも、レンカはしばらくの間、手すりに手をかけて空を見上げていた。
空に飛行機雲が一筋流れ、雲が消えたと同時に、レンカはぽつりと話し始めた。
「私は、一勢様が全知全能の神だったときから、ずっとあの方をお慕いしていますわ。ですが……一緒に過ごした時間より、待っていた時間のほうがはるかに長くて……一日たりともあの方のことを忘れたことはなかったけど……そのうち、はっきりと顔が思い出せなくなって…………そんなとき、一勢様が生まれ変わりとして、生まれてきてくださって……顔もそっくりで……とてもうれしかった」
「……うん」
「バカみたいでしょう?」
レンカの声が震えた。
「え?」
「私は、一勢様が全知全能の神にお戻りになられれば、消えゆく運命。お戻りになられなければ……他の誰かを好きになって、恋愛して、結婚して……どちらにせよ、私の入る余地などないのです。せめて、今はまだ、誰のものにもならないで欲しいなんて、私の一人よがりだということも、分かってますわ……恋愛成就の神が、自分の恋すらままならないなんて……本当にバカみたいっ」
レンカの大きな目から涙が溢れ、まばたきをするたびに零れ落ちる。
「……バカみたいなんて、思わないよ。レンカは、人が恋する気持ちを誰より分かってる。だからオレは、レンカが恋愛成就の神でよかったと思ってるんだよ」
「…………スイ」
レンカは泣き叫びたいのを我慢するかのように唇を噛みながら、静かに涙を流した。
レンカだって、本当はちゃんと分かってるんだ。分かってるからこそ、たまに耐えきれないくらい悲しくなるときだってある。それでも気持ちに揺らぎがない。ずっと見てきたからこそオレは、レンカのそういうところ、素直に尊敬している。
「さっきのことは一勢様には内緒ですわよ!」
「分かってるよ」
「絶対ですわよ!」
イッセーがいる教室に向かって歩きながら、レンカはオレに言い聞かせるように、何度も釘を刺す。
泣いて少し気が晴れたのか、レンカはいつもの調子に戻っていた。「女は強い」なんてよく聞くけど、人間も神様も女のほうが強いのかも……いろんな意味で。
レンカの言葉を半ば聞き流しながら歩いていると、教室に近づくにつれ、妙な気配を感じた。
「っ!スイ、少し急ぎましょう!」
何かを感じ取ったのは、レンカも同じらしい。
足を速め、もう少しで教室というところで、気配の正体が分かった。教室から出てきたのは、黒髪を靡かせる例の少女だった。
彼女はオレの横を通りすぎるときに一瞬、冷たい笑みを浮かべたが、今はそれよりも教室にいるイッセーのほうが気になる。急いで教室に入ると、イッセーはきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「よかった、ご無事で!」
レンカは一目散にイッセーのところへ駆け寄った。
「え? ご無事でって……」
「イッセー、今の……知り合い?」
「今のって……立花先輩?」
「先輩?」
「うん。前期の委員会が同じだったんだ。特に仲良かったわけでもないんだけど……」
「ふーん」
「いけませんわよ! 危険ですわ!――――!」
オレは右手でレンカの口を押えて、左手の人差し指を立てた。今回は何もなかったし、まだ確実な情報がない以上は、イッセーが変に意識してしまうといけないから言わないほうがいい。
「さ、遅くなったし帰ろっか」
オレはレンカをなだめ、イッセーは上手くごまかして教室を出た。
帰り道、イッセーがコンビニ寄ると言い出し、オレとレンカは外で待っていると、戻ってきたイッセーはレンカに、チョコレート菓子を一つ渡した。レンカは突然の贈り物に固まっていた。
「イッセー、これどうしたの?」
「え? 今日ずっといたから、レンカもうちの姉ちゃんと一緒でチョコ好きなのかと思って」
あー、そう捉えちゃったんだ。
「私、一生大事にしますわ!!」
レンカはイッセーに貰ったチョコレート菓子を、天高く掲げた。
「え!? 腐るからやめたほうが……」
そう言って、焦った顔をするイッセー。
「っは!今日、一勢様にチョコを捧げる女はいましたが、贈られたのは私だけ! やはり一勢様は私と――――」
盛り上がったレンカはイッセーに抱き付き、頬にキスをした。
「一勢様! 私、今はこれで十分幸せですわ!」
レンカは綺麗な笑顔で笑った。
かみ合わないやり取りを続けるイッセーとレンカを見て、小さな笑いが漏れた。
ほんとイッセーって…………
「罪な男……」
オレが呟いた声は、冬の寒空に消えていった。




