006
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真っ暗闇の中、水の滴が水溜まりへ返っていく音がこだまする。その滴が一滴俺の頬を濡らした。
何の前触れもなくふぅっと橙色の灯篭がぼんやりと辺りを照らすと、洞窟の中に大きな沼があり、その上に緩やかな半円状の橋がかけられているのが見えた。その橋の先には立派なお屋敷のような建物があった。
俺の中に緊張感が張り詰めた。
橋に一歩足をかけると、両端に等間隔に置かれた灯篭が一斉に灯りを灯した。まるでここまで来いとでも言われているような圧迫感に息を呑んだ。
橋の下に広がる沼は真黒で何も見えない。灯篭で照らされた橋だけが浮いているように見える。
俺はゆっくり歩きだし、橋の終わりまであと数メートルというところで、凪を保っていた沼の水が一瞬だけ荒れた音がした。もう一度聞こえたその音と同時に沼の中から跳ね上がってきた黒くて大きな魚は、橋に着地する前に人の姿に変わった。
黒い着物を着た、三白眼で目つきの悪い男が俺を睨んでいた。
「何の用だ」
何の用と言われても、金平糖を岩の前に置きに来ただけなんですけど……とは言えるはずもなく、俺は石のように黙りこくった。二人の間に重苦しい空気が流れた。
「貴様……」
男の顔つきがさらに険しくなった。
やばい、どうしよう、帰りたい。
――――幽月
「タタラ様!」
――――通せ
「しかしっ!」
――――わらわの言うことが聞けぬのか
「……承知しました」
不意にお屋敷から抑揚のない女の人の声が聞こえると、幽月と呼ばれた目の前の男は急に従順な態度を示した。もちろんその女の人に対してだけだが。
「……タタラ様がお呼びだ。ついてこい」
まだどこか納得のいかない顔をしている幽月だが、言われるがまま俺をお屋敷の中へ案内した。
呪い岩のタタラさんのことやこの洞窟のこととか、いろいろ聞きたいことはあるが幽月には一片の隙もなく話しかけづらい。
「おい、着いたぞ」
話しかけてきたと思えば、一言そう言って目を反らした幽月は扉に手をかけた。結局、幽月に何も聞けないまま目的地に着いてしまった。
「タタラ様、お連れしました」
「下がってよいぞ」
薄暗い部屋の奥に居たのは、横になって肘を台座に乗せ、どこか妖艶な雰囲気を醸し出す女の人だった。俺はその女の人の顔がはっきりと見えるところまで行き、足を止めた。
長い睫に切れ長の瞳は虚ろにこちらを眺めていた。
大きく胸元の開いた着物に、髪は纏められてはいるが少し乱れている。目のやり場に困った俺はあからさまに目を反らした。
「スイはどうした?」
「え、スイ……?」
ここにはいないスイの名前が出てきて俺はやっと確信した。明らかに人間ではない人がスイのことを知っているはずがない。知っているとすれば神様か神使くらいだろう。
「あなたは……神様ですか?」
俺が問うと、その人は首から下げていた紐を指で掬い軽く引っ張った。すると胸の谷間から岩の一部のような石で出来た神玉が出てきた。
「わらわはタタラ、祟り神のタタラじゃ」
「祟り神!?」
「お主は、わらわが祟り神と知らずに、金平糖を供物として持ってきたのか?」
タタラは高そうなお皿に乗せられている金平糖を一粒、手の平で転がした。
「あれは……昨日岩の前に金平糖を置いたって勘違いされた女の子の代わりに、持ってきたっていうか……」
「……女?」
「やっぱり、違うんですか?」
「違うな」
タタラは煙管を持って上半身だけ起こした。
艶やかな口から流れるように吐き出された煙に、あっちの世界で呪い岩と呼ばれている岩の前に、誰かが何かを置いている姿が浮かびあがった。
煙に映ったのは後姿だったが、俺はそれが誰なのかすぐに分かった。