旅立ちの時(1)
再び、氷魚の前に現れた瑪瑙。
『お前は、今夜死ぬ』と。
彼は急に、こんな事を氷魚に言った。
彼女の運命、いかに!?
「氷魚、お昼できたわよ?」
彼女は、居間に氷魚の姿がないのに気づき、廊下に出た。
一歩、階段に足をかけて、氷魚を呼ぶ。
しかし、返事は返ってこなかった。
「氷魚、氷魚…」
うす闇の中、中音の男の声が響く。
漂っていた彼女の意識は、ゆるゆると浮上を始めた。
「ん、誰…?あたしを呼ぶのは」
氷魚は、ごしごしと眠い目を擦り、顔をあげた。
「やーっと起きたかよ、俺だよ、俺!」
ぐるりと視界を巡らせると、瑪瑙が机に座っていた。
「あら、さっきの猫ちゃんじゃない」
「瑪瑙だっ、記憶力ないのか!」
欠伸をして、つっこむ瑪瑙をシカトする氷魚。
「で、なんなのよ。例の【お迎え】?」
「話を逸らすんじゃねぇ、それもあるが、教えてやりに来たんだよ」
シカトをされて面白くなかったのか、瑪瑙は、憮然として言った。
「何を?」
氷魚は、訝しげに眉をひそめた。
相変わらず、この男は言葉が足りない。
「お前…今夜死ぬぜ。だから、思い残しがあるなら、早いウチに済ませとけよ」
一瞬、思考が止まった。
心臓が、止まるかと思った。
急に、なにを言いだすのだこの男は!
「ち、ちょっと!死ぬってなに!?何なのよっ、って言うかアンタ、ひとっ言もそんな話、しなかったじゃない!いきなり現れて、そんなこと言うんじゃないよっ」
氷魚は、瑪瑙の襟首を、ガクガクと引っ張りあげて怒鳴った。
「まっ、待て!ヒトの話は、最後までちゃんと聞けって…続きがあるんだよ」
締めあげられた瑪瑙が、じたばたと暴れる。
彼としても何とかして、この状況から抜け出さなければならないからだった。
「え?」
氷魚は、動きを止める。
「ぶは…死ぬかと思ったぜぇ」
瑪瑙は、襟元を直しながら、話し始めた。
「別に、生命自体が消えるわけじゃない、言い方が悪かったよな、ごめん…被っていた人の皮が破れて、孵化をする、これは覚醒めなんだ」
「覚醒め?」
きょとん、と首を傾げる氷魚。
「ああ。まだ時間もあるし、挨拶ぐらいしてこいよ。もう、会えなくなっちまうぞ?」
「あ…えなくなる?」
「そうだ、人として生きた記憶は、そのまま残る。相手も、お前を忘れない。だけどな、俺たち魔属っていうのは、人の目には見えないんだ。例え、目の前にいてもだ、姿も見えずに、声も届かない」
「そんな、どうして!?」
勢いよく振り仰ぐ氷魚に、彼は、どこか辛そうに微笑んだ。
「それが、決まりだからだ」
握りしめる氷魚の掌に、きつく爪が食い込む。
「ねえ、あと…時間、どれくらい?」
俯いたまま、氷魚はぽつりと呟いた。
「日没…陽が沈んですぐに、変化はくる。行くんだな?だったら母親に言っておけ、暗くなったら、絶対外に出るな、と。いいな?」
「分かった…」
ゆっくりと、木目地のドアが閉まる。
氷魚が部屋を出て行ってから、瑪瑙は悲しげに、一つ息をついたのだった。
「可哀相だが、仕方ないんだ…」
階段を下り、廊下を抜けて。
氷魚は居間に入った。
「ねえ、お母さん」
氷魚は、いそいそと、台所を片付けている母の背中に話しかけた。
「ああ、氷魚?お昼なら冷蔵庫の中よ?」
「うん、ありがと。ねえお母さん、あたしがいて、よかったって思ったこと、ある?」
「もう、どうしたの?あるに決まってるじゃない。ヘンな子ねぇ…」
彼女は、怪訝そうに眉を寄せた。
「ううん、なんでもない。ありがと、お母さん」
氷魚は、泣きそうになるのを、笑って誤魔化した。
「氷魚、あなた最近可笑しいわ?もしかして、どこか悪いの?」
母親は、心配そうに、氷魚を見あげていった。
「なんでもないの、ただ、聞いてみただけ」
「そう、ならいいけど…」
「お母さん、今日は、もう外には出ないでね?危険だから」
「氷魚?」
「絶対だよ?」
「え、ええ」
なぜか強く念をおす氷魚に、母親は、なにが何だか分からない、という顔をしながらも頷いた。
「元気でね、お母さん…バイバイ」
すれ違いざま。
氷魚は、そっと呟いた。
「ちょっ、ちょっと氷魚…なんなの?一体」
氷魚の、部屋のドアが閉まる。
「あ、氷魚」
戻ってきた氷魚に、話しかけようとした瑪瑙は、びくりと動きを止めた。
彼女は、泣いていた。
溢れる涙を拭いもせず、声を殺して、泣いていた。
「もう、全部渡した…あたしは、独りぼっちだ」
むせび泣く彼女を慰めるように、瑪瑙は、ポンポンと軽く背中を叩いてやった。
「陽が沈む。時間だ…氷魚」
「どうなるの?あたし」
開け放しの窓から入った風が、カーテンを大きく揺らす。
氷魚は風を纏い、青白く光り始めた。
「きれい…不思議ね」
風を纏いながら、流れるように、彼女の容姿は変化していく。
黒く、艶やかな髪から、燃えるような、赤みを帯びた銀髪へと。
「氷魚、お前に、言っておかないとならん事があるんだ」
じっと、変化を見守っていた瑪瑙は、ひどく言いづらそうに、口を開いた。
「なんなの?」
ぱちり、と瞬いた彼女の瞳は、深い青色に変色していた。
「俺は、親友に、お前を捜して守るよう頼まれた…」
「親友、て…その人が、なぜあたしを捜しているの?その人は、今どこに?」
瑪瑙は、気取られぬよう、きつく唇を噛んだ。
云うことを、躊躇したのだ。
伝えるべきか、否か。
まだ目覚めたばかりの彼女に、【この事】を伝えるのは酷だ。
分かっている。
けれど、伝えなければ、彼女を向こうに連れて行くことはできないのだ。
「ここに、こっちの世界にくる4日前に…死んだんだ。そいつは、氷魚、お前の兄だよ」
瑪瑙の予想どおり、氷魚は驚いた。
なにしろ、片割れの死を、告げられたのだから。
けれど、伝えたこっちも辛いのだ。
こんな事を思ってしまう自分が、なんとも憎たらしい。
暫くうち拉がれていた氷魚が、やっと、搾りだすように言った。
「あたしに、兄がいた?!死んだって言ったわね、なにがあったの?話して、お願い」
「いいのか?ホントに、聞きたいか」
初めて、距離を置くように言った瑪瑙に、氷魚は真っ直ぐな、澄んだ眼差しを向けた。
「いいの、話して」
彼女の目には、一点の曇りも、見受けられなかった。
真っ直ぐな瞳に促されて、瑪瑙は、その重い口を開いた。
「…あれは」
彼は、ぽつりぽつりと語り始めた。
4日前の、あの惨劇を――――――‐‐‐