ノンストップ人力紀行
本で溢れた一室
足元に広がった本の束を蹴散らし仰向けになる。どかされた本の束は迷惑そうにぱらぱらと不平を言う。染みだらけの天井を眺めて俺はまた同じことを考える。あれが口でこっちが目で…。つまらないことに家の天井には顔らしきモノがありすぎる。ありすぎてすぐに飽きた。何事も多すぎるのは良くない。それがたとえ顔みたいに見える天井のシミであってもだ。さてと、
「退屈だなあ。」
天井に向かってつぶやいた。
良さげなシミがこうもたくさんあるのだから、どれか一つくらいが画期的な案を俺に教えてくれる気がしたが、結局一シミとして発言するものは無かった。 なんだか俺が、俺というこの稀有な存在がこうして何をするでもなく、ただぼやいているのは罪であるような気がする。では一体、誰に対しての罪であるか。
たとえば母である。ズル休みさえ俺に許さない迷惑極まりないこの健全なボデーは母にいただいたものだ。
あと父。父にはなかなか男前の顔立ちと将来必ずハゲる宿命をいただいた。前者は大歓迎だが、後者の方は勘弁願いたい。運命に抗うべく俺は念入りなケアに徹するのだ。
ふう、あ〜あ。俺に彼女でもいればもう少し楽かもしれない。枕にしていた雑誌のグラビアを見ながらほんの少しそんなふうに考えた。とたんに俺は自分の未熟さと嫌悪感に震えた。持っていた雑誌を壁に投げつけ、枕を顔に押し付ける。パサッと乾いた音がした。俺は何を言っているのだ。恥を知れ、恥を。あの屈辱を忘れたわけではないだろう。俺は自分の未熟さを呪い、そう言い聞かせた。今は俺の学生時代のトラウマについて触れるつもりはない。
退屈が作り出す不安材料が俺の優れた城壁のように完璧でかつ、赤子のように健康で純粋な心を乱したのだ。このままでは俺のデリケートな部分を大々的に痛めつけてしまう。そんなことは一人段差のない道で複雑骨折するくらい自虐的で、無意味だ。誰にも迷惑をかけない代わりに誰も助けてはくれない。
俺はすかさず手元にある古い本を開いた。選ぶでもなく拾いあげた本はカフカの「変身」だった。どうせなるなら俺は蛹になりたい。何をするでもなく、ただ引き込もっているだけで光輝く蝶になるのだ。なんと楽だろうか。現実はそんなに上手くはいかないだろう。俺は。俺はどうだろうと思った。
俺は蝶になれるだろうか。天井を見た。瞬きもせず凝視してみたがぴくりとも動かない。やっぱり無駄か。そんなふうに思いながらごろんと俯せになると背後で誰かの声がした。
「おい、人間。面を上げよ。」
驚いて周りを見回したが誰の姿もない。ついに幻聴が聞こえるようになったのかと憂いていると再び声がした。
「もっと面を上げよ。そこじゃない。天井だ、天井。天井を見ろ。」
声は頭上から聞こえてきた。言われるがままに天井を見ると、たくさんのシミの内の一つがうっすら光っていた。笑っているような泣いているような顔のそのシミは俺に言った。
「人よ。お前は善人だ。欲もなくこんなぼろ小屋に居座り続け、身を削りながら生きている。近頃の者達は欲ばかりかいていけない。だが、お前は違う。お前にチャンスをやろう。」
俺は口をあんぐりと開けたまま、呆然としていた。思わず自分の目と耳を疑い頭でごつんと床を叩いてみた。強すぎて止めとけばよかったと思うくらい痛かった。夢にしては手が混んでいる。
「今日が終わり、明日の朝が始まる前にこの都にある七ツの神床を回るのだ。そうすればお前の願いを一つだけ叶えてやろう。」
こ、これは・・・、…。つい、に…キター!!
俺は全ての疑問を噛み殺して、自称神様の天井のシミに尋ねた。
「神様は世界を創ったって本当ですか?」
「…………言わん。」
「どこの宗派が本物なんですか?」
「…………言わん。」
「…じゃあ、神様ってちんちんついてるんですか?」
「………。」
「神様ってちんちん…。」
「もうやめろ!これから試練が終わるまでワシはお前に憑く!期限は明日の明朝。願いを叶えたくば急ぐがいい!」
そう言い残すと光はにじむように消え、声は止んだ。
瞼を開き、深呼吸をする。気がつくと俺は本が散らかった我が部屋に大の字になって眠っていた。天井には相変わらず人の顔みたいなシミがたくさんあったが、どれがしゃべっていたのかは分からない。
もしかしたら夢の中で勝手に作りだしたシミだったのかも知れない。これだけあるのにまだ足すとは、我ながら無駄な労力を使ったもんだ。
それにしても奇妙な夢だった。あのあとどうなるのだったのだろう。俺は言われた通り何処にあるのかよく分からない神床とかいうのを回るのだろうか。そうしたら俺は何を叶えて貰ったろう。お前の願いを一つ…、なんて言われてみたいもんだ。蛹のようにごろごろしているのが嫌になった。変わらない。何も変わらないのだ。
俺は蛹が必ずしも蝶になるわけでなく、蛾にも蝉にもカマキリにも、とにかく何にでもなるのを思い出していた。
そうだ本でも書いてみようか。俺の唯一のいいところは思いつきのいいことだと自負している。俺は緑色のカバーの着いた一冊を持ち上げながら考えた。この部屋には溢れかえるくらい本があるが、俺自身が書いたものは一つとしてない。まあ、当然といえば当然なんだけど。こんなにあるのだ。難しいとは言うまい。俺にも書けるだろうか。いや書けるって!
俺はペンを取り、大学ノートの余白に文字を書いた。
「私の名前は須田隼人です。」あんまり久しぶりだったもんでゆらゆらと震えたいびつな字だった。
よし、俺まだ漢字書ける!!
自分の名前を書いただけだったが、頭の中は御花畑であった。
よっしゃー。俺作家になるわ!いっぱい稼いで須田隼人賞を作ろう!
「おい、何をバカなことを考えてんだ。さっさと行け。」
無地だったはずのシャツを見ると不気味な女がプリントされていて、そいつは俺にそう言った。
「頼むから、カワイイのにして。」
俺が笑顔でシャツに話しかけると、B級映画のヒロインみたいな柄に変わった。
時刻は五時を過ぎ、夜はすぐ目の前に迫っていた。どこかでジングルベルを唄う声が聞こえた。
遅れてすいません。