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序・まこと

 

 ボロ屋でできた日陰


 ある夏の暑い日。まことは野球をしていた。本来、野球というのは大勢でするものであるがまことは一人だった。今年で18歳。ぎりぎり、ぎりぎりだ。まだ間に合うと信じている。

 高校はもう夏休みに入っただろうか。たしか昨年はそろそろ終業式だったはずだ。今年は例年より早かった気がする。なにせ一か月ほど学校をさぼり、ずっとここで一人野球をしていたもんだから、長い夏休みだ。曜日の感覚も無くなってくるのな、まことは思った。

 カンカン照りの猛暑だが、ここはやけに涼しい。大きなバイパスの通った下の町には歩いて2、30分もかかる。だが、周囲が森で、おまけに人なんて全く見かけないので特訓には最適だ。

 さすがにバットを振りすぎて疲れたので早めの昼食をとることにした。時計はおろか携帯も持ち歩かなくなった。おんぼろアパートとそれにできた陰地、むこうによく分からない発電所みたいな神社がある他はここには何もない。ありのままただ静かに、ひっそりと流れるここに通ううちに時間なんてどうでもよくなった。おおよそは太陽の位置で分かる。だから今は昼前、たぶん11時13分ちょっとだろう。

 コンビニで買ったおにぎりを口に詰めながら、ここは蝉がいないんだなと思った。耳を澄ませても蝉の声は聞こえない。遠くで水が流れる音がした。どこかに川が流れているのかもしれない。

 透明の袋にごみを入れ、丁寧に縛って荷物の下に敷いた。立てかけたバットを片手で持ち上げて構えた。もう片方の手でボールを宙に浮かす。そしてバットを思いっきり振る。ぶんっと乾いた音がした。振った瞬間にぶっ飛んで行ったのかボールはどこへ飛んだのか分からない。実際はそのまま地面に落ちたボールはころころと後方の斜面を転がって行ったのだが、吸い込まれるような青を凝視し続けるまことの目に触れることはない。

 今日は肩も調子いいしな。そう言いながらまことはバットを転がし、グローブをはめる。買ったばかりのグローブは硬いもんだとよく聞くが、ワゴンセールで買ったこれはまだたいして使っていないというのによく手に馴染む。ポーンと上に投げたボールを両手でキャッチする。うし、順調、順調。

 

 そうだ、順調に違いない。


 一か月ほど前のことだ。まことはまだ高校に行っていた。まことは部活を一回もやったことはなかった。なぜやらないのかと聞かれると、なぜ部活をしているんだと聞き返した。怠け癖があるわけでも根性がないわけでもない。勉強はまあそこそこ出来るし、几帳面だと思う。ただ純粋にやってる意味が分からなかったのである。スポーツ選手になりたいわけでもない。それに学生の本分たる勉強を差し置いて、別のことをやっているという面においてはテレビゲームと変わらないんじゃないかとさえ思った。別に勉強が好きなわけでもゲームが好きなわけでもないが。

 そんなふうにやっているもんだから運動神経が悪い。筋肉が足りないのではない。走るのは得意だ。ただ走る以外の体の動かし方がよく分からなかった。百メートル走以外の種目はいらないのにと体育の度に思う。

 あの日もそうだった。俺はいつものようにゴール下を守り、うる覚えのリバウンドをきめていた。めんどくさい時間はだらだらと過ぎ、やっとのこと終わったので帰る準備をしていた。

 「すいません。」後ろから声がした。か細い女の声だった。

 後ろから女の人に声をかけられるのに慣れていないのでどう返していいか分からず、結局「なんですか。」と背中を向けたまま言った。妙に顔が引きつって、どんな顔をしているのか自分でもよく分からなかったのだ。女の人は一瞬動揺したようだったが、すぐに話を続けた。「あの、三丁目のほうに住んでますか」さらりと流れるような声で聞いてきた。三丁目は近所だ。「そうですけど、何か。」言ったあと、自分でも不親切だなと思った。用があるに決まってるのに。「あの、あの、私を、私を甲子園に連れてってください。」びっくりするくらい大きな声だった。おもわず振り返りそうになった。やっぱり恥ずかしくてやめた。「甲子園て、あの甲子園か。」小学生がそっぽを向いているような声が出た。「はい、まえまえから行ってみたかったんです」ほっとしたような安堵の声だった。なぜかは分からない。「だめですか。」立て続けに言ってきた。さらにしつこくだめですかと聞いてきた。「だめに決まってんだろ。俺は野球ド下手なんだよ。」心の中で叫んだ。その叫びも彼女の次の一言ではかなく散ることになる。


「上田さんならやさしいから連れてってくれるって聞いたのに。」


 風がさあっと吹き、シャンプーの臭いがした。


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